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森は海の恋人、サンセールは牡蠣の恋人

風英堂長月記=森は海の恋人、サンセールは牡蠣の恋人
 畠山重篤氏の<森は海の恋人>を読んだ。気仙沼のカキ漁師・畠山重篤さんたちが、「森は海の恋人」の合言葉をかかげて、植林運動を始めた。「おいしい牡蠣を育てるために、長年山に木を植える漁師が、豊かな汽水域の恵みは、森があってこそ生まれる」ことを実証した名著と言われている。自作の短歌が織り込まれ、まさに美しい言葉と文章の中に自然と文化が生きている。
<件の禍>の現在、本屋へ行っても本が呼んでくれないので、我が書棚を眺めていると、この本に引き寄せられた。単行本は1994年の発行だが、手にした2006年の文庫本は初版だったから、最初に読んだのはその頃だろう。NHKの朝ドラ「おかえりモネ」の舞台は気仙沼周辺、私にとっては何かと縁の深い土地柄だ。そして、藤竜也演じるおじいちゃんはカキ漁師だ。詳しく書いていると長くなるので別稿に。

 本の中にブロンの話が出て来る。マルセイユでは、御祝い事の度に牡蠣やムール貝などのプレートを食べるのが常だったが、数種類ある牡蠣の中でも、ブルターニュ地方産のブロン(Belon)種は平べったくて丸いが、コクのある上品な味わいだった。下記には白ワインのサンセールやシャブリが似合う。
 畠山重篤さんは森と海の再生のためにフランスの沿岸を回っている。地中海側のローヌ川河口のラングドッグ地方、大西洋側のボルドー沿岸にはジロンド川という大河が注ぐ。水深の浅い汽水湖がちゃんと残されている。その時の様子をこう書いている。
◆フランス最大の大河、ロワール川河口の干潟に立った時、浅瀬に蒔かれて養殖しているカキをみて、一目で健康なカキであることがわかった。それより驚いたことは、干潟のそこここに点在する潮溜りの中でうごめいている小魚、カニ、エビ、ナマコ、イソギンチャクなどの小動物の多さである。それは、私が子供の頃の三陸リアス式海岸の光景ではないか。◆


 そして、ナントのレストランで「シラスウナギのパイ皮包み」に驚愕する。ウナギの稚魚はスペインやフランスでオリーブオイルでアヒージョとして食べる。既に無くなったがパリの寿司屋で、唐辛子とニンニクの入ったサラダ油のアヒージョを食べるのが楽しみだった。

 ところで、NHKの朝ドラ、昔は出勤の時計代わり、今は朝食時の眼のやり場でもある。海外生活の7年間は時折の帰国時に見たが、何が放送されたかは覚えていない、現在の「おかえりモネ」の舞台は気仙沼周辺、畠山重篤氏の<森は海の恋人>に触発された脚本だと思う。だが、どこかモヤモヤして今ひとつ面白くないし、ご都合主義の脚本に疑問も噴き出す日々が多い。
ただ、カキの養殖場が竜巻に巻き込まれた時のストーリー展開は味があった。

 「橋」とはこの世とあの世を結ぶと言うぐらいの意味深い言葉だ。「モネ?どうしたこんな時間に。今、来たのか。どうやって。あ、タクシーで来たのか」と迎えると、涙をぬぐい「橋を渡ってきた」――。この回は演出家と脚本家、主役がやっと一つにまとまってきたと思ったが、その後は感心しない展開が続く。

 気仙沼は私にとっては何かと縁の深い土地柄であり、この番組は意外なキーワードで私と繋がりがある。モネが目指した気象予報士、その試験の第1回は1994年8月に行われたが、当時報道部にいた私は1次試験に合格した。だが当時はオウム事件の真っ最中、さらに翌年1月には神戸の震災や地下鉄サリン事件があり、2次試験を受けることは出来なかった。
 一方、ラジオドキュメンタリー番組「鳴き砂」の制作取材で気仙沼まで向かった。気仙沼大島の北東端の対岸西側の付け根に小さな砂浜があり、砂が乾いている時に踏むと「クックッ」と鳴る。砂の中に含まれている細かい石英の粒が擦れる時、音を出している。長さ約3.5キロで日本最大級とされる宮城県亘理町の吉田浜は海浜の地形が変わり、よく音が出たという地点は水没したと言う。その時に<フカヒレの軍艦巻>を始めて食べた思い出がある。フカヒレ寿司の元祖らしいお店のようで、あの味わいは今でも舌にのこっている。

 畠山重篤氏の<森は海の恋人>では「東日本大震災での大津波ですべてが流され、海は死んだかに見えました。しかし、まもなくして海に魚たちがもどってきました。それは山に木を植えつづけ、海に流れこんでいる川と背景の森林の環境を整えたゆえの成果だったのです--。」と書かれている。彼は一首の歌を詠んだ。
「森は海を海は森を恋ながら悠久よりの愛を紡ぐ」

 森は緑色、海は青色を基にしながら、陽射しと土地の状態によりその色は様々な表情に変化し、その<緑と青>は恋人同士ともいえそうだ。そう言えば、故郷の高校の同級生に「緑」と言う名の女性がいたが、恋人だったかどうか思い出さない。私は青の生き方をしていたのであろうか、遠い日の思い出だ。私の故郷は北海道釧路、青函トンネルは通ったが、海峡に橋は架かっていない。あれから50年、「当時は故郷から離れたかった、今も帰る気もない」という心境だ。

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