
いい開会式だった:祭りの始まり
なんだかんだ言って、開会式が終わると五輪ムードになる。と言うか、やはり多くの人は五輪を楽しみにしていたのだと思う。
昨日の開会式はいいセレモニーだったと思う。いいと思う理由は、ナショナリズムが抑えられていたから。
(誤記を修正しました:2021.7.25 14:15)
ナショナリズムを抑えた開会式
五輪の開会式はどの国でやってもナショナリズムが鼻につくことが多い。北京五輪やソチ五輪みたいに最初から「国威発揚」が目的の五輪の時はもちろん、オーストラリアで開催されたシドニー五輪、カナダで開催されたバンクーバー五輪の時でさえそうだった。
それと比べると、伝統文化の紹介は多少あったものの、主役はコロナ禍のアスリート。ナショナリズムといえるものはほとんどなかった。いわゆる「日本スゴイ」的な匂いのする演出は全くなくて、自分的には好みの開会式だった。長野五輪の時も、御柱から始まった上品な開会式だったことを思い出した。
まあ、特にバッハ会長の挨拶が長すぎて飽きたけれど。ああいう場では偉い人は長い話をしたくなるんでしょうけどね。森喜朗氏が変わってなかったらあの場で森氏が話していたことを考えると、橋本聖子氏に代わっていて良かった。というか、バッハ会長の挨拶は「話が長い」のは女性だけじゃないと言うことがよくわかる挨拶だったとも言える。
後半は変な流れだったが
ただ後半には一貫性、ストーリー性を感じなかった。
まず、寸劇と歌舞伎とジャズピアノは収まりが悪かったと思う。いろんな事情があったのだろうけど。
あと聖火リレーにONと松井が出てきたのは脈絡が不明だった。それまでの開会式全体のモチーフは、「コロナ禍のアスリート」と「現代社会の多様性」だった。特に、五輪旗を6大陸の人が運んできたとき、アフリカ代表が白人(アルジェリア移民?)、ヨーロッパ代表が黒人だった。
これを「ポリコレ」「あざとい」として嫌う人はいると思うが、ステレオタイプを破ると言う意味ではおもしろい人選だったと思う。最終ランナーが大坂なおみだったことにもその意思が込められていることは言うまでもない。
聖火リレーはオリンピアン主役であって欲しかった
自分は聖火リレーはオリンピアンを主役にすべきだと思っている。
長野五輪では、競技場での聖火リレーはすべて選手だったと思う。最終ランナーは伊藤みどりだった。
聖火をフィールドに持ち込んだのは吉田沙保里と野村忠宏。パラリンピアンの土田和歌子さんもよかったと思う。今回の場合は、「復興五輪」という位置づけもあるから東北の学生たち、というのはわからないではない。「医療従事者への感謝」と言うことで、特にダイアモンドプリンセス号に関わった方を入れるのもわからないではない。
しかし、ONと松井というのは何だったのか。オリンピアンではない。3人とも選手としてオリンピックに出場していない。長嶋茂雄はアテネの時は監督ではあったが病に倒れて現地には行っていない。
松井はメジャーリーグの選手ではあったが、ヤンキースローカルの存在だ。2003年のアメリカンリーグチャンピオンシリーズの第七戦八回裏での同点ツーベースと2009年ワールドシリーズでのMVPによってヤンキースファンの間では人気は高いが、ヤンキースを超えたプレゼンスはない。野茂英雄やイチローは現在の大谷翔平のように所属チームを超えるブームを形作っていたが、松井はそうではないのだ。
あるいは王貞治を「多様性」のシンボルとして捉えられるだろうか?単に個人的な感覚かもしれないがそれには無理を感じる。現在でいう「多様性」とはコンテクストが違うと思うからだ。実際には張本勲や金田正一を含め「いわゆる『大和民族』としての日本人」ではない人々が日本のプロ野球を支えてきたことはもう少し認識されるべきだとは思うけれど。
この3人がそろうと、「読売ジャイアンツの3人」でしかない。そもそも野球は五輪において主役じゃない。今回まで正式種目から外れていたわけだし。そういった意味で、ものすごく「国内向き」の人選になってしまった。
