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スクスタ3rdシーズンにラブライブ!の真髄を見る

本稿では、『ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル ALL STARS』(略称:スクスタ)のメインストーリー3rdシーズンについて、私なりの感想と考察を述べていくことにする。当然のことながら、3rdシーズンまでのすべてのメインストーリーのネタバレを含んでおり、さらにこれまでの『ラブライブ!』シリーズのアニメ作品のネタバレも含んでいるので注意されたい。

まず、結論から先に言うと、スクスタ3rdシーズンは私にとって非常に面白いストーリーであった。もちろん細かいセリフ回しなどで気に入っているものもあるのだが、大まかなストーリー展開で言えば、個人的に高く評価している点は次の5つである。以下、本稿では、この5つの点のそれぞれについて思っていることを述べていくことにしたい。


(1) 3rdシーズンの序盤において、従来シリーズのアニメ作品を補完するエピソードが盛り込まれていること

ラブライブ!シリーズでは、これまで様々なグループの様々なスクールアイドルごとに、彼女たちの成長物語が描かれてきた。しかし、アニメの尺の都合などもあり、十分な量の成長が描き切られているというわけではないだろう。例えばμ'sとAqoursに関しては、1クール13話に対してメンバーの数が9人なのだから、それぞれのキャラの成長を十分には描けないという構造的問題がある。

一方で、アニメよりも自由度の高いゲーム上のシナリオであれば、そのような問題をある程度までは解消することができる。現に、スクスタはこれまでのキズナエピソードにおいて、虹ヶ咲だけでなくμ'sやAqoursの各メンバーの成長を掘り下げてきた。とはいえ、キズナエピソードではあくまでもメンバー1人ずつの成長に力点が置かれており、メンバーどうしの関係性やグループ全体の成長という部分までをも掘り下げることは難しい。

その一方で、スクスタにおいてこういった「マクロな成長」の物語を描くのに最も適していると思われるのは、メインストーリーである。残念ながら、これまでのメインストーリーでは、μ'sやAqoursの成長を本格的に補完したストーリーはほぼ描かれてこなかった(3〜6章ではμ'sとAqoursに焦点が当たっていたが、従来シリーズの補完とまで言えるかは微妙なものであった)。もちろん、スクスタの主人公はあくまでも虹ヶ咲なので、μ'sやAqoursが最終的には脇役に回ることになるのは理解できる。だが、せっかくμ'sとAqoursを出演させるのであれば、3校のスクールアイドルどうしがそれぞれ成長しながら切磋琢磨していく様子をもう少し踏み込んで描くべきであった。3rdシーズンは、今まで描かれてしかるべきであったμ'sやAqoursの成長の「補完」を、初めて本格的に成し遂げたと言えるのである。

具体的に、3rdシーズンにおいてμ'sやAqoursの成長の「補完」がなされていた箇所をいくつか取り上げてみよう。

まず、μ'sについて。32章で、スクールアイドルエキシビションの一環としてμ'sのお悩み相談室という企画を立ち上げることになったが、凛が届いたお便りを読んでいると、転校が決まって不安を抱いているという内容の相談が目に止まった。凛は仲良しの友達と別れることのつらさに共感を寄せ、いつか花陽と離れ離れになってしまう時が来るかもしれないと悩むようになる。しかし離れ離れになっても友達の関係は変わらない、前に進んでみる勇気を持つことが大事だと思い直すようになるのであった。このエピソードでは、アニメでも触れられていた凛と花陽の関係性に新たな視点から光を当てており、アニメでのキャラの成長の補完と言うにふさわしいシナリオである。

次に、Aqoursについて。34章でAqoursは、同じくスクールアイドルエキシビションの一環としてAqoursチャレンジという企画を始めることになる。その中で3年生は、2年前に旧Aqoursを結成した際、スクールアイドルの大会で最後まで歌えずに敗退したことを踏まえ、その苦い思い出を「上書き」しようとする。いま、改めてスクールアイドルの大会に出場して、この3人で歌い切ったという経験を残そうとしたのである。3年生の過去に関するエピソードは周知のとおりTVアニメ1期で放送されたが、その9話において3人は2年越しにぶつかり合い、そして和解した。これに対して34章で描かれた3年生の物語は、まさしくこの3人が「過去にケジメをつける」物語を補完するものであり、3年生が2年前の苦い思い出もポジティブなものに更新しようとする点で新しさを見出すことができる。

