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葉月記=真夏のゴリン怪談終わる

●風英堂葉月記=真夏のゴリン怪談終わる。
富士山を模った聖火台、開会式での点火を「富士山爆発」と思えたのはどうやら私だけだったらしい。盛夏の8月7日ゴリンの閉会式が終わり「欺瞞、疑惑、疑獄に満ちた五輪玉の聖火」はやっと消え去った。「祭りの後の夢の跡」に残るのは瓦礫か、増える自宅療養、パラリンピック中止の声は聞こえてこない。


20年以上、ゴリンは競技を見ることが少なく、開会式と閉会式だけは観てきた。そこには国や都市の、スポーツと文化が融合の歴史が表現される。スポーツと文化の共通点は「強靭な身体性を持つ」と言うことである。日本文化なら歌舞伎、日本舞踊、能楽等そこには衣をまとった演者の筋肉が「芸」を通じて表現される。スポーツマンは道具や場を使い「肉体の速さと強さ」を競う。


一方、「若者のサブカルチャー」は未知数ながら、多様性や新たな時代の幕開けを予感させる文化でもある。「伝統的な文化」と融合させたら民族の独自性が表現される。東京ゴリンの閉会式は自国の「歴史伝統文化に対する敬意」が全く感じられず、セレモニーや儀式としての品格は演出されていなかった。新しいデジタルアートも「人間性が活きたもの」として感じなかった。


野村萬斎が総合演出を降りてから、サブカルチャーでしかない演出家が電通の後押しで登場したが、余りの節操のなさで退場した。さらには森案件、小池案件等々五輪関係者の押し進める役者やタレントが次々と登場し、現代の流行りものを場当たり的に取り上げ、儀式の場を台無しにした。一方、生中継の中で使用される映像がやけに凝っているように見えた。大会記録映像を使っているんだろうが、記録映画監督の河瀨直美はどう表現してくるのだろうか。河瀨直美監督の映像理念に多少疑問を抱いているが、「敗北者と惜敗したものへの憧憬」を描いてくれたらと思っている。


放送プロデューサーのデーブ・スペクター氏が東京五輪の閉会式を辛辣に総括したが、このコメントで十分だろう。
❖「この上ないセレモニーなんだから、最高の音楽家や舞踊家たちが、言葉や文化を超えた最上のパフォーマンスをするべきなのに。バラバラなダンスや古い海外曲の日本語カバー、日本語の劇とかやっても意味不明。閉会式なら最初から真ん中にやぐら組んで、アニメキャラやペッパーくんたちも選手と一緒に、輪になって大盆踊り大会にすれば良かったのに。バッハ会長も首相も都知事も高いところにいないで浴衣着て踊ったら、少しは好感度上がったと思う」❖




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