晩秋の妄想①「ある便りを待って薔薇を」
●風英堂霜月記=晩秋の妄想①「ある便りを待って薔薇を」
「月に叢雲、花に風」と言うが、名月の夜には雲がかかって月が見えず、満開の花には風が吹いて花を散らしたりする。「叢雲」は「群雲」とも書き、群がり集まった雲は花散らしの雨にもなる。良い事には、とかく邪魔が入りやすく、思うようには行かないことが多い。
実は今、「ある便り」を待っている。昨年11月に差し出したものだが、未だ返事が来ない、届かない。あるところにそれを持って、お礼を携えて行きたいが、なかなか伺うことが出来ない現況がある。そのお礼はバラの花にしようと思っているが、本数によっても意味が変わってくるようだ。
私は何本の薔薇を持って行けば良いのか考え込む。薔薇の本数は1本だと<私にはあなたしかいない>、5本は<あなたに出会えた事の心からのよろこび>、7本は<ひそかな愛>、13本は<永遠の友情>などの意味があるようだ。さらに99本となると<永遠の愛、ずっと好きだった>と言うことだが、体力的にそんなには持ち運べない。
ところで、私の耳の聞こえる聴力範囲は狭まっているが、それは「雑音を除外した」と思うようにしている。眼鏡も遠近両用から中近両用に変えたが、本を読む時やパソコンが打てる距離がしっかりと見えれば良い。そんなに遠くが視えなくても構わない、どうせキスをする時は目を閉じるのだから。
一方、生涯を終えるまで、生活するための住居は「終の棲家(ついのすみか)」と呼ばれている。古稀を越えたら暮らしの手段や趣味の活かし方などを考えるようになった。「まだまだ元気だから大丈夫」と思っていても、いつ何が起こるのか分からないし、後期高齢者になるのも近いが、まだ終活を準備する時期でない。
人間は一人で生きられない、それ故に「我慢をしない環境」を作り出したいが思うが、なかなかつくれない。それでも「終の棲家」を求めて、さらなる生きがいを探している。どうやら70歳は面白い時期のようで、「生き残るか、死ぬ時期を見定めるか」を同時に考える時が訪れた。何を、どのように、立ち向かえば良いのかは、これから考えよう。
緊急事態が明けても、我が妄想生活は続く。