sekifu / 矢川
sekifu / 矢川 (2024 現実レコーズ)
Playボタンを押した瞬間、流れ出たギターフレーズに「あ、only onesだ」などと元ネタを探り当てて一人でニヤニヤするという私の悪癖が開始早々発揮されてしまったが、楽曲が進み楽器が重なってくるにつれて過去に何度も見たsekifuのライブの情景が蘇ってきた。sekifuはsekifu以外の何物でもなかった。
2006年頃に仙台市青年文化センターでsekifuのライブを初めて見て以来、私はその比類なき音楽に魅了され、前身バンドのキヌタパンの演奏も含む過去のライブ音源などを今回のリリース元でもありsekifuの盟友でもある澁谷氏にダビングしてもらったり、mixiのsekifuコミュニティー(管理人は現メンバーの清成さんだった)に加入して書き込みをしたり、東京までライブを見に行ったりもしていた。ある時期からは縁あってsekifuの数少ないライブで共演することが多くなり、毎回のように披露される大量の新曲に驚きと感動と畏怖を感じていた。その頃から漠然とsekifuのスタジオ録音の音源は一生出ないのではないかと覚悟していたし、それはそれでsekifuらしいとも思っていたので今回の1stアルバム「矢川」のリリースはまさに青天の霹靂であった。
このアルバムリリースによって20年近く謎めいた存在であったsekifuというバンドの鳴らしたかった音が明確な形で提示されたという意味は大きい。
それほど広くはないが、狭苦しくもない整理整頓の行き届いた部屋の中にメンバーが集まり演奏しているようなイメージが浮かぶ。これほど東京という都市の住宅事情を反映した音楽はなかなか思いつかない。リヴァーブなどのエフェクト処理を極力排したミックスもこのバンドの持つ品の良さを高める効果を担っている。
しかしながらsekifuは穏やかで品行方正な室内楽ポップバンドというわけではない。きめ細やかに採譜された譜面から逸脱し聴衆を唖然とさせてしまうような姿を過去のライブで何度も見たきたが、このアルバムでもミストーンがそのまま剥き出しになったエレキギターのプレイなどには60年代のティーンガレーヂパンカーのようなヤケクソな感じがあり、それこそがsekifuの大きな魅力の一つだと私は考えている。
実際の所、カラオケでテンションが上がりすぎて骨折した、飲み会で泥酔し帰り道で骨折した、などのどうしようもないエピソードも聴いたことがあるので、中央線沿線ロックンローラーの大人げない感じの伝統も受け継いでいるバンドなのかもしれない。
初めて聴く人にとってはかなり掴みどころのないバンドではあると思うが、クラシックやロックのみならず、校歌のような身近さと国歌のような厳かさまでもが同居する多様な音楽性、分校の吹奏楽部のような素朴さを感じさせる一方で電子音楽やテクノのようなミニマルで無機質なうねりを見せたりもする管楽器のフレーズや音色、控えめながらも楽曲に野性味と身体性を加えていくドラム&ベース、強固で美しい文体の詩を聴き手の心に刻み込んでいく関雅晴の訥々とした低く深い歌声、など今作の聴きどころは探せば探すほどある。
sekifuの音楽は聴き手の心境によっては希望的にも絶望的にも聴こえる両極性があり、ある意味危険な音楽でもある。私自身、何気なく散歩しながら今作を聴いていたら終盤の楽曲に通底する不穏なムードに異様な怖さを感じてしまったので、人によっては取り扱いの注意が必要なアルバムなのかもしれない。底なしの悲劇が放置されまくっている2024年の地球にとって相応しい音楽とも言えるが。
まあ一番怖いのはまだ録音されていない楽曲が200曲近くあるということなのだが、今後の人生の楽しみの一つとして気長にsekifuの次作や滅多に行われないライブの機会を待ち続けるのも乙なものであるに違いない。