もう一つ、Aqoursに関して特に重要な「補完」の物語があることを挙げておきたい。それは、Aqoursがμ'sに抱いていた「憧れ」の気持ちの持つ意味を、全面的に回復させたという物語である。『サンシャイン!!』1期12話では、千歌はμ'sを追いかけるのではなく自分たちだけの輝きを見つけると言い、部屋に掲示していたμ'sのポスターをしまってしまう。この時点でTVアニメにおいては、Aqoursが持っていた「憧れ」の気持ちのポジティブな側面が覆い隠されてしまうのである。これに対してスクスタ35章での千歌は、エキシビションの企画を通して、自分たちが憧れの対象になったということの実感を噛みしめ、「憧れ」は「原動力」なのであり、自分たちAqoursは「「μ'sに憧れたままでもいい」んじゃなくて、そうじゃなきゃいけない」のだという結論に至る。それと同時に、自分たちAqoursはあくまでもAqoursであってμ'sなのではない、とも強調する(41章)。たとえ「憧れ」の気持ちが自分らしさを埋没させてしまうリスクを孕むものであったとしても、それでも「憧れ」自体はかけがえのないものだと確認し直す。つまり、いったんは心の奥にしまい込んだ「憧れ」の再評価をおこなう、というのがスクスタ35章のシナリオだったというわけである。このAqoursの成長の「補完」のストーリーは、スクスタ3rdシーズン全体のテーマを考える上でも非常に重要な意味を持ってくるのだが、それは後に述べることにしたい。

ともあれ、以上で述べてきたように、μ's、Aqours、虹ヶ咲それぞれのメンバーに関して、主にメンバーどうしの関係性に焦点を当てながら、新たな成長を模索しようとするスクールアイドルたちの輝きを群像劇のごとく活写していく。このことは、3rdシーズン前半部(32〜38章)における大きな見どころの一つと言ってよいだろう。だがその一方で、3rdシーズンを序盤から終盤までの連続したストーリーとして見たとき、後に述べるように、この前半部にはさらに深い意味が秘められていたことに気づくのである。


(2) 3rdシーズンの中盤において、虹ヶ咲の「個」の意味が哲学的に深められていること

前項 (1) では、エキシビションの企画を通して紡がれたμ'sとAqoursの物語が、TVアニメシリーズで描かれたスクールアイドルたちの成長の補完となっていることを確認した。その一方で、虹ヶ咲がエキシビションの企画で行ったのは、自らの原点を振り返り自分らしさを再確認するという地道な作業だった。だが、それと同時に進行していた重要な企画がもう一つあった。それはPVの作成である。「あなた」は、『L!L!L! (Love the Life We Live)』の曲に合わせて、同好会だけでなく同好会以外の生徒みんながひとりひとり「主役」として参加しているような映像作品にしたいと考え、虹ヶ咲のPVの案を練ってきた。その作業は36章から38章にかけて、紆余曲折を経ながらも着々と進行していたのであった。そんななか、「あなた」がPVの作成の途上で直面した最大の困難と言えるのは、ニジガクの生徒たちが一律にダンスを踊る様子を見た「あなた」が違和感を抱き、PVの方向性が根本から問い直されるという出来事が起こったことだった。だが、「あなた」がそういった問題を乗り越えていく過程で、虹ヶ咲が持つ「個」の追求というテーマがさらなる深化を遂げていく、というのが38章までのストーリーであった。

同好会が持つ、ニジガクらしい「個」の輝きとはどういうものなのか。それは、端的に言えば、スクールアイドルとファンの垣根を超えた相互の関わり合いのなかで見出された「個」の輝きである。そのことは、エキシビションに出すニジガクのPVの方向性とは「スクールアイドルもファンも皆が “スクールアイドル”」であるという思想を打ち出すことだと30章で「あなた」が宣言して以来、虹ヶ咲がとってきた立場であった(そしてそれは2ndシーズン全体のテーマでもあった)。実のところ、このような相互関係性の思想は、虹ヶ咲のアニメ(アニガサキ)においても1期から一貫して非常に色濃く描かれてきていた。2期13話では、歩夢が「侑ちゃんもスクールアイドルだもん」とまで発言しているが、これは「みんながスクールアイドル」というスクスタの思想を下敷きにしたものと考えてよいだろう。スクールアイドルとスクールアイドルどうし、またスクールアイドルとファンどうしが、互いの「個」を輝かせ合っていく。その結果として互いに全く違う「個」が磨かれていくのだが、その根底にある想いは一つであり、その想いによってこそ互いに違う「個」が調和していく。アニガサキにおいては既にこのような哲学が徹底的に描かれていた(特に1期で描かれたこのようなテーマについての哲学的考察は、以前ブログに掲載したのでそちらを参照してほしい)。そしてスクスタにおいても、特に3rdシーズンにおいてその思想が掘り下げられているのである。

