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洗面所でアイデンティティに取り残された私は

風呂上がりのカラダにタオルを巻きつけたまま、何の目的がある訳でも無くInstagramを眺める。

季節外れのストーブの前にうずくまりながら「おうち時間」のステッカーが貼られたストーリーをいくつかスキップしていると、急に画面の動きが鈍くなってiPhoneの電源が切れた。今までブルーライトを煌々と放っていたディスプレイには、ただ髪先の雫が揺れて反射している。

さっきまで右手に握られたそれを通じて世界の全てと繋がっていたのに、急に私だけ洗面所に取り残された様な気がした。
バッテリーを使い果たしたiPhoneは指紋にさえ反応しない。

“身体を使って呼吸をする私”と”SNS上で情報化された私”の繋ぎ目が閉じられて、私は急に自分の一部を無くしたように感じてしまった。もちろん私の全てがSNSと連動している訳ではないけれど、暮らしを営む本体としての私だけでは自分自身のアイデンティティを保持するのに不十分だから。

現実の世界に住む側の私たちは、生まれ持った性別や容姿だけで悲しいほどにその社会的帰属をジャッジされてしまう。だからといって、誤解を招かないように自分自身の正義と進む方向を掲げながら街を歩くこともできない。

だから日々ステートメントを掲げる代わりに、私は文章やイメージで自分の内側を情報化し、本当に在りたい自分をさらに外へ彫刻しようとしている。
そこに突っ立っているだけではただの”女子大生”とカテゴライズされてしまう私でも、画面を通じて意識の根がどこに生えているのか、向かう幹はどの空へ広がっているのかを表明することができる。
過去と経験の上に集約された私のアイデンティティは、もはや身体にあるだけじゃない。

電源の入らないiPhoneを前にして、外型の異なる二つの私の間には崩せない壁があることに気がついてしまった。指先に操られて自意識的に作り上げられた自己は、バッテリーさえ奪われてしまえば全くの無力。
感情さえ、見えないことを理由に無視されてしまうこの現実世界でそれは「最初から存在しない」と同じことにされてしまう。

彫刻の場を無くした自分自身と、インターネットという外付けメモリでのみ解放されたアイデンティティ。もしこの先、イーロン・マスクが提唱するように人類の意識がコンピューターに移植される世の中がやってくるのなら、心臓が打つ生身の体を「本当の私」と言い切ることが出来るだろうか。5G回線で加速するのはメッセージを届けるスピードでも、高画質の動画配信でも無く、情報化した私たちのアイデンティティと取り残された肉体との乖離だと思う。  

iPhoneから手を離して昼間にベランダから取り入れた部屋着に腕を通す。ほのかに暖かい布地が肌に触れて初めて、今日の天気が晴れだったことを知った。



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