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本質観取について

本質観取について、苫野一徳著『はじめての哲学的思考』と西研著「哲学は対話する」に基づいて、学びます。

本質観取について、苫野氏は、下記のように述べています。

本質 観取 の テーマ は、 たとえば 幸福、 友情、 不安、 希望、 教育、 芸術、 美、 恋、 愛 といった、 さまざま な 意味 や 価値 にまつわる 概念 だ。 椅子やテレビといった”物”についての本質観取は、できないこともないだろうけど、やってもあまり意味はないだろう。

苫野一徳. はじめての哲学的思考 (ちくまプリマー新書) (p.138).
筑摩書房. Kindle 版.

正義のような価値について「その中身は時代や文化によってかなり変わるし、そもそも非常に抽象的な言葉だから、イメージするのがむずかしい」と述べている。

正義の本質観取について、哲学者西研氏がワークショップを重ねた経験をもとに、手順を提案していると紹介していましたので、以下からは、西研著『哲学は対話する』を引用します。

正義は、多様性と普遍性がともに見出されるテーマである。時代や社会によって正義の基準が多様であり、また対立する双方が、自身の正義を主張して争っているために、正義はまったく相対的であり、何の根拠もないもののように思われる。

しかし、他方で、正義という観念をもたない民族や社会はありえないと私たちは思っているので、「正義という観念をもつこと」にはそれらの根拠があり、また普遍性がありそうである。

哲学にかぎらず、対話・議論においてはさまざまな考えが対立し、ほとんど架橋不可能なものになることがしばしば起こるが、「哲学」という営みにおける信念対立をどうやって超えるか、という問題に絞って考えてみる。

広義における哲学は、自然科学や数学も含むあらゆる学問的営みを包括する。一方狭義の哲学は、認識の価値としての真、個々人の行為や社会的営みの価値としての善や正義、行為や物事の有用性、私たち各自が享受する美など、さまざまな種類の「よさ」(価値)を対象とする。

哲学対話で、注意すべきことは、「唯一の真理」を想定すると、空転か信念対立につながりかねないことである。

これ に対して 現象学 は、「 各自 の 体験 世界 に 戻れ」 と いう。 唯一 の 正義 が ある と 決めつける こと なく、 また、 さまざま な 論者 の「 正義 論」 の 当否もいったん措いて、〈正義という事柄は、私たち各自の生(体験世界)のなかでどのような意味をもって現れているかを確かめよ。ここにこそ、探求が向かうべき地盤がある〉という。

西研. 哲学は対話する ──プラトン、フッサールの〈共通了解をつくる方法〉 (筑摩選書) (p.380). 筑摩書房. Kindle 版.

議論の空転や信念対立を避けて「正義の本質」を追求するには、現象学を活用することになる。現象学の大原則は、主題となる事柄(正義、自由、なつかしさ、嫉妬等)と私たち各自の生(体験世界)とが具体的にどのように関わっているかを浮かび上らせ、そこから共通了解をつくりだしていく、というものである。

「正義」について、このテーマと各自の体験世界との関わりを浮かび上らせ、それらに共通するものを見つけ出していく方法として、西氏は次のような手順を提示している。
①各人の問題意識の確認
②さまざまな体験例を出す
・主題に関する言葉の用法
・主題に関する実感的な諸体験
③上の事例に即した、主題の「意味」の明確化
とカテゴリー分け
④主題の「成立根拠」の考察
⑤最初の問題意識や途中で生まれてきた疑問点に答える

以下は具体的な進行の実例を示す。
①問題意識の確認
・正義の普遍性と相対性
・主観的な正義と客観的正義
・正義という言葉による自己正当化/正義と正義でないものとを判定する基準
・正義という観念の根拠/言語による意味内実のちがい

問題意識を出した結果を、西氏が以下の三つに整理した。
(1)正義という観念の普遍性及びその根拠への問い・・・・・「正義の観念には普遍性があるのか、もしあるのなら、それはどのような根拠によるのか、あるいはそのような根拠はないのか」