3rdシーズンの中盤で特に強調されていたのは、スクールアイドルとファンの濃密な関係性である。具体的には、同好会メンバーたちとバスケ部部長の関係を軸としたストーリー展開が挙げられる。スクールアイドルにエールをもらって懸命に試合に打ち込むバスケ部と、バスケ部からエールをもらって練習に打ち込み、再びパフォーマンスを通してファンに元気を与える同好会という相互作用が、37〜38章においてじっくりと描かれていた。そしてその結果、38章で「あなた」はアイドルという概念の本質に迫る重要な気づきを得ることになる。

事の発端は30章に遡る。前述の通り、「ニジガクの生徒みんなが “スクールアイドル”」だというメッセージを込めてPVを作ろうと、「あなた」をはじめ同好会の皆が決意する。しかし30章を読んだ時の私は、このメッセージ性についてやや違和感を抱いていた。というのも、スクールアイドルとファンの垣根を越えた境地を追求するというのは分かるが、しかしそれでもスクールアイドルはスクールアイドル、ファンはファンであって、両者を無理やり一緒くたに扱う態度は「個」の埋没という問題につながりかねないと思ったのである。だが、驚くべきことに、私が30章で抱いたこのような疑念は、実は37章で出来上がったPVに対して「あなた」が感じた違和感と全く同一のものだった。最終的に「あなた」はすべてのニジガク生徒にダンスを踊ってもらうのではなく、それぞれの生徒がそれぞれの好きなこと、得意なことに夢中になっている様子をPVで映し出そうとする。なぜなら、38章でミアが idol という英単語の意味を「あなた」に教えたことで、「あなた」は「アイドルとは誰かの憧れの的になっている人のこと」だと思い至り、その意味においてニジガクの生徒はみんなスクールアイドルなのであり、スクールアイドルのPVに彼女たちの日々を映し出すことの意義はたしかにあるのだと確信したからであった。


すなわちここで、3rdシーズンは虹ヶ咲が紡いできた相互関係性の哲学に新たな風を吹き込んでいる、と言える。たしかに、スクールアイドルはあくまでもスクールアイドルであり、ファンはファンでしかない。そこの認識を間違えると、没個性化という落とし穴に嵌りかねない。だが、スクールアイドルもファンも、それぞれの「大好き」を夢中に追い求め、それを通して互いに応援し合い夢を与え合っていくという点では共通しているのであって、その在り方を仮に「アイドル」と呼ぶのなら、スクールアイドルもファンも皆がそれぞれの人間性の本質として「アイドル」としての性質を含み持っていると言えるのではないか。つまり3rdシーズンが明らかにしたのは、スクールアイドルとファンとの間の厳然たる「差」を踏まえつつも、それらの垣根を超剋していくヒントというのは実際にあるのだ、ということだ。虹ヶ咲の物語は、自己を取り巻くすべての人々の存在意義を肯定的に問い直していく、人倫の哲学に他ならないのである。

(3) 3rdシーズンの終盤において、Aqoursと虹ヶ咲のそれぞれの個性が互いの個性を成長させていくという交流の物語が描かれていたこと

スクスタ3rdシーズンの最終章となった41章では、明確な夢を持てずに悩む「あなた」が、Aqoursのライブを観賞するなどAqoursと交流していく様子が描かれた。そして、そのAqoursとの交流を重要なきっかけとして、「あなた」は自身の夢、自身の輝き、そしてまた同好会メンバーたちの輝き(ニジガクらしさ)に気づいていく。この「あなた」の夢、そして同好会メンバーたちの夢というテーマを掘り下げるにあたって、重要な役割を演じていたのはAqoursだった。では、虹ヶ咲の問題の鍵を握ったのが他でもないAqoursだった、ということは何を意味しているのだろうか。これについては、3rdシーズンの物語の根底に潜む3つの背景に着目することで読み解くことができると私は考えている。

