ニコラウスの皮
寝心地が悪く、朝早くに目が覚める。外の空気はまだ寝ぼけているようで少し青い灰色が窓の外でうつらうつらと漂っている。つまりは平日と同じ時間だ。有給休暇を取ったことに特に理由はない。肩の痛みが慢性化していることもあるし、ただ気になっていたアニメを見たかったと思っていたこともある。何よりも余っている休みが何との引き換えもなくただなくなっていくことに耐えられなかったのだろう。昨日の夜に設定していた洗濯機は既に回り始めていて、ぐうん、ぐうん、ぐうん、ぐうんと規則正しいうめき声をあげている。外の灰色は頭の中にも染み入っているようで、脳の後ろの方に疲労感となってぐるぐると回っている。そうしたことに気づいたのは体を起こした後のことで、その前にはまるで何もなかったかのように幸せだった。起きている時にはあれほど欲して手に入らないような幸せはなぜかベッドの上でだけ起こっていた。特に幸せな理由もないのに幸せだったと思うことで私の心の中には起きたそばから無力感が漂っていた。海に浮かぶ流木になれたらいいのにと思う。かつて地に縛られていたことも、人の作った建物に組み入れられたことも忘れて今はぷかぷかである。ベッドの海の中から這い出た私は進化したとも言えるしまた世界に縛り付けられたとも言える。いずれにせよ夢は遠い世界の話だ。クリスマスを目前にしたインターネットの世界はとても騒がしくて、画面の向こうの網の中ではたくさんの消費という撒き餌がばら撒かれていた。大きなくしゃみをすると私は歯を磨いて箪笥の中にある黒い靴下の中から一層黒いのを選び出す。今年は稀に見る暖冬らしく、プーチンの目論見は外れていた。世界大戦はすぐそこに迫っている様で、変わらず私の生活は消費社会に監視されている。街にやってくると必ず寄る茶店がある。顔馴染みの店員は大抵値をまけてくれる。買ったのはホワイト、ブラック、グリーンにウーロン。差別はなぜにあるのだろう。私たちは必ずしも白くもない肌や茶に白といい、必ずしも黒くもないものに黒という。茶色になってもそれは燻した緑なのだ。かくいうわたしもウーロン人に会ってみたいのです。私たちを呪っているのは理性なのか、それとも知性なのか。それとも私たち自身なのか。買ったものはそれでも全て他人への土産だった。ウロウロと街を歩いている。12月の一番の祝日たちにはクリスマスマーケットは閉じている。敬虔とは時として都合が悪い。「すいませんという言葉は割りにあう」と読んだ本に書いてあった。ある友人の言葉を思い出す。「自分が悪くないと思うときほど『すいません』って言っとくんだよ。『す』の自動変換先に登録しておくのさ」ここまでの文章は全て予測変換で入力されている。私たちの会話はおおよそ予測の範囲にあって、そこから溢れ出たものは当局が取り押さえにきてしまう。友人の配偶者、それはつまり大切な他人なのだけど、彼はドラゴンが好きらしい。私はドラゴンフルーツを探してたのだけれど、どこにも見つからなかった。スーパーで見つけた「竜の吐く炎」という茶を買う。一度買ったが少し辛かった。辛い記憶はどうしてなくならないもので私は時折一人で声を上げなければならなかった。うああ、うああ、うああ、ぐうん、ぐうん、ぐああ。汚れをぐるぐると洗い落としたいとは思うのだが、これでいいのだろうか。でも他にどうしろと。私は言葉を謹んできたのだ。
仮定の話を思っていてもなぜか怒りが込み上げてくる。もっと非合理な喜びに出会えればいいのに。心はあれども胸が痛むことのなんと心なきこと哉。私は帰り道に少しだけ涙がこぼれてきた。学校からの家路、泣いた人とだけ友になりたい。Verletzlichlkeitについて考える。verlietzlich、その名詞化。verletzen、その形容詞化。人は傷つきやすいし、また傷付けやすいのだと思う。詩作には教育的効果があるのだろうか。詩を目の前にして、編者の言葉など蛇足でしかない。電車の線を間違える。環状線の輪廻に永遠に囚われるのもいいのかもしれない。でいごの花については何も知らないのだけれど、その人が好きならきっと綺麗な花なのだと思う。家路の最期の駅に着いたとき、改装中だったキヨスクが空いていた。私がこの街にくるずっと前から準備中だったこの店のコーヒーはとてもぬるかった。サイズを間違えた店員は50セントだけおまけをしてくれた。飲みやすい、とだけ私は店を出てつぶやいた。わたしは外れた地域の出身なのに、どうしてか京都的な嫌味を言いたがる。アニメは見なかった。それが私のクリスマス。乾杯。分かり合えなくても近づきたいならそれは愛なんだろう。