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日本の人間関係の真実
「人間関係はギブ・アンド・テイクだけではない。
家族や友人、恋人などは、情によって結びつくものだ。」
そんなことを誰かが言っているのを聞いて、
かつては私もそう信じていました。
そう信じたかったのかもしれません。
しかし、「世間」について知るようになってから、
日本の人間関係は、ビジネスだけでなく、
どんな場面でも、「自分にメリットがあるか」
ということを基準にしているのではないか、
と考えるようになりました。
なぜなら、私たちが実際に住んでいる「世間」は、
贈与・互酬関係、つまり、「他人になにかをして
もらったら、自分はお返しをしなければならない。
自分が相手になにかをしたのだから、
相手から見返りがあって当然」、という関係が
前提、ルールとしてあるからです。
そんなことは当たり前じゃないか、と思うほど、
私たちは「世間」での生き方を自然と身につけ、
疑うことなく行い、そして「世間」の前提やルールによって自らの思考や行動を縛られるのです。
以下の様々な場面を、利害関係をもとに、
「世間」を通じて見ていきたいと思います。
①災害が他人事に思える理由
日本で地震や津波、土砂崩れなどが起きた時、
「世間」の力がいい方向に働いた場合は、
「世間」の人々の中で連帯し、助け合うことで、
比較的早く復興へと進む原動力になります。
被害の該当地域にある、元々あった「世間」の人々同士のつながりや、"同じ被害を受けた"、という
共通項がある人同士は、同じ体験をした「世間」の人々という意識を共有し、結びつくことができるのです。
しかし、被害を受けていない他県の人、
東京にいる政治家や官僚たちからすれば、
"他人事"なのです。
なぜなら、これらの人々にとっては、
自分たちの属しているそれぞれの「世間」に
関係のないこと、もっといえば、"自分とは関係の
ない世界"の出来事だからです。
これがもし、被害を受けた地域に、家族や友人、
知人、支援者や後援会の会長、同じ役所のOBなどがいれば、途端に他人事ではなく、"自分に関係のある世界の出来事"に変わり、なんとしてでも支援や援助をしようとするのです。
それは後々になって、同じ「世間」に属する、
家族や友人、知人など、自分と関係のある人たち
から、
同じ「世間」の仲間のはずなのに助けなかった。
見殺しにされた。
あいつは同じ「世間」にいる人間ではない。
などの声が、自分の所属している他の「世間」の人々に伝わり、非難や攻撃を受けるのを恐れるからです。
特定の個人が冷たい人間だから、心のない人間
だから、政治家だから官僚だから、というような
問題ではなく、ある出来事に対して、自分の所属
している「世間」に関係があるかどうかで判断しているのです。
そもそも、政治家だから、官僚だから、のように、
同じ日本で起きていることにも関わらず、
"◯◯だから"、と一線を引くことは、自分と関係のない世界として、自分の関係のある「世間」と
切り離して見ているということなのです。
②ボランティアが根づかない理由
日本では、ボランティアや、慈善事業は"偽善"、
そうした行いをする人は"偽善者"、とみなされる
ことがあります。
もちろん、慈善事業をかたった怪しいビジネスも
ありますが、
福祉施設へ寄付をする。
難病の治療薬開発のための基金を設立する。
医療機器を無償提供する。
これらの行為をした場合、周囲からは、
自分のことをよく思われたいんだろう。
そんなものは偽善者のすることだ。
そんなことをしてなんのメリットがあるんだ。
などの声が挙がるのではないでしょうか。
なぜなら、寄付をした人が寄付をした側と、
同じ「世間」にいない、つまり、自分とは関係ない世界のことのはずなのに、見返りを期待できない
のに、なぜそんなことをするのか理解できないからです。
これが、寄付した人が、たとえば、タイガーマスクの主人公 伊達直人のような、寄付した先の福祉
施設の出身、という、かつて所属し、ゆかりのある「世間」に対しての行動であれば、"美談"として
称賛されるのです。
なぜなら、かつて福祉施設で受けた恩を返す、
という、贈与・互酬関係が成り立つからです。
誰かに対しての良い行いという行動も、
自分の考えや行動よりも、「世間」の意向に
沿うかどうかで、評価が決められてしまうのです。
③親が子供に親孝行を求める理由
子供が成長し、親のことを顧みなくなると、
この恩知らず。
育ててやった恩を忘れたのか。
親不孝者。
勘当だ。
などの非難やそしりを受けることがあります。
"家族は情でつながっている"、"無償の愛"
というのは、ウソだということがわかり、
現実を思い知らされる瞬間ではないでしょうか。
では親はなぜ子供にそのようなことを言うのか。
それは見返りを求めているからです。
"手を掛け、自分の時間を犠牲にしてまで子に
尽くし、育てたのだから、見返りがあって当然だ。"
"子供が幼い時から面倒をみてきたのだから、
親が年老いた時に、同じように、今度は子供が
面倒を見るのは当たり前だ。"
子育てをしている時は意識をしていなくても、
無意識のうちに、将来子供が「世間」でいい評価を受け、自分たちもその恩恵に預かることができ、
そして介護をしてもらうことなどを期待している
のです。
日本の中での一番小さな「世間」は家族です。
最初に所属する「世間」である家族が、
幼い子供にとっては、自分の生きる世界の
全てなのです。
ここで「世間」のルールである、
贈与・互酬関係を、親のしつけや経験から学び、
「世間」の考え方の強い親に育てられた場合、
子供は、たとえ大人になり、自らの家庭を持った
