見出し画像

陰キャと陽キャを比べる必要はない

今まで書いた記事を読んだことがある方
であれば、私は根が明るくはないのだろうという
ことを想像されるかもしれません。

私自身、いわゆる「陰キャ」と呼ばれる存在だと
思っています。

そんな私も、幼稚園、小学校低学年頃までは、
自分で言うのも恥ずかしいですが、活発な少年
でした。

外で遊ぶのが好きで、放課後は友だちと
サッカーや野球、ケイドロ(ドロケイ)、
かくれんぼなどをしました。

ただ思い返してみると、
当時特に仲の良かった友人と2人でいるときや、
学校から借りた「まんが 日本の歴史」を家で
1人で読んでいるときのほうが、気楽で楽しかった
ように感じます。

小学校高学年になってからは、
私立中学への受験組と、地元の公立中学への進学組という、暗黙のグループ分けのようなものができ、
小学6年生の時に特にひどく、私立受験組は、
まるで自分たちは選ばれた存在かのように
振る舞い、教師や他人を小馬鹿にして試すような
ことをしたり、地元中学への進学組を見下すような生徒もいたりしました。

このとき、学校という空間で初めて息苦しさを感じました。

中学以降は、世間話をする程度の付き合いはして
いたものの、あまり深い付き合いはなく、
友人と呼べる存在も限られていました。

高校入学の際に、生まれ育った場所を離れたこともあり、幼少期や小中学校で関わりのあった友人、
知人たちとは疎遠になったことも一因かも
しれません。

当時は地元を離れることに寂しさもありましたが、今にして思えば、世間体が全ての、歪んだ選民意識とプライドだけは高い地域とのつながりが切れた
ことは、自分の人生にとってプラスだった
と思います。

今現在、友人と呼べる存在は、片手に収まるくらいです。

一般的に、「陽キャ」と呼ばれる人からすると、
私のような人は、"友達が少なくてかわいそう"
"コミュ障だから友達ができない""友達が少ない
のは根暗だから"
、などと思うのかもしれません。

私から言わせると、余計なお世話、の一言に
尽きます。

陰キャは広く浅くではなく、狭く深く関係を築く
ことに長けているので、頭数は少なくていいの
です。

私自身は、顔と名前も一致しない、誰が誰だか
わからない、そもそも、友人かどうかもわからないような存在がたくさんいるよりも、1人1人の顔と
名前がわかり、どんな人となりをしているかわかる方が、よっぽどいいと考えています。

また、陽キャは休日も外で誰かと一緒に過ごすのが楽しいと感じる人がいる一方、陰キャは自宅で1人で
過ごしている方が楽と感じる人がいるのではないでしょうか。

これはどちらがいい悪いではなく、それぞれの人の気質の問題なので、この点について、優劣をつけるつもりはありません。

しかし、どういうわけか、私が出会ってきた、
「陽キャ」と呼ばれる存在は、陽キャ同士で楽しく
やるだけに飽き足らず、陰キャと呼ばれる存在の
ことを見下し、陽キャなのに陰口を叩き、優劣を
つけたがる。

そんな彼らは本当に陽キャと呼べるのだろうか、
外側は明るく見えるけど、内面は陰キャよりも
すさんでねじ曲がっているのではないか、
と不思議に思ったものです。

そう考えると、外から見える賑やかな雰囲気も、
内側は決して楽しいものではなく、不満や不安が
あり、それらを解消するために、自分たちよりも
弱そうに見える陰キャを叩いて、自分たちは陽キャだということを確認し、存在を保とうとしている
ように見えるのです。

陽キャの方が活動的で、人脈の構築力や、
コミュニケーション能力も高い傾向にあるので、
うらやましく思うこともありますが、陰キャは
陰キャで、1つのことを深く掘り下げることができ
たり、自分自身の内面と向き合うことができたり、想像力を働かせて物語や作品などを生み出したり
します。

陽キャがよくて、陰キャが悪いという、
単純な二元論ではなく、それぞれの良さがある
のですから、馬鹿にしたり優劣をつけたりするの
ではなく、互いの気質を理解し、陰キャ、陽キャ
などの気質をとっかかりに、この人はどんな人か、ということに目を向け、向き合っていく必要があるのではないでしょうか。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

いいなと思ったら応援しよう!