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コロナ世界の片隅で

「つまりキャンセルしたいってことかい?」
 電話を通して聞こえるマスターの声に抑揚はなかった。手狭なカウンター越しにため息をついている様子が眼前にまざまざと浮かんだ。
「僕としても残念なのですが、昨今の事情を考えると見送りたいと思っているんです」
「昨今の事情?」
 マスターの言葉には幾分懐疑的なニュアンスが含まれているように感じた。それは僕が感じたことであって、他の誰かが聞いてもそうは感じないのかもしれない。でも「昨今の事情」と聞いて察しがつかないのだろうか。
 
 *
 
「今、テレビやネットでも話題になっている新型肺炎のことです」
「あいにくテレビもネットもやらないんでね」
 今度は突き放すようなニュアンスに聞こえなくもない。ただ、アメリカとメキシコの間に壁が作られたように、僕とマスターの間には隔絶する何かが生まれはじめているようだ。
「でも、とても流行っているんです。ほら、17年前にもSARSって流行ったでしょう? あんなふうに…」
「そんな昔のことは覚えちゃいないよ」
 僕とマスターを隔絶する何かは確実に存在していて、超えられない壁のようにそびえ立っていた。
 
「ところであんたは何を恐れているんだい?」
 何を? 僕は言葉をつまらせた。
「…ですから、同じ空間に長い間、人がいて会話したり飲食をしたりすると、新型肺炎のウィルスに感染するかもしれないです」
「おかしなことを言うね、あんたは会社員かい?」
 そうです、と僕は答えた。
「それなら毎朝、電車に乗るだろう。会社に行くだろう。昼飯を食うだろう。そこに人はいないのかい。屋根があって戸がある部屋にずっといるんだろう。それと何が違うんだい?」
「そうかもしれない」
 僕は呟いた。それはマスターに聞かせるわけでもなく、自分自身への返事のようだった。
「でも、厚生労働省が不要不急の飲み会やイベントは避けるように国民に対して言ってるんです」
「やれやれ」
 沈黙が流れて、通話時間だけが流れていく。
「いいかい、あんたが予約をキャンセルしたいことを否定するつもりもないし、肯定するつもりもない。決まったオペレーションに沿って、電話対応をするだけさ。でもね、一つだけ言うよ、この世界はメタファーなんだ」
 

 
「メタファー?」
「表面ばかり見ては真実が曇る。世界の真実を読み解かなければいけない」
「メタファーなんて曖昧な。そんなものは具体的じゃないし、目に見えない」
「ウィルスだって目に見えない、そうだね」
 僕は言葉を失った。堰を切ったようにマスターが続けた。
「新型肺炎についてあれやこれやいう人がいるが、しっかりと考えなきゃいけないよ。お湯を飲んだらウィルスが死ぬとか、クルーズのなかが区分けされていないとか、そのまま鵜呑みにするのは三流エンジニアのやることだ。ウィルスもメタファーも目に見えないんだ。あんたの心の目で真実を見つけるんだ、いいね?」
 わかりました、と僕は答えた。
「あんただって、どう考えても無理なプロジェクトに仕方なく従事したことがあるだろう? 今の騒ぎも似たようなものさ。外野がやいやい言うのはうるさいだろう。カオスのなかで外野には見つけれらない真実を見つけるんだ」
 その通りだ。真実は一つでなく、一人一人がカオスのなかで掴み取らなければならない。
 
「長電話しちまったね、悪かったよ、そろそろ切るよ」
「待ってください、一体あなたは…?」
「あっしはしがないバーのマスターだよ。それ以上でもそれ以下でもない。落ち着いた頃にまた来ておくれよ。ベルギービールと焼き鳥を焼いて待っているよ」
 マスターは電話を切った。あたりには静寂が流れた。
 これは一体なんの電話だったのだろか。ただ一つ言えることがある。飲食店の予約をキャンセルするための電話で僕は世界の真実の一端を垣間見ることができた。この世界はメタファーなんだ、マスターの言葉が胸のなかで旋回を続けていた。

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