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ジル・ドゥルーズ& フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』 読書メモ(15)

9 1933年ーーーミクロ政治学と切片性


・われわれは、あらゆる角度から、あらゆる方向 に 切片 化 さ れ て いる。 人間 は 切片 的 な 動物 なの だ。 切片 性 は、 われわれ 人間 を 構成 する すべての地層に含まれる。住まいと往来、労働と遊びなど、経験の世界は空間的に、また社会的に切片化されている。


・しかし、国家機構をもつ社会が、さらに は われわれ の 近代国家 が、 切片 性 の 度合 において 劣る と する 主張 には 難点 が ある と 思わ れる。切片と中央集権を分かつ古典的な対立図式は、ほとんどあてはまらないように思われる。

国家は、さまざまな切片を養い、存続させておき、そこに力をおよぼしていくばかりか、みずからの内部に独自の切片性をもち、その受け入れを強要するものだからである。


・中央集権の国家は円環状の切片性を撤去 する こと によって 成立 し た のでは なく、 さまざま な 円環 を 同心円 状 に 配置 する こと、あるいは複数の中心を共振させることによって成立したのである。

未開社会には、すでに数多くの権力の中心がある、あるいはむしろ国家機構をもつすべての社会に権力の中心がある。ただし、後者が共振装置として機能し、共振を組織化するのに対し、前者は共振を抑制するという知街を忘れてはならない。


・ヒットラー は、 ドイツ の 幕僚 を おさえる よりも、 むしろ 国民 に対する 影響力 を 掌握 し た。 それ は、「 社会 の あらゆる細胞に入り込むことのできる、他のものでは代用のきかない比類なき手段」をもたらすミクロの組織を、つまり柔軟な分子状の切片性、そしてあらゆる種類の細胞を浸す力をもった流れを、まず手中に収めたからだというのである。

【私見:これは、今まさに、問題となっている旧統一教会が行っている手法と同じと思える。自民党の国会議員が旧統一教会と関係があるのかどうかで、大騒ぎになっているが、実は、地方の自治体などで、すでに草の根活動を行っている。麻生副総理が約10年前に、「ナチスの手口に学べ」と発言して、物議を醸したことがあったが、今となっては、これは本音だったといえる。旧統一教会を含めた宗教右派と自民党の関係については下記を参照下さい。】

宗教右派と自民党の関係/ジェンダーと宗教(#ポリタスTV)|実熊 秀史|note


・要するに 分子 性、 ミクロ 経済学、 ミクロ 政治学 とは、 その 要素 が 小さい こと によって規定されるのではなく、その「群集」の性質によって規定されるのである。「群集」、すなわち量子をもつ流れ。これは切片をもつモル状の線とは似ても似つかないものだ。

切片を量子に対応させ、量子の性質に応じて切片を調節する作業は、リズムと様態の変化をもららすものだが、その変化は万能の力によって果たされるというよりも、むしろかろうじて実践されるというべきだろう。常に〈何か〉が逃れていくのである。


・タルドの書物で最も すぐれ て いる のは、 官僚政治 や 言語 における 微小 な 革新 を 分析 し た 部分 で ある。 デュルケーム 派 の 学者たちは、それは心理学とか関係心理学になるかもしれないが、断じて社会学ではないと反論した。

しかし彼らの主張が正しいのは、表面的で近似的な見方をした場合にかぎられる。ミクロの模倣は、明らかに一個人から別の一個人へと波及していくと思われるからだ。

それと同時に、物事の根本を見るなら、ミクロの模倣は流れや波動に関係しているのであって、個人に関係しているのではない。模倣とは流れの波及である。対立とは流れの二項化、二項構造である。

創意はさまざまな流れの接合あるいは連結である。ではタルドにとって流れとは何か?

信念あるいは欲望のことである(それが、あらゆるアレンジメントの二局面に相当する)。流れというものは信念と欲望で成り立っているのだ。信念と欲望はあらゆる社会の基盤である。信念と欲望も流れであり、その意味では「量化可能」な、真の社会的量になっているのに対し、感覚は質的であり、表象はその単なる帰結にすぎないからだ。


・つまり、ファシズムの場合、国家は全体主義的というよりも、はるかに自滅的だということ。ファシズムには現実と化したニヒリズムがある。全体主義国家 が 可能 な かぎり あらゆる 逃走 線 を ふさご う と する の に対して、 ファシズム の ほう は 強度 の 逃走上で成立し、この逃走線を純然たる破壊と破滅の線に変えてしまうからである。


逃走 線 が 逆転 し、 破滅 の 線 に 変わっ て い た から こそ、 ファシズム の あらゆる 分子 状 焦点 が突き動かされ、国家装置の中で共振するのではなく、むしろ戦争機械の中で相互に作用し合うようになったのである。

もはや戦争意外に目的をもたない戦争機械。破壊を中止するくらになら、むしろ自分に使える者すべてを滅亡させる機械。この危険に比べるなら、他の線にそなわった危険など、どれもとるに足りないものである。

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