第一に、3~4章ではAqoursとともにスクールアイドルの「輝き」の正体をを探っていた「あなた」が、41章で、千歌と再び会話することでその「輝き」を見出したという点である。そもそも3章で「あなた」が沼津を訪れたのは、Aqoursの活動を見学することで、同好会の曲づくりの手がかりを見つけるのが目的だった。その途上で「あなた」は、ニジガクらしい輝きとは何かについて考えるようになる。そして4章では、自分たちの輝きの正体はまだ分からないが、いつか必ず見つけようねと、「あなた」と千歌は約束を交わす。一方で41章では、4章で「あなた」が千歌と交わした約束が一定の到達点に行き着いている。つまり、ひとりひとりが「夢中になってる姿」こそがニジガクらしい輝きの正体なのだということに、千歌からの指摘のおかげで「あなた」は気づくことができたというわけである。すなわち、41章は、3~4章の「解答編」にもなっている、と言うことができるわけだ。

第二に、Aqoursのライブを鑑賞してAqoursと交流を深めたことがきっかけで、「永遠の一瞬」に詰まった「輝き」を見つけて自身の悩みを解消した「あなた」だったが、TVアニメでのAqoursもまた『WATER BLUE NEW WORLD』や『WONDERFUL STORIES』のパフォーマンスを通して、自身の「輝き」の正体(一日一日の一瞬を楽しんで全力で生きること)にたどり着いていくという点。つまり41章は、このあとAqoursが『サンシャイン!!』2期の終盤へとたどっていく物語の「伏線」にもなっている、ということになる。41章で、「あなた」に対して千歌が投げかけた言葉が、そのまま自分たちの求める輝きのヒントにもなっていたという筋書きが秘められていると言える。すなわち「輝きの正体とは何か」という問いを提示した3〜4章に対する「解答編」は、「あなた」にとっては41章であったが、千歌にとってはTVアニメ2期である、と言ってもよいのかもしれない。

第三に、スクールアイドルらしさとは何かを探る虹ヶ咲にとって、Aqoursは「憧れ」という視点から重要なヒントを与える役割を担っているという点を指摘しておきたい。3rdシーズンの序盤でエキシビションの企画に挑戦したμ'sとAqoursは、不特定多数のファンと手紙で交流したことによって、ファンの視点からそれぞれのグループの個性を発見していくことになった。μ'sは、ライブパフォーマンスによって、はじめの一歩を歩み出そうとしているファンの背中を押してくれるような存在、すなわち「始まりの力」をくれる存在である(33章)。またAqoursは、スクールアイドルへの憧れを持っているファンが、その憧れを原動力にして自身の夢へと進んでいけるようエールを送ってくれるような存在である(35章)。そして、μ'sとAqoursのうち、ニジガクらしい輝きを模索する虹ヶ咲にとって、特に重要な意味を持ってくるのは必然的にAqoursのほうであるはずなのだ。というのも、ニジガクらしい輝きの鍵を握っていたのは、(前項 (2) で見たように)スクール「アイドル」であること、すなわち「誰かの憧れの的として輝くこと」に他ならないからである。人と人どうしが「憧れ」の力でつながり合うことにより自己実現を達成できる、という確信を誰よりも持っているのが3rdシーズンにおけるAqoursであり、人と人とが相互に「憧れの的」になり合うことで「仲間でライバル」の世界観を実現しようとしている虹ヶ咲にとって、そのAqoursが持っていた「鍵」は必要不可欠なものだった、というわけだ。

以上を踏まえると、Aqoursとの交流を通して(というよりもAqoursと交流したからこそ)、虹ヶ咲そして「あなた」は、「一瞬一瞬の輝き」と「(憧れを与え合う存在としての)個性的な輝き」という2種類の「輝き」の所在に気づくことができた、というストーリーの軸が浮かび上がってくる。Aqoursという、スクールアイドルと人とを「憧れ」の力で結んでいく媒介者によって、自分にしかない輝きを見出していく。そしてそれは、この虹ヶ咲の物語が『サンシャイン!!』の物語の「続編」としての意味を、たしかに持っているということも示唆している。このAqoursと虹ヶ咲の交流の美しさは、41章の醍醐味と言うべきなのではないかと思う。

