ゆるい時代でしたよ、いい意味で
中学生の頃、三鷹市に住んでいた。当時の三鷹は東京と呼ぶにはおこがましい田舎町。住んでいた私でさえ、都内は山手線の内側だけであるという伝説を本気で信じていたぐらいだった。
駅舎も古臭く黒板とチョークの伝言板もあった。改札では駅員が改札鋏で切符をカチカチ切っていた。
駅前商店街も地方都市のそれのようで、南口から一本に続く大通りの両サイドに小さな商店が連なっていた。
当時の私のお気に入りは「にのたか」というゲームセンター。
なんだけど、入口の軒先でアメリカンなノリのおばちゃんが1人でやっている惣菜屋みたいなのがあった。
名物「にのたかウイング」というフライドチキン風のやつが一本50円で売られていた。注文すると
「サンキュー! 50万ドルよん」
とかいわれて変な気持ちになった。
こにに行けば必ず学校の友人がいたし、普段は合わない他校の奴らと交流する場でもあった。
裏通りには三鷹楽器ロックスポットという地元学生のロックの聖地があり、長髪に青いTシャツのユニフォームを着たメタリカみたいな店員が何人もいて、客なんかそっちのけでギターを弾きまくっていた。
店員は私が欲しいものよりも自分の好みを押し付けてくるという独特のセールス手法を駆使していた。でも面倒見はとてもよく、買ったあとのメンテナンスや修理はなぜだかいつもタダだった。
そのせいかどうかは知らないが、三鷹楽器は03年に廃業したという事実をネットで知った。
そして三鷹という土地で語らずにはいられないのが本題の
「江ぐち」である。
かつて三鷹通り商店街に存在した中華そば屋で、私は中学時代から大人になるまで食い続けていた。
当時は三鷹通りに面したボロ家で営業していたが、市の再開発プロジェクトがあり、駅前の一帯が建て替えられ「江ぐち」も雑居ビルのテナントとなった。その再開発プロジェクトは立ち退き問題でかなり揉めていたのを覚えている。
市の職員が、どうしても立ち退きたくないと泣きながら喚く雑貨屋の婆さんを押さえつけ、作業員がユンボを使って無理矢理その家屋を壊していく様がテレビのニュースにもなった。
本題に戻る。江ぐちのラーメンは美味いのか不味いのかさっぱりわからない。ただ、特別美味くはないが、間違いなくここでしか食えない味。
美味いものが食いたいとか、そういうつもりで行っては駄目な店だ。
店内は低めのカウンターのみで完全なコの字型のオープンキッチン。
要するに作っているところが丸見えだった。
そして、江ぐちはとにかく麺の量が多くて有名だった。
しかも安い。中華そばはなんと驚愕の270円なのだ。
まず器に元ダレと刻みネギを入れる。
次によくある赤いキャップの食卓塩の瓶の蓋にデカイ穴を開けたオヤジ手製の容器から、ドバー!っと勢いよく化学調味料が注入され、寸胴からシンプルな鶏ガラベースのスープが注がれる。
これが江ぐち流、丸見えの美学なのだろう。
次に麺を茹でるのだが、江ぐちにはワンタンメンとか玉子そばというメニューもある。これらの具材がすべて同じ釜で茹でられ、平ザルで仕分けられる。つまり、江ぐちの大将はかなり適当に調理をこなしていたので、頼んでもいないのにワンタンや玉子の切れ端のようなものが混入されたラーメンが出てくる。
たまにワンタンが入っていると「お?ラッキー」となり、玉子の白身が固まった切れ端のようなものが入っていると不愉快になった。
江ぐちは麺が独特で、中華そばと日本蕎麦の中間とでもいうか、とにかく江ぐちでしか食べたことのない麺なのだ。
年末が近づいてくると、当時のボロ屋だった頃の江ぐちに家族で行ったときのことを思い出す。
寒空の下、大して美味いわけでもないし、かといって決して不味くない中華そばを食べるために並んで店に入ると、兄貴は大盛りチャーシュー麺を注文し、私は普通のチャーシュー麺。
母は普通の中華そばを注文し、麺が多いといって私の丼ぶりに麺を移し、結果的に私は大盛りになっていた。
お袋は、なんだか楽しそうな顔をしていた。
江ぐちで中華そばを食べたあと、兄貴は駅前のパチンコ屋で羽根モノのゼロタイガーを、なぜだか行くたびに打ち止め終了で勝ち、常連客の羨望の眼差しの中、ファミコンのカセットと交換して家に帰るというパターンだった。
あの頃、町のさまざまな場所にあったローカルでリアルなコミュニティは、今でも残っているのだろうか。
残っていたとしても、二度とそこに入れることはないのだろうな。
インターネットが普及して、身の回りにはオンライン上のコミュニティだらけではあるものの、年齢をとったせいなのか、あの頃がなんだか懐かしくて、でもなぜだか寂しい気持ちが込み上げる。
※このコラムは2009-2015年までMacFanに連載していたものです。