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2000. 5. 27 横浜Fマリノス対ジェフユナイテッド観戦記 (2000.5.27記)

 15年少し前、ちょっとスポーツ関係の文章書きたいな、と思ってウェブサイト作ってました。当時まだブログはそんな一般的ではなく、ウェブサイトを作らなければならなかったのです。ただそのサイトが2021年1月下旬にサービスを中止したので、いくつか移植することにしました。

 これはちょうど2000年5月27日、まだ2ステージ制を取っていたJリーグの最終節、優勝をかけた横浜Fマリノス対ジェフユナイテッドの試合を見に行ったときのものです。写真は当時のフィルムカメラで撮ったもの。残っていたネガフィルムを今使っているカメラで撮影してデジタル化したので、画像がかなり粗いのはご容赦を。


 フリューゲルスが消滅したのが1999年ですから、合併後2年目ということになります。妻がマリノスサポーターということもあって見に行くことにした試合ですが、優勝の行方を握っていたのは、大阪で試合開始前まで首位だったセレッソ大阪と対戦していた川崎フロンターレでした。

  2000年Jリーグ第1ステージ最終節。

 この時点で優勝の可能性が残されていたチームは、首位のセレッソ大阪と2位の横浜Fマリノスの2チームだけだった。
 試合開始前、二位の横浜の勝ち点は27(得失点差+9)、首位のセレッソ大阪の勝ち点は29(得失点差+10)。したがって、セレッソが(延長でも)勝つか、横浜が負ければ無条件でセレッソの優勝、セレッソが引き分けで横浜が2点差以上で勝てば横浜が優勝。
 横浜が優勝するとすれば、それ以外には、セレッソが敗れ、横浜が仮に延長でもいいから勝利を収めた場合しかなかった。
 この日の組み合わせは、セレッソがホームの長居スタジアムに15位の川崎フロンターレを迎え撃ち、横浜がジェフ市原がホームとなる国立競技場に乗り込んでの試合だった。
 セレッソはこの年ホーム6戦全勝、しかも対戦相手はこの年にはじめてJリーグに昇格したものの負けまくっていた川崎フロンターレであり、状況的に見て勝つ可能性は極めて高いと考えられていた。

 そう、フロンターレは、残念ながら敗戦を重ねていた最初の昇格の時でした。


 しかし、川崎Fは、過去何度も土壇場でJリーグ昇格を逃してきたチームであるがゆえに、一分の重さ、一点の大きさをJリーグのどのチームよりも心の中に刻み込んでいるチームである。
 また、ジェフがとりあえずJ2降格の危険からは離れた位置に付けており、Fマリノス相手に死にものぐるいで戦うインセンティブに欠けていることを考えると、どちらが有利ともいいきれない状況ではあった。
 そこで、国立競技場に市原対横浜の試合を見に行くことに決めた。

 もちろん、旧国立競技場です。もうあれから二十年経つのですね。

 「歴史的瞬間が見られる予感がした・・・。」といえば嘘になる。
 しかし、フロンターレがそうやすやすと敗れるとは思えなかったし、なによりも、どちらが勝つにしても、優勝する瞬間を目撃したいと強く感じたからである。

 ここには書いてませんけど、妻がマリサポだったのがいった理由です(笑)。

 試合は、立ち上がりからしばらくの間は中盤のつぶしあいに終始した。
といって、プレッシングを掛け合うといったような組織的な試合運びではなかった。特に攻撃に立ったときに両チームとも細かなミスがつづき、ボールがうまくつながらなかったのである。
 横浜は、特に気負っている感じはしないものの、パスの角度、受け手の動きから微妙な精度が失われていた。
 中村俊輔も、フィジカルの弱さを突かれ、ボールを持つと二人がかりのチェックを受けてボールを失うシーンが幾度かあった。

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 その中で、ジェフが右サイドの中西永輔の突破から幾度もチャンスをつかむ。

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 しかし、そうしたジェフのチャンスも、横浜最終ラインの体を張ったディフェンスと、ルーズボールに対する川口能活の思い切りのいい飛び出しで、得点に結びつけることはできなかった。

この時の川口はオールバックの時代ですね。

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 だが、横浜も決定機をつかむことができなかった。フォワード陣の注意が甘く、浅めのジェフのバックラインに次々とオフサイドをとられる。
 三浦淳宏が出場停止、永井秀樹も怪我の都合でサブに回っていたため、ドリブルで状況を打破することもできない。
 浅いバックラインの裏をロングボールでねらうといった工夫もなく、ただ、パスをつなごうとしてジェフにカットされる場面が続いた。
 しかし、最低でも二点差を付けて勝たねばいけない状況だったにもかかわらず、不思議と選手から焦りは感じられなかった。そんな中で三八分、前線でボールを操った中村からのパスにうまく反応したエジミウソンが先制ゴールを決め、後半を迎えることとなる。
 四二分にジェフのベンソンが2度目の警告で退場したため、横浜の数的優位で迎えた後半だったが、その立ち上がりはやはり中盤のつぶしあいであった。
 そんな膠着状態を打破すべく、Fマリノスは五九分に左ウイングバック、永山邦夫に変わって永井秀樹を投入した。

