タカくんの話、意志とドイツ語
今住んでいる場所は学生寮と呼ぶのが一番近いだろう。合計四人分の部屋があってバスルームとキッチンは共同。リビングにはちょうど四人が座れるテーブル、そして二人分の広さのソファ。年季の入ったもので直接座るには汚いらしく、青色の濃淡のある青色の布がかぶせてある。壁にはクリムトの『接吻』のコピーがかかっている。今いる住人より前の人が飾っていたらしいが、誰も話題にしないし、わざわざ見入るようなこともない。
入居するとき、「調理器具、食器類はおいていないので自分で持ってくるように」との注意書きをもらった。とりあえず小さな5枚セットの皿と紙皿とフォークを買って行ったのだが、共同の食器がたくさんあって、寧ろ中途半端な大きさのセット皿は邪魔だったし、張り付いていたバーコードシールは全然取れなかった。包丁も自分で用意しなくてもその頃はとても切れ味のいいものがかつては置いてあった。
どうして「かつては」と書いているのか。もちろん今はもう無くなったからだ。同居人が最近出ていった。包丁は彼の私物だったらしく、当然彼が持って帰った。名前は仮に「タカくん」としておく。
タカくんがいなくなったと同時に消えてしまったものは結構ある。
まずは電気ケトル。ドイツで使われている電子ケトルはどうしてあんなにも中が真っ白になるのだろう。今考えてみると沖縄に家族旅行に行ったときあれと同じような現象をみた。鍾乳洞の中だ。鉄製の通路が上から垂れてくる水から晶出した炭酸カルシウムで白くなって、所によっては少し隆起していた。職員の遊び心だろうか。酒瓶が鍾乳洞の水流に漬け込んであった。「おいしくなれ!と願い続けて五年間、酒瓶は鍾乳石で覆われました」という看板が添えられていた。それでええんか。ほんまにええんか。そもそも硬い付着物に覆われたあの酒瓶は開けることができるのだろうか。一度電気ケトルが当たり前にあるということを経験してしまうと、ごくごく普通のはずのコンロでお湯をわかすという行為も煩わしくなってしまう。
次に気づいたのは掃除機。タカくんは掃除についてはうるさかった。週当番で誰かが掃除をするのだけど、ある週に同居人がサボっているとあえて直接は言わずに共同のテーブルに書き置きを残していた。ある日曜日の夜皿洗いをしていると彼が何故かすごく不機嫌そうな顔で睨んできた。不思議に思っていたのだけど翌朝、つまり月曜日になって先週の当番が僕だということを思い出した。掃除を忘れていたのだ。とりあえず「ごめんね、わすれてた」とテーブルに書き置きしておいた。
タカくんは僕がここに引っ越してきてから初めて喋った人で、入居して以降も一番頻繁にコミュニケーションをとっていた。情報学と経済学を学んでいて、パソコンに詳しいらしかった。僕にはよくわからない。多分LinuxのイベントTシャツをよく着てたから詳しいんだろう。ここでの生活は彼に結構助けてもらった。下宿から一番近いスーパーを教えてもらったし、よく昼間から酔っ払って僕にビールをぐいぐい勧めてきた。一度何故かストリップクラブまで僕を連れて行った。ストリップクラブでだけずっと僕に英語で喋りかけてきた。なにをいっているかはほとんどわからなかった。
ごくごく最近うちの近くに新しいバーができたので彼と二人で行くことになった。「あまりお金をもってなさそうな学生の格好で行こう」とシャツにハーフパンツででかけた。テーブル席に座っていたけど店員が注文を取りに来ないので「俺はわざわざこっちから頼むから酒をくれと言いに行きたくなんてない」となにも飲まずに変えることになった。景気悪そうな格好での来たのは誰なんだよ。
最近は疎かになりがちなのだけど、本を読んでいる中でわからなかった単語のメモをとっている。一度タカくんに見せたとき、Knechtという単語を目にして彼は笑っていた。「使用人」、「奴僕」「下僕」というような意味なのだけど「こんな言葉使う機会なんて現代において全然ないよ!」とバカにされた。
タカくんは禁煙をしていた。彼いわく、3月から6月の間、全くタバコは吸わずにいたらしい。しかし、僕は時折外へ出てタバコを吸って、もうひとりの同居人はよくマリファナの匂いを漂わせていた。「僕たちのせいで」彼はまたタバコを始めてしまったらしい。そしてビール。「かんっぺき依存症じゃん」といったら。彼はハッハ!と顔を歪めて笑っていた。依存症の話に続いて、なにかをしたい、なにかが欲しいと思う気持ちの正体はなんなのか、という話をその時したのだけど、「他の動物とは違う人間として」僕たちは「理性に基づいて」自分たちの「意志」を持たないといけないんだと言っていた。「自分たちの行動を動物的な衝動、欲望に支配されてるようじゃだめなんだ。『欲望の奴隷』でいちゃだめなんだよ。」そう彼は続けて真面目な顔で言った。その時彼は間違いなく”Knecht der Triebe”と言った。いかにもドイツ人らしいセリフじゃなかろうか。ときおり彼はそんな印象に残ることを言っていた。そういう彼だけどもう知っての通り、その趣味(というか依存先)は酒とタバコとストリップクラブ(と掃除)だし、実際首尾一貫として考えをもってものごとを語るタイプではない(”Knecht”然り)。
そんなこんなで短かったけど彼との思い出はまだいくつもある。彼がいなくなって一週間がたった。彼はスウェーデンへ職業教育を受けに行った。彼はおおよそ三年を過ごした自分の住まいを気に入っていたらしく、一年経てば同じ寮の、同じ部屋に戻ってくるつもりらしい。他の同居人はカリフォルニアに家族旅行に行ったり、バイエルンの小さな故郷に引きこもっていたりして、今ここに住んでいるのは僕一人。洗面台の排水が二日前から詰まっていて、なかなかスムーズに顔を洗えない。ソファの青い布はめくれかえって、薄汚れた白い合皮張りが覗いている。そろそろ綺麗にしたほうがいいのだけど、掃除機の無い中、気軽には掃除ができないし、電気ケトルどころかヤカンもないこのキッチンでお茶を沸かすのも面倒だなあ…
オチはもちろんない。寝る。