それまでの「コロナ禍のアスリート」「多様性」というテーゼは何だったのか?別にONが聖火リレーに入ることを否定はしないが、スタジアムであるべきではなかったと思う。吉田沙保里、野村忠宏から医療従事者、パラリンピアンの土田和歌子。被災者である東北出身の学生たち、大坂なおみとつながった方がストーリーとしてすっきりしていた。
野球選手でも、野茂英雄であれば、公開競技時代のソウル五輪のメダリストだ。アジア系がまだほとんどいなかった時代にメジャーリーグに挑戦した野茂であればそれなりのメッセージ性を持たせられただろう。あるいは「あきらめない」というメッセージをサッカーの三浦知良に託してもいいだろう。
なぜここまで極端に内向きの人選をしたのか。いろいろな「大人の事情」が絡んだ結果なのだろうけれど、これがものすごく残念でならない。
「ポップカルチャー」としてのゲームミュージック
今回の選手入場の時の音楽はゲームミュージックのメドレーだった。自分はアニメは見るがゲームはしないので、ほとんどわからなかったが。「知っている人が多い曲」と言うことで言えばとてもいい選曲だったと思う。フィギュアスケートのエキシビションにも時々日本のゲームミュージックが使われることからもわかるように、スポーツ選手の世代にとってゲームは人気がある。
ただ、これを「五輪の開会式でサブカルを使った」と批判する向きもあるようだ。
もう20年くらい前だが、アメリカに住んでいた頃に、National Symphony Orchestraでジョン・ウィリアムズ指揮でジョン・ウィリアムズの曲を演奏するコンサートに行ったことがある。ジョン・ウィリアムズは、スターウォーズやインディ・ジョーンズをはじめとする数多くの映画音楽、そして1984年のロス五輪の曲を作った人だ。
このコンサートで、ホストのNational Symphony Orchestraの指揮者、レナード・スラットキンがこんなことを言っていた。
「映画音楽はポップカルチャーということでクラシック音楽界からは見下されている。けれど昔の音楽界ではオペラこそが正当であり、バレエは幕間を埋めるためだけのものとして見下されていた。今の映画音楽のように。しかし、今ではバレエは文化的な地位を確立している。同じように、百年たてば、映画音楽こそが音楽界の正統になるだろう」
ポップカルチャーとはそういうものだ。ゲームミュージックにも、映画音楽と同じようなことが言えるだろう。コンピュータゲームで遊んだ経験がある人々は世界中で膨大な人数になる。
これは「『サブ』カルチャー」ではなく、人口に膾炙しているという意味で「『ポップ』カルチャー」と呼ぶべきだろう。考えてみればスポーツ観戦もポップカルチャーの一部だ。だとすれば、オリンピックというスポーツイベントにゲームミュージックが使われることには何の違和感もないとさえ言える。
なお、社会学では「サブカル」とは呼ばずに「ポップカルチャー」と呼ぶそうだ。価値中立的で学問らしい態度だと思う。
現代の社会学界隈では「ポップカルチャー」とするのが主流なう。 https://t.co/EaCofQaAo7
— アキヤ (@K_akiya) July 24, 2021
一方、「サブカル」を「なぜサブカルと呼ぶのか」はなかなか奥深い問題だと思う。自分もアニメファンなので、そこにある「アングラ」っぽさとかのニュアンスはわかる。ただ相当深いテーマだと思うのでここでは立ち入らない。専攻外だし。
けれど、それを趣味にしている人たち自身がその営みを「サブカル」と呼ぶのと、そうでない人が「サブカル」と呼ぶのは意味が異なるように思う。
もちろん文脈によるが、後者には、自分の趣味は「メインカルチャー」あるいは「ハイカルチャー」で「サブカル」を「見下す」ニュアンスが含まれるように思われる。今回の開会式を批判する論調からは、その「見下す」ニュアンスを感じる。
多分一生忘れない
いろいろあったが、全般的にはいい開会式だったと思う。50音順の入場に当惑して家族で次の国の当てっこしたことなんかを含め、多分一生忘れない。自分はONを入れたことは本当に残念だと思うが、それを喜んでいる人がいることも確かだ。今からでも有観客にできないだろうか。何事にも「遅すぎる」と言うことはない。