わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。今の時代の聖書預言
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)
私たちが罪人として滅びゆくのではなく、永遠の命を授かるためには、イエス・キリストの十字架を受け入れること以外に道がないということを教えています。
日本人は、八百万の神々を拝み、行いによって死んだら天国、南無阿弥陀仏と称えるだけで、極楽浄土に行けるという教えと、この世における業によって、天国道、人間道、修羅道、餓鬼道、畜生道、地獄道と、六道輪廻する教えは、聖書が語る天の御国と同じ場所ではありません。
デジタル通貨、人工知能(AI)など、私たちが今生きている時代を見る時に、終わりのとき、主の再臨を示す聖書預言を思いつきますか?とすれば、それだけ携挙が近いと言うことです。クリスチャンが機会を十分に生かし、イエス・キリストの福音を宣べ伝え、一人でも多くの人が悔い改めへと導かれ、救われますように!
聖書の預言は必ず成就します。
なぜなら、天地創造主なる神のご計画であるからです。
釈迦の死生観
当時、インドでは、バラモン教、ジャイナ教、ヒンズー教、ゾロアスター教、ユダヤ教、ギリシア神話など、様々な宗教が興り、それぞれが死後の世界のことを伝えていました。ある日、釈迦の弟子の一人、マールキナブッダが、釈迦に「人はどこから来て、どこへ行くのか?宇宙の始まりは何か?」などという質問をしました。その時、釈迦は次のように答えたのです。
『お前の大切な友人が、ある日、毒矢に射られたとしよう。そうすると、その場に居合わせたお前はどうする?当然、毒矢を抜いて助けようとするだろう。しかし、その時に、お前の友人がこう言うのだ。
「待て!何故、私が狙われなくてはならないのだ。射った奴は誰だ。この毒は何の毒だ。この羽は、何から出来ているのだ? がちょうか、カラスか、鶏か…そのような疑問が全て明らかにされないうちに、この毒矢を抜いて欲しくないのだ。」と。
さて、友人はどうなる?死んでしまうだろう。
お前は今、生きているのだ。生きていることで、目の前に解決しなければならない問題は一杯あるのだ。
だから、死んだらどうなるのか?などということは、考えなくても良いのだ。捉われることなく、修行に励みなさい。』です。
つまり、釈迦は、形而上学的な問題には一切答えなかったし、そもそも輪廻転生や、死後の世界を否定していました。故に、根本仏教は哲学であったことに気が付くのです。
哲学的思考では、まことの神を知ることは出来ません。何故なら、のちの釈迦の弟子たちがそうしたように、人が神や仏を作るからです。人が作った神や仏が、人を救えるはずがありません。むしろ逆で、まことの創造主である神が、釈迦をも含めて人を創造したのです。故に、まことの神だけが、人を救うことができるのです。
今は、心からこの聖句にアーメンと言うことができます。
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