(4) 「いまが最高!」というラブライブ!シリーズの普遍的テーマを、これまでの虹ヶ咲の物語を通して最も明確に描いたこと

過去でも未来でもなく、この現在(いま)を全力で生きるという姿勢は、無印、サンシャイン!!というアニメシリーズ全体を通して一貫して描かれてきた重要なテーマだった。μ'sの表現を借りるならば、まさしく「いまが最高!」ということである。だが、虹ヶ咲の場合、「いまを全力で生きる」というテーマよりも、「大好きを貫くこと」や「みんなで叶える物語」という、「全体の中の個」に着目したテーマがこれまで重点的に描かれてきた。それはスクスタにしてもアニガサキにしても似たような事情であった。

ところが、アニガサキ2期の11話にて、「いまを生きること」に焦点を当てたストーリーが初めて展開されることになる。自分たち3年生はそろそろ卒業してしまうという厳然たる現実を意識し、悲しげな表情を浮かべる果林に対し、「昨日や明日のことで悩んでたら、楽しい “いま” が過ぎちゃうよ」とエマが呼びかける。そして、「毎日 “いま” を全力で楽しんでいけば、きっと寂しいだけじゃない未来が来てくれると思うよ」と彼方が呼びかける。その呼びかけに応えるようにして、果林は虹ヶ咲の1stライブの開催というアイデアに至ったのであった。さらに、この「いまを生きること」というテーマは、その次の回である12話において発展的に継承されることになった。

一方、興味深いことにスクスタ3rdシーズンにおいても、アニガサキ2期の11話とほとんど同じタイミングで同じテーマを初めて描いているのである。あらすじはアニガサキと大きく異なってはいるものの、自分自身の「個」に関する悩みがきっかけで「いまを生きること」の大切さに目覚めていくというストーリーの方向性自体は、スクスタとアニガサキとで共通している。

しかし、スクスタに関してさらに特筆すべきことは、その「いまを生きること」と「”私” という存在の “輝き” を見つけること」が如何にして関係し合うのかということが、アニガサキよりもスクスタ3rdシーズンにおいてより明確かつ重厚に表現されているということだ。アニガサキ2期においても、11話や12話での成長を経た侑が、13話で自分の夢を実現していく様子が描かれていた。それに対してスクスタでは、「あなた」の繊細な心情変化を通して、「いまを生きる」からこそ「“私” は “輝く” ことができる」のだということが強調されている。そのような「あなた」の学びが、他者との活発な関わりのなかで次第に育まれていったということに関しては、既に前項 (3) において論じたとおりである。

ちなみに、「みんなで叶える物語」に主眼を置いてきた虹ヶ咲が初めて「いまを生きること」に視点を移したのとは対照的に、μ'sとAqoursは、エキシビションの企画を通して不特定多数のファンと手紙で交流し、かつてないほど「みんなで叶える物語」の視点に接近しているということは興味深い事実だと言えよう。

(5) 「みんなで叶える物語」というテーマから、「いまが最高!」というテーマへの「移行」を描いたこと

さて、「個」の追求というテーマがずっと強調されていた虹ヶ咲の物語が、ここへ来て一転して(スクスタ、アニガサキともに)「いまを生きること」というテーマに接近し始めたということは、先ほど(3) の項目の冒頭で触れておいた。もう少し具体的に言えば、38章までの中盤部分で「個」の意味を深める物語が展開され、終盤部分の序章となる39章から「いまを生きること」の意味を見出す物語が突如として始まったのである。そのため、一見すると物語の方向性が急に変わったような印象を受けなくもない。だが、この中盤から終盤への(唐突にも見える)つながりというのは、実は『ラブライブ!シリーズ』という作品を考察するうえで重要な意味を持っていると私は睨んでいる。このことは、無印、すなわちμ'sの物語と対比させることで分かりやすくなる。

そもそもμ'sが、μ'sとは結局どういうグループなのか、μ'sらしさとは何かという問いに悩み、「みんなで叶える物語」という結論を導き出したのは無印TVアニメ2期の10話だった。そこでμ'sは、ファンを含めμ'sを取り囲んでいるすべての人々との関わりのなかでμ'sは生かされている、その在り方こそμ'sというグループの本質なのだと結論づけたのである。ところが、μ'sがμ'sらしさを存分に発揮したことによりラブライブ!で優勝を勝ち取った先には、活動継続というファンからの期待が待ち受けていた(劇場版)。穂乃果たちは悩んだ挙句、「いまを全力で生きる」ことの大切さを熟慮したことで、活動は継続しないと改めて決めたのだった。

