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【デザイン思考の先を行くもの①】スペキュラティブ・デザインとは?

「あなたも最近ようやく私に追いついてきたのかしら」
 妻の右目は挑戦的な輝きを放っており、左目からは真贋を見極めるような鋭い閃光を放っていた。
「なんのことだろうか」
 私はあえて惚けてみせた。その態度が気に入らなかったのか、眼光に陰りが見えた。

「これをあなたは読むのよ」
 妻がテーブルの上に『デザイン思考の先を行くもの』と書かれた書籍を置いた。白と黒のシンプルな書籍だ。私は手にとってパラパラとページをめくっていると妻は続けてこう言った。
「スペキュラティブ・デザインって知ってるかしら。あなたはそれを覚えて体現しなければいけないの」
「舌を噛んでしまいそうな名称だね。僕にはきっと恐れ多いことだよ」
「人間はスペキュラトゥールとランチエの2タイプに分けることができるの」
 私の言葉などまるで聞こえなかったかのように妻は語り出した。
「これはパレートという社会学者の言葉よ。前者は思索者、後者は金利や配当で暮らす人の意があるわ」
 初めて聞く名称にどう反応していいか分からずに黙っていたが、妻は構うことなく話を続けた。
「パレートによればスペキュラトゥールは物事の新しい組み合わせを常に考えている人なの。それがスペキュラティブ・デザインに繋がっていくんだけど、デザインは問題解決と思いがちだけとそれだけじゃない。物事はこうなっていたかもしれないという思索の手段にもなり得るのよ」

 *

 私は目を閉じて、努めて理解するように妻の言葉を頭の中で何度も繰り返した。
「その、スペキュ…なんとかデザインを僕が体現するというのはどういうことだろう」
「いい? 未来は一本のレールじゃないの。起こりうる可能性には幅があるの。デザイナーは未来の選択肢の中から望ましい未来のシナリオを提示することなのよ」
「分からないな」
 私は首を横にふった。本当に分からなかったのだ。
「いいかい? 僕はそもそもデザイナーじゃないし、起こりうる未来の可能性と言われても何から手をつけていいか分からない。きっとこの本にはアートの話も出てくるのだろうけど、僕はキュビズムもフォーヴィスムの違いもよく分からない門外漢なんだ」  
 妻は大きくため息をついた。まるで成長してもなかなか巣から飛び立てない雛鳥を見るような顔つきだった。あなたはもう独り立ちしなければならないの、言葉はなくても妻の目は雄弁に語りかける。
「とにかくあなたはこの本を読むの。読んであなたなりに理解しなくてはならないの」
「わかったよ、僕はこれを読めばいい。それでオーケーかい」
「まだダメよ、これを要約して私に説明するの」
「どうして僕が君に説明しないといけないのだろう。君は読んだのだろう」
「読むわけないじゃない。私は忙しいんだから」
 僕は頭が真っ白になった。妻が何を言っているのか分からなくなったのだ。どれだけの間、沈黙していただろう。口の中が乾いていた。
「いい? 私はこれからプログラミングの勉強をすることにしたの。プログラミングを覚えることで情報化社会の基盤や枠組みを作ることができるの。それは素晴らしいことなの」
「そうかもしれない」
「でも私の体は二つないの。それは真実よ」
「君の体は二つない」
 私はオウムのように繰り返した。
「この話は前もした気がするわ。何度言わせれば分かるの。私の体は二つないから、本を読むこととプログラミングの勉強は一緒にできないの。だからあなたが読んで私に要約して説明するのよ」
 妻は少しだけ怒りを見せた後、背を向けて仕事部屋に向かってSurface を起動させた。事前に登録していたプログラミングの無料動画を見ながら勉強を始めていた。
「やれやれ」
 僕は『デザイン思考の先を行くもの』(各務太郎)を眺めながら、スペキュラティブ・デザインについて詮索を始めることにした。

次回へ続く


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