晩秋の妄想③「旅の形と卒業旅行」
●風英堂霜月記=晩秋の妄想③「旅の形と卒業旅行」
25日は旅行作家協会の総会、旅をテーマに集うが、旅が出来ない現在、日比谷公園の夜景をバックに着席パーティ形式で実施。<件の禍>によって、人々が一番意識したのは<国家の存在と国境>だった。<通行する自由>はいつも存在するとは限らない、そのことを人々は改めて意識し、制限される<不自由さ>を覚えたが、一部の人々は未だ驕りの世界に浸っている。東京五輪のインバウンド戦略は当て外れになり、GOTO観光の再開も目途が見えない。
旅とは何か、場所だけなく時間や目的により様々な形がある。大きく考えると<一期一会の旅>と<生活する旅>がある。茫洋と彷徨う旅もあるが、目的が明確な<滞在する旅、観光する旅、体験する旅、取材調査の旅>もある。多くの人の移動と交流で観光は成り立つ。観光はコロナ後の最大成長産業となるかは分からないが、昔ながらの単なる物見遊山の旅は少なくなるだろう。
新しい観光像として模索されているのは地域の魅力を深く知る、微細な部分に拘るスローツーリズム、マイクロツーリズムなどの<テーマツーリズム>だ。巡礼路歩き、昔からの街道歩き、自然と遺跡を巡る、日本の源流をたどるなどがあり、もっと細かくは伝統の刃物を知る、和紙を漉く、自転車など移動手段を変えるなどがある。旅の本質を考え直し、提案することが旅行関係者や旅行作家にも求められるだろう。
7年近くに及ぶ欧州生活では様々な場所をもっと巡りたかったが、何せ居候暮らしだった。年金は潤沢ではないし、借金でもと考えたが、それは遠い昔からやらないと決め込んでいる。60歳でNYCまで1週間の卒業旅行をしたが、70歳を過ぎての卒業旅行はどこにしようかと考えている。とにかく知人友人と語り合い、何のため、何からの卒業か、その先を見つめることになるだろう。
妄想の果てに、日本国内なら「香高堂北帰行」と洒落込もうかと思った。20歳過ぎて「南行人」を名乗った香高堂は、東京から浜松、金沢、京都、神戸、鳥取、島根を旅し、博多に辿り着く卒業旅行をした。そこから鹿児島まで行き、沖縄までたどり着こうとしたが、資金が底をついてしまった。
ならば今度は逆に「北来人」とでも名乗り、放浪の旅を始めようか。まず沖縄に向かい、熊本、福岡、広島、高知、神戸大坂京都へ。そこから日本海か太平洋経由か悩むが、仙台、秋田、函館、札幌、帯広を経て釧路に辿り着く旅もありえるだろう。何が、誰が待ち受けているのだろうか。旅の果てに誰かに静かに見守られながら死んでいく世界もあるかもしれない。房総、北海道、東北、広島、福岡活き、香高堂か風英堂の妄想が今日も膨らむ。