旧石器時代のiPhone
iPhone7を使っている。
私がiPhone7を使っていることを知ると、愚かな友人たちは
「古っ」「まだそんなの使ってるの?」
「買い換えないの?」「不便じゃないの?」
「ださっ」「旧石器時代のiPhoneじゃん」
などといった心無い言葉を私に浴びせてくる。
iPhone7に不便なことなど一つもない。
君たちは何もわかっていないようだ。
洗練されたデザインに抜群の機能性、滑らかな手触りの美しいボディにチャーミングなホームボタンを備え、電話もメールもインターネットもみんはやもできる最高の端末、それがiPhone7だ。
(iPhone7の機能をプレゼンするスティーブ・ジョブズ氏)
分かったなら無駄な機能のために肥大化したそのみっともないiPhoneは捨てて今すぐ中古サイトでiPhone7を購入するのだ。
”iPhone5s→iPhone6→iPhone6s→iPhone7”
私は高校一年からこれまでこの順番でケータイを使ってきた。
”慶応初等部→慶応中等部→慶応高等部→慶応義塾大学”に匹敵するほどの輝かしい経歴だ。
私のことを「iPhone界の慶応ボーイ」と呼んでくれてもかまわない。
最初のiPhone5s以外は中古で購入したが、本体はクリーニング済みでバッテリーの交換も済んでいるから、使っている感覚はほぼ新品と変わらないし、まったく不便を感じたことはない。
どうやらiPhone10やiPhone11は画面が広くなったり顔人称機能が付いたりカメラのレンズが増えたりしているらしいが、今のところそういった機能を必要だと感じたことはない。
むしろ私はそういった本来なら必要のない機能が当たり前になり、それがない状態を「不便だ」と感じてしまうようになることの方が恐ろしい。
便利や贅沢に慣れてしまうことほど悲しいことはない。
小さい頃はガリガリ君やヨーロピアンシュガーコーンを食べて大はしゃぎしていたのに、大学生になり、好きに自分でアイスを買って食べられるようになった今、ピノやパルムを食べてももう昔のような感動は得られないのである。
慣れとはなんて残酷なんだろう。
あの時100円のアイスクリームで感じることのできた幸せはもう100円では買えなくなってしまった。
アイスクリームの味や値段が変わったわけではない。
変わってしまったのは私の方なのだ…(細い目で遠くを見つめる)
こんな悲しい思いはもうしたくないとは考えながらも愚かな私は、AirPodsProを購入し、YouTubePremiumに加入してしまっている。
どちらも便利すぎる。
この二つがない生活に戻るとしたら私はきっとストレスで発狂するだろう。
必要以上に便利すぎるものが多い世の中になってしまってはいないだろうか?
イヤホンが有線でも楽しく音楽を聴いていたし、YouTubeに広告が付いていたって問題なく動画を見ていたはずだ。
人間の持つ「楽をしたい」という青天井な欲望に社会がこたえすぎてしまっている。
欲望は無限でも人が稼ぐことのできるお金と地球にある資源は有限だ。
ついこの前まで洞窟に住んでみんなでマンモスとか捕まえていたはずなのに、いつのまにか一人一台スマートフォンがないと生きていけない社会になってしまった。
さらにはそのスマートフォンが古いだけでバカにされる始末だ。
「普通の生活」を送るために必要なお金はこれからも上がり続けてしまうのだろうか。
そんな未来におびえながら私はこれからも四畳半の洞窟で旧石器時代のiPhoneを使い続けるだろう。