以上で述べた無印の物語は、「個」の追求という問題(=みんなで叶える物語)にいったん終止符が打たれ、グループとしての活動が円熟して飽和状態に至った段階で、「いまを全力で生きる」という問題(=「いまが最高!」の境地)が穂乃果たちの前におのずと立ちはだかってきた、という構造になっていることが分かる。実のところ、スクスタ3rdシーズンで虹ヶ咲がたどった物語も、その骨組み自体は変わらないのである。38章までの中盤で、あくなき「個」の探求をモットーとするニジガクらしいスクールアイドルのあり方を突き詰め、虹ヶ咲は自らのアイデンティティに一定の結論を出した(本稿(2) を参照)。だが、自らのアイデンティティを突き詰め、同好会メンバーがそれぞれの輝きを遺憾なく発揮するようになったからこそ、「あなた」は自身のアイデンティティの空白が浮き彫りになっていることに気づかされてしまう。しかし最終的に「あなた」は、「いまを全力で生きる」ことに自己実現の活路を見出すことになる……。

この、無印と虹ヶ咲の物語の奇妙な符合は何を意味しているのかという問いを考えたとき、私は一つの結論に至った。すなわち、「個」の探求は、「個」を取り囲む人々や環境との関わり合いだけでなく、その関わり合いのなかで「いまを生きる」ことで完成する。これこそが、『ラブライブ!シリーズ』が我々に伝えたいメッセージなのではないか。スクスタ3rdシーズンは、『ラブライブ!』というコンテンツの深淵を生々しくあらわにし、我々ファンに突きつけているのかもしれない、と思われてならないのである。




以上、5つの観点から、3rdシーズンが持つ思想的な深みを探ってきた。いずれも従来の『ラブライブ!』シリーズで濃密に描かれてきた中心的テーマでありながら、独自の着眼点に基づいてそれらのテーマを発展させ描き切っている。3rdシーズンに対する私の評価が高いのは、このような思想の深化が見出せるためである。

当然のことながら、3rdシーズンにはキャラクターどうしのさりげない日常描写やくだらない掛け合いも豊富に盛り込まれている。こういう演出もあってこその『ラブライブ!』である。とはいえ、本稿でそのような細かい演出やセリフ回しに至るまで逐一取り上げて評価するとなるとキリがない。そのため、3rdシーズンにおいて見出される抽象的な思想の部分に絞って、それらを体系的に論述していくという形式にせざるを得なかった。だが、それだけでも予想していた以上に文字数が多くなってしまい、我ながら驚いているところだ。

ところで、正直に言うと触れたくなかったのだが、ここでどうしても触れておかねばならない問題がひとつある。それは、スクスタ3rdシーズンが、「あの」スクスタ2ndシーズンの「続編」であるという不都合な現実に、我々はどう向き合っていけばよいのかという切実な問題である。私は1年近く前に、2ndシーズンがストーリーとして完全に破綻しており、『ラブライブ!』というタイトルを冠した物語として相応しくないという批判をブログに投稿している。それほどまでに2ndシーズンを批判していたにも関わらず、3rdシーズンではすっかり掌を返して本稿のように絶賛しまくるという態度は不誠実なのではないか、という謗りは甘受せねばならないかもしれない。

しかし、3rdシーズンが2ndシーズンの続編であることによって批判の対象になる、ということはそもそも何を意味するのだろうか。それは結局のところ、2ndシーズンでは凄惨な活動妨害にまつわる諸問題が有耶無耶にされたまま「大団円」を迎え、そしてやはり何のフォローもないまま、あたかも2ndシーズンの問題を覆い隠すようにして3rdシーズンのシナリオが平和的に展開していった、という理不尽さに端を発している。だが、その理不尽さに対する非難というのは、実は3rdシーズンそのものへの批判にはなっていないのではないか、と私には思えるのだ。なぜなら、2ndシーズンが持ち込んだあまりにも大きすぎる理不尽さというのは、その続編がどんなに天才的なライターによって書かれた傑作であろうとも、絶対に解消できないほど根深いものだからだ。つまり、そういった批判は3rdシーズンそのものに向いているのではなく、どんな秀逸な「続編」をもってしても解消できない爆弾を持ち込んだ2ndシーズンにしか本来向けようのないものなのである。

