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あのとき、ゴールを決めていたら?:2010年6月29日の中村憲剛

中村憲剛について書こうと思ったが、タイトルがどうにも思いつかなかった。なのでなにを書くかしばらく決められなかった。

「さらば中村憲剛」とはしたくない。「中村憲剛の思い出」というのもどこかしっくりこない。「中村憲剛は永遠に」というのもポエティック過ぎる。

結局、自分の中で一番忘れられない瞬間を書くことにした。10年前の6月29日のことを。

この日は、サッカーワールドカップ南アフリカ大会、ノックアウトステージの日本対パラグアイ戦があった日だ。

2010年6月29日

この試合、中村憲剛は途中出場。日本もパラグアイも点を取れず、延長戦に入っていく。

延長戦の後半、玉田圭司がペナルティエリア左側を突破する。角度はないがキーパーと1対1。ゴール前には中村憲剛。

中村憲剛はショートパスを予測したのか、玉田に近づいていく。しかし玉田は、その一瞬前まで中村憲剛がいた場所に向かって強めのパス。

ボールは中村憲剛とすれ違ってしまい、パラグアイにクリアされてしまった。

当時を知らないサポーターの方は、FC東京戦で三笘薫が突破して中村憲剛にパスし、ゴールをした場面を思い浮かべてもらえればいいと思う。あの場面で、三笘のすぐそばに寄ってしまったためにゴールの機会を逃した、というイメージだ。

この試合は結局PK戦の結果敗れ、日本代表は準々決勝進出を逃した。

この悔しさは忘れてない。忘れたくないから、日付と対戦相手が記されたこの試合のレプリカユニを買った。今でも着ている。アウェイの試合を見に行くとき、フロンターレのレプリカ着ていくのは憚られるので、この日本代表のレプリカを来て行く。

そのたびに思い出す。あのとき中村憲剛がゴール前でパスを待っていたら、と。

そうすれば間違いなくゴールだった。時間は延長戦の後半の終了間際。その後逆転されたとは思えない。日本は準々決勝に進出し、イニエスタ全盛期のスペインと対戦したはずだ。

あのときのスペインは優勝したが、調子を上げたのは準決勝からだ。準々決勝のパラグアイ戦もかなり苦戦していた。日本もかなりいい試合ができていた可能性がある。

そうなったら、中村憲剛を取り巻く環境は現実とは大きく変わっていただろう。

今みたいに川崎フロンターレのバンディエラとはならず、もしかしたら海外進出もあったかもしれない。

あるいは、日本代表に定着し、ブラジル大会で大久保嘉人とのホットラインが実現できていたかもしれない。中村憲剛と大久保嘉人がそろって出ていれば、ギリシャ戦で1点取って勝つことができていたのではないかと思う。

どうしても、中村憲剛のことを思うと、このパラグアイ戦を思い出してしまう。

「もう1人の中村」から

J1から1年でJ2落ちしたものの、J2では上位に定着していたフロンターレ。中村憲剛が最初にメディアに取り上げられたのは、当時全盛時だった中村俊輔の「影」として、「もう1人の中村」という位置づけだったと思う。

当時の監督は関塚隆。この時のフロンターレや、後のロンドン五輪代表チームなど、関塚のチーム作りに共通していることは、強力なセンターバックによって最終ラインを安定させ、パス能力の高いボランチと一瞬のスピードに優れたフォワードを組み合わせた鋭いカウンター攻撃だ。そのボランチの役割を担ったのが中村憲剛だった。

中村憲剛に夢を託して

いつしかフロンターレサポーターは、中村憲剛とジュニーニョに思いを託していく。ジュニーニョだけでなく、チョン・テセや大久保嘉人にも。リーグ戦優勝の夢が現実的になってきたのはその頃だった。

2017年の初優勝の時。それまで、優勝を逃したすべての試合を私はテレビ観戦していた。「テレビで見ているのが悪いんだ」と訳のわからん縁起を担いでその日はテレビを封印。けれど途中で我慢できなくなって付けたら3-0で大宮をリード。一方、アントラーズ対ジュビロは0-0。フロンターレは2点を加点しアントラーズはジュビロの前に引き分け。

終わった瞬間、テレビの前で泣いていた。顔を上げてテレビを見ると中村憲剛が泣いていた。それを見てさらに涙が出てきた。

すると、当時5歳の娘が寄ってきて「大丈夫?」と。子供にはうれし涙というのはわからないから。

最後の最後までプレーを見たい

今日の引退セレモニーには行かなかった。サッカーの試合ではなかったからだ。けれど天皇杯準決勝は取れた。決勝は取れるかどうかわからないが、少なくとも等々力での最後の試合は見られる。

いずれにしても、天皇杯が終わるまでは、「さよなら」ではない。最後の最後まで、「うわ!すげー!!」と感じたい。