としても、親が死ぬまで家族という「世間」に
縛られ、個人としての人生を生きることは
許されず、場合によっては、自らの人生を犠牲に
することを余儀なくされるのです。
儒教的な綺麗事で美しく語られる、
家族や親子の関係も、例外なく利害関係が絡んで
くるのです。
④結婚に幸せを感じない理由
結婚したこともないお前が言うな、と言われるかもしれませんが、どういうわけか、既婚者で、
"幸せだ"、"結婚してよかった"、という人を見かけないのです。
結婚をゴールにしているから。
結婚すれば幸せになれると思っているから。
結婚は現実だから、生活だから。
結婚すれば幸せが手に入ると思っているから。
このような色々な理由で、結婚への不満に対する
理由づけがされていますが、「世間」という点から見れば、結婚によって、1対1の男女の互いの利害が
むき出しになるからです。
そして、結婚する当事者間だけでなく、
男女それぞれが属している、家族・親類という
「世間」が絡んでくるからです。
「世間」は、所属する人間がある程度複数いて、
それぞれに対して、メリットを提供したり、
見返りを求めたりします。
頭数が多い分、やり取りする数は増えますが、
個々でのやり取りには濃淡が出ます。
それが1対1の男女の結婚となると、
お互いが相手に求めるメリット、見返りを求める
感情がむき出しになり、相手に対してストレートに伝わります。
自分は仕事を休んで育児をしているのだから、
仕事のことばかり優先するのではなく、
相手にも仕事を休んで手伝ってほしい。
高収入でお金がたくさんあるはずなんだから、
自分のことばかりに使わないで、
自分よりも家庭にお金をたくさん入れてほしい。
昨日は自分がゴミ出しをしたんだから、
今日は相手にやってほしい。
などの、必ずしも金銭的なメリットではないに
しろ、自分のした行為に対する見返りや、自分と
同じ程度の行動を相手に求めることを、意識せず、当たり前のように行っているのではないでしょうか。
さらに、結婚した男女間の利害関係だけでなく、
それぞれの両親などの、家族という「世間」が
絡んでくると厄介です。
うちは医者の家系だから、生まれてくる孫にも
医者になって欲しい。
もっと出世して稼ぎをよくして欲しい。
◯◯家の人間として相応しい振る舞いをして
欲しい。
など、結婚した男女の考えなどを無視したような、言動や行動をする両親、親戚などがいるのは、
そういう発言をしている人々が所属する「世間」へのメリット、特に、よそ様へ自慢できる世間体を
期待しているからです。
そして、離婚する場合、感情面や相性などの問題もありますが、お互いの利害関係の構築に失敗した、あるいは、男女それぞれの背後にある「世間」との利害関係の構築に失敗したから、ということも
言えるのです。
⑤相続が争族になる理由
相続こそ、まさに利害関係が絡む場面です。
それまで仲の良かった親兄弟、親戚同士が、
亡くなった人の喪が開ける前から、遺産をめぐり、少しでも多く分け前を得ようとあらゆる手を使う。
小説やドラマで取り上げられるほど、
利害関係や「世間」がむき出しになるのが
相続です。
争族は遺産が多い金持ちだけのものと思われるかもしれませんが、現実は逆なのです。
資産が多い方がむしろ、ある程度十分な資産を、
事前に贈与したり、遺産として分けたりすることができますが、資産が実家の土地建物だけ、
少ない預貯金だけとなると、少ない遺産を少しでも多く取ろうとして争いが起きるのです。
亡くなった人の配偶者や子供などの、
相続人だけでなく、子供の配偶者、配偶者の両親
などが絡んでくるのは、それぞれの「世間」に、
少しでも利益を誘導しようとするからです。
そこには家族の情や、亡くなった人への弔意などはなく、ただ"メリットが欲しい"、という、普段は
綺麗事で隠されている本音がむき出しになるの
です。
私も争族の一端を垣間見ました。
争族は1人の人間の人格を変えるほどの影響力があります。
争族に巻き込まれた人々は、ある意味「世間」の
被害者と言ってもいいでしょう。
ここまで利害関係をテーマに、
「世間」を通じて様々な場面を書きました。
「世間」も、利害関係やルールに従う限りにおいては、いい方向に働くこともあります。
しかし、私はどちらかというと、あまり恩恵を
受けずにきたため、「世間」に対して生きづらさや息苦しさを感じてきました。
もちろん、全てが利害関係や「世間」で説明できるわけではありませんし、今まで書いてきたことに
当たらないケースもあるでしょう。
しかし、日本の人間関係には、利害関係や「世間」が根底に存在することを理解し、現実を受け止める必要があります。
正直、生きづらさや息苦しさの正体を求め、
「世間」に行き着いた時は、パンドラの箱を開けてしまったような、知恵の実を食べて楽園から追放
されたような、絶望のような感覚を覚えました。
それは、日本には「社会」がないことや、
「しょうがない」という言葉があるように、
「世間」は変えられないものなのだ、と昔から
ほとんどの日本人が考えて半ば諦めている、敗北を認めているからです。
しかし、「世間」は現実に存在し、この先も
「世間」で生き続けなければいけません。
「世間」のことをもっと知り、今後の自分の
身の振り方を考え続けることが今の私の課題です。
この記事を読んでくださった皆さんに、
少しでも「世間」について関心、興味を持って
いただけたらうれしいです。
そして、「世間」をきっかけに、今日本で起きて
いること、身の回りで起きていること、身近な
人間関係などについて、考えていただけたら
もっとうれしいです。
皆さんは「世間」をどのように感じ、
これからどのように生きていきたいでしょうか。
ここまでお読みいただきありがとうございました。