そしてその認識を踏まえているからこそ、私は2ndシーズンという存在を暫定的に「欠番」と見なし、3rdシーズンを純粋に楽しむことができた。当然、2ndシーズンを「欠番」と見なしながらその「続編」を読むことは必ずしも容易にできる芸当ではない。だが、実際に私が読んだ3rdシーズンは、一定程度2ndシーズンのあらすじから独立しており、なおかつ2ndシーズンの「続編」というだけですべて否定し忘れ去るにはあまりにも惜しい作品だった。私が3rdシーズンを楽しめる理由はそういうところにあるのであって、また、それ以外のところには見出せないのである。そしてまた、3rdシーズンに限らず、ミアとランジュが加入した後に発表されたすべての(スクスタ時空の)公式作品は、そういう態度でしか鑑賞しようがないのである。それをゆがんだ楽しみ方として虹ヶ咲を追わなくなるか、それとも虹ヶ咲にしかない輝きを信じて追い続けるかは、一方が正解で一方が不正解ということではなく、ただファンそれぞれの選択にかかっているのだ。




閑話休題。繰り返しになるが、3rdシーズンは虹ヶ咲というグループが秘める可能性を新たな次元にまで開拓しており、今後のシリーズ展開に期待を抱かせるには十分な内容だったと思う。例えばアニガサキ(特に2期)では、夢を持ちそれを追いかけることに貪欲であろうとすることの大切さが(侑を通して)描かれていたが、夢を持てない人々の存在にどう寄り添うのかという問題が指摘されていた。そんな指摘に対し、「明確な夢を持てなくても、一瞬一瞬を全力で生きていればそれでよい。スクールアイドルを応援するのが好きなら、それを全力で楽しめばよい。むしろそれこそが本当の意味で、夢に全力であることだ」と41章の物語は返答する。世の中の圧倒的多数を占める名もなき人々に、41章は、そして虹ヶ咲は、手を差し伸べていくのだ。

輝きに満ちたスクールアイドルを見つめ続けたファンが、その輝きに目が眩んでしまい、自らの凡庸さに直面してしまう。これはアニガサキ2期4話などにも見られた構図であり、メッセージ性自体は41章とあまり変わらないのだが、ファンの側に「明確な夢を持つこと」を要求するか否かが41章との決定的な違いと言えそうである。40章で薫子も示唆しているように、夢を見つけないといけないと焦るその気持ち自体も、実のところその人の「輝き」に他ならない。それは、その人固有の「輝き」があるからというだけでなく、その人のまわりにいるあらゆる人々の「輝き」と照らし合っているからでもある。

そしてそういった倫理観は、32~38章で描かれたμ's、Aqours、虹ヶ咲の群像劇を貫くテーマ、すなわちスクールアイドルとファンとの関係をより深く、哲学的に掘り下げていくことにもなっている。スクールアイドルたちは、時に「始まりの力」をくれる存在として、時に「憧れ」の力で人と人とをつなぐ存在として、多くの人々と共に生きる力を創造し、それを互いに分け合っていく。この徹底したヒューマニズムに彩られた世界観が、スクスタ3rdシーズンという作品の基底をなしている。それは、μ'sやAqours、虹ヶ咲がこれまでアニメで見出してきたそれぞれの「輝き」を調和・統合させることで完成した世界観である。

3rdシーズンは、Aqoursを物語の「鍵」を握る存在として、μ'sや虹ヶ咲の輝きを包摂しつつ、それらを体系的に組み合わせて美しい「スクールアイドルの物語」を完成させた。その卓越した構成力と、『ラブライブ!』という作品の本質を剔抉する深い洞察力は、『ラブライブ!』の歴史に新たな栄光を刻んだものと確信する。(了)

この画像と本記事のサムネイル画像は、スクスタ41章公開の翌日に筆者が撮影した写真である。

追記(2023年7月)

先月末をもって、スクスタがサービスを終了しました。これを受け、メインストーリー終盤にあたる4thシーズンから6thシーズンの感想と考察をnoteに投稿しました。

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