(2)正義に客観的基準への問い・・・・・「私たちが社会を生きるうえで共有しうる、恣意的・相対的ではない正義の基準はあるか」

(3)正義に絶対化への問い・・・・・「正義はなぜ、しばしば絶対化され独善的なものになるのか」

このように問題意識を出しあうプロセスが、とても重要であり、これを行わうことなく、いきなり正義の具体例から本質の抽出を行う作業に入ると、作業じたいが表面的・機械的なものになる、と西氏は語っている。

②体験例の検討ーーー正義の意味の明確化とカテゴリー分け
(1)正義のヒーロー(正義の例)
(2)災害時に救助活動(正義の例)
(3)学校でのいじめ(反対の正義の悪の例)
(4)カンニング、賄賂、株のインサイダー取引など(不正の例)

これらを議論した結果、整理すると以下となる。
a 社会正義〈人々が社会において共存するさいに「かくあるべきである」とされること〉。人権や公正さの尊重など。理念としての正義。

b 積極的な行為としての正義〈悪や不正をただす行為〉。警察や司法、また「いじめ」に反対するなど。

c まったく利他的行為としての正義
災害で困っている人を救助する、など。しかしこれは正義に含めない人も多い。

d 悪〈直接に他者に危害や損害を与える行為〉。殺人、傷害、窃盗など。

e 不正〈ルールを密かに破って私的利益を獲得する行為〉。株のインサイダー取引、わいろなど。

d 日常的に守られている正義〈ルールを守り他者を侵害しないでいること〉。

以上の検討をふまえて、正義の本質を以下のように、西氏がまとめた。

人びとが互いを、社会を構成する対等な仲間として認めあい、自分たちの平和共存と共栄のために努力しようと意志するところから生まれる「あるべき秩序の像」や「正しさの感覚」。これが正義と呼ばれる。

最終章である第14章は、正義をめぐる問題と学説の検討を行っていますが、これは省きます。

正義の問題といえば、トロッコ問題が有名ですが、これについては、二人とも、哲学の問題には相応しくないと否定的でした。

西氏の意見

サンデルは、この架空の例は「問題となる道徳的原理を分離し、その力を検証するのに役立つ」というが、私の考えでは、この例は正義の本質を考察するためには役立たない。(中略)

つまりこの架空の例は、「個人の権利」と「全体の福利」という、ともに追求すべきことを対立する二つ の 立場 に 分離 し た うえ で、 どちら が 正しい かを 迫る もの で ある。 この 問い は 正義 の 根拠( 本質) を 問うものとはならず、むしろ二つの立場を対立させることで正義の根拠をわからなくさせ、合理的な共通了解をつくりだすことをあきらめさせかねない。その点で、これはまさしく”ミス・リーディングな”問いなのである。

西研. 哲学は対話する ──プラトン、フッサールの〈共通了解をつくる方法〉 (筑摩選書) (p.427). 筑摩書房. Kindle 版.

苫野氏は、サンデル氏の議論がことごとく「問い方のマジック」に陥ったものだから、否定的だと述べている。

「問い方のマジック」とは二項対立的な問いのことであり、特に、意味や価値については、二つのうちのどちらが正しいということはありえないにもかかわらず、どちらかが、まるで(絶対に)正しい答えであるかのように人をあざむく、そして、人の思考を誤った方向に向かわせてしまう、と述べている。

われわれは、与党と野党のどちらが正だしいのかと、常に、選挙で選択をせめられているが、このばあいは、どちらも、悪いと答えたいところだが、どちらも、正しい面と悪い面がある。

にもかかわらず、常に選挙では与党が勝った結果、すべて与党が正しいということになり、やりたい放題の状態を放置しているという、ジレンマに悩まされ続けている。
最後は、蛇足の愚痴となりました。

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