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 確かに、後半始まって以来左サイドに対するジェフのマークが薄くなっているにもかかわらず、怪我を抱えて動きが鈍いためにうまく攻撃の起点になれなかった永山を交代させることは的確な策だったといえる。
 しかし、永井も、ボールを受け取ったら中にまず切れ込んでしまい、中盤の中に埋没してしまうことを繰り返した。
 相変わらずジェフの左サイドのディフェンスはやや甘かったから、中に切れ込むのではなく、縦にドリブル突破することによってマーカーを引きつけ、センタリングをあげる方が得点に結びつく可能性は高かったと思われる。
 優勝の可能性を少しでも高くするためには2点を取らなければならないにもかかわらず、得点に結びつかないことで、グラウンドに閉塞感が漂ったそのとき、65分に松田直樹がレッドカードを出され、退場させられたことで横浜は数的優勢も失った。
 しかし、むしろそこから横浜の攻撃は本来のキレを取り戻すことになる。その直後からそれまでとはうって変わったようにゲームを支配し、六九分にディフェンダーの遠藤の思いきったオーバーラップが功を奏し、2点目を手にしたのである。
 そのあとの約二〇分は、ディフェンスラインの健闘もあり、そのまま二-〇でタイムアップを迎えることができた。

 試合はFマリノスの勝利で終わりました。しかしセレッソの試合次第で結果が変わります。タイムアップの直後、国立競技場の電光掲示板に途中経過が表示されました。

 この日をJリーグの歴史に刻み込むこととなったのは、そのあとの二〇分である。
 国立競技場の電光掲示板に流れる途中経過を見て、スタンドは異様な雰囲気に包まれた。

「C大阪1-1川崎F」

 そこには、そう記されていた。二点差で勝利を収めた以上、大阪が引き分けならば優勝は横浜となる。
 しかし、誰もが知っているように、Jリーグには延長戦があった。

 今はなくなりましたが、当時はすべての試合で延長戦があったのです。

 その結果が出ない限り、優勝チームは決まらない。そして、試合が電光掲示板で放送されはじめると、永遠とも、一瞬とも思える時間が始まった。

 マリノスの選手たちも、フィールドに座り込んで電光掲示板を見ていました。

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 延長戦になだれ込んだ多くの試合にいえることだが、九〇分間戦って選手のスタミナが消耗したあとでは、中盤のつぶしあいというよりも、互いに決定機を作り会うカウンターの掛け合いになることが多い。
 この日も例外ではなかったが、その中でも決定機をつかむのはセレッソの方が多く、国立では歓声よりも悲鳴が上がる回数の方が多かった。

 自分もその一人だった。

 スポーツファンだけが味わうことができる緊張感に身を包まれながら、いつしかFマリノスサポーターと同じように悲鳴を上げていた。

 隣の妻は大騒ぎでした(笑)。

 マリノスサポーターからはフロンターレコールが響く。

 まあ、そうなりますよね。しかし。

 フロンターレの選手は、自分たちのために戦っていた。
 
 そして延長後半一分、「ミスターフロンターレ」ことディフェンダーの中西哲生が投入され、フロンターレの選手に最後の勇気を吹き込んだ直後、右サイドにやや下がってボールを受けた我那覇和樹が、左サイドゴール前にぽっかり空いたスペースにクロスを送った。
 そこには、セレッソディフェンダーを振りきった浦田尚希がいた。
 彼が左足を軽く出した直後、国立は歓声に包まれた。

 あれは美しいゴールでした。いいところがなかった最初の昇格の時。フロンターレが最後に見せた意地でした。

 そこから先のことは、多くのメディアに報じられているのでここで書くべきことではない。

しかし、国立のフィールドの上で歓喜に沸くFマリノスの選手たちもさることながら、電光掲示板の中で倒れ伏していた森島寛晃の姿が印象に残った一瞬だった。

 あんなに興奮した試合からもう20年。国立競技場は既になく、三浦淳宏はヴィッセルで、森島寛晃はセレッソでフロント。けれど、中村俊輔はまだプレーしています。我那覇和樹も。

 あの頃は、フロンターレがこんなに強いチームになるなんて夢にも思いませんでした。Jリーグ開幕まであと少し。ラグビートップリーグと掛け持ちで私にとってはきつい日々(笑)になりそうですが、開幕が楽しみです。