携挙不安を語る者と聖書預言
携挙はクリスチャンに希望を与え、間違った聖書解釈、福音を信じない者にとっては不安を与える。罪を犯すことで携挙にあずかれなくなる、つまり救いを失うという教えは聖書的ではない。
CNNが語る「携挙不安」と聖書の預言
2022年10月13日 9分
キリスト教には「携挙」という教えがある。これは、聖書にある教えだが、多くの教会では語られない。そのような中で、米国ニュースメディアのCNNが携挙に関する記事を公開したので、注目を集めている。ただ、取り上げ方は決して好意的なものではない。「一部のクリスチャンが『携挙不安』からいやされるには一生かかる(For some Christians, ‘rapture anxiety’ can take a lifetime to heal)」と題されたこの記事は、次のような書き出しで始まる。
これは「携挙」に取り残される不安を抱えていた女性の体験を記したものである。この記事を詳しく見ていく前に、キリスト教の「携挙」という教えについて説明しておきたい。
MEMO
この記事に出てくる「獣の刻印」とは、大患難時代に世界を統治する「反キリスト」から受ける刻印で、これがないと売り買いができなくなる。また、聖書では、この反キリストの像を拝まない者は殺されると預言されており、これが「ギロチン」の言及につながっている。詳しくは、「終末預言を読み解く:完全監視社会」を参照されたい。
携挙とは
携挙について、CNNの記事では次のように解説している。
CNNの解説を補足して携挙を説明すると、次のようになる。
携挙とは、教会が天に上げられることである。この場合、教会とは建物ではなく、キリストを信じる信者の集合体を指す。キリストを信じて死んだ人々は、携挙の時が来ると全員天に上げられる。死んだ人は復活し、生きている人はそのまま天に上げられ、空中でキリストに会うことになる(ヨハネ14:1~3、1テサロニケ4:13~18、1コリント15:50~58を参照)。
MEMO
携挙についての詳しい説明は、記事「終末預言を読み解く:携挙とは」を参照されたい。
トラウマを訴える女性の証言
CNNの記事によると、この携挙の教えを受けて育ったアジョイは、この教えを原因とする「トラウマ」を抱えるようになったという。CNNの記事は、この女性の過去の体験と現在の活動を次のように記している。
この記事では、アジョイのような人が抱える症状を「携挙不安(rapture anxiety)」と呼び、宗教的トラウマの一種としている。また、この概念は、宗教の研究家や精神衛生の専門家によって認知されているという。ただ、記事の中でも「これは新しい研究分野だ(This is a new area of study)」と言われているように、まだ確立された概念とは言えないようだ。
CNNの主張の問題点
CNNは、アジョイのような人が抱える問題が携挙の教えによるものとする。しかし、そうだろうか。筆者の見立てでは、アジョイの通っていた教会の根本的な問題は、携挙の教えではない。問題の所在は、罪を犯すことで携挙にあずかれなくなる、つまり救いを失うという教えにある。
携挙の教えは、「永遠の救い」を信じているクリスチャンにとっては、希望以外の何ものでもない。「永遠の救い」とは、福音を信じていったんキリストに救われたなら、救いを失うことはないという教えである。携挙の教えは、救いの確信を持っているクリスチャンには希望だが、そうでないクリスチャンには怖れを感じるものとなると考えるのが正しい。
しかも、アジョイは、携挙の直前に罪を犯してしまっただけで携挙に取り残される可能性があると考えている。「救いを失う可能性がある」と教える教会でも、そこまで極端なことは言わない。「携挙不安」を抱える原因となったのは、この極端な教えが原因と思われる。
筆者の体験と発見
かくいう筆者も、「一度救われても救いを失うことがある」と教えている教会に通っていたので、アジョイの感じる不安がわからないわけではない。当時、次のような聖句がメッセージ中に語られると、心の中で震え上がっていたものである。
私の通っていた教会では、自分の計画ではなく、主の導きを求め、主のみこころを行うようにと教えられていた。そのため、私はいつも「自分はみこころを行っているのだろうか。主の導きに従っているだろうか。私も主に『わたしはおまえを全く知らない。不法を行う者、わたしから離れて行け』と言われるのではないだろうか 」という恐れを抱いていた。そして、自分の選択はみこころではなかったのではないかと思い、救いを失う可能性を考えて不安になることもあった。
しかし、ある日気づいたのは、このみことばが教えていることは、まったく逆だということだった。ここに出てくる人々は、預言をし、悪霊を追い出し、奇跡を行ったので、天の御国に入れるはずだと主張している。つまり、行いによる救いを主張している。それは聖書の教えではない。聖書では、次のように言われている(エペソ2:8~9)。
また、イエスはヨハネ6:40で次のように語っている。
父のみこころは、第一義的にはイエスを信じる者が永遠のいのちを持つことである。救いは、信仰によって与えられる。そのため、信仰によって救われた後の行いで、救いが取り消されることはない。1
MEMO
聖書には、救いを失う可能性があると教える人が引用する聖書箇所がいくつかあるが、上記の聖句のように文脈を無視して引用されていることが多い。その一例がヘブル人への手紙6:1~6である。この聖句については、中川健一「一度信じて救われた人が、その救いを失う可能性はありますか」(聖書入門.com)を参照されたい。
終末時代の特徴
終末時代の特徴は、キリストの再臨を否定することであると聖書は語っている。この場合、再臨には空中再臨(携挙)と地上再臨(一般に言われる再臨)が含まれる。2ペテロ3:3~4では、次のように言われている。
ここで「彼の来臨」とはキリストの再臨のことである。「終わりの時」とは、キリストが再臨する直前の時代である。つまり、再臨が近付けば近付くほど、逆に世の中はその約束を否定する方向に向かうという預言である。
再臨や聖書の終末預言を否定または軽視する風潮は、CNNのような一般メディアだけに見られるものではない。キリスト教界でも、同様の傾向が見られる。
85か国語に訳され、全世界で5000万部以上印刷された『人生を導く5つの目的(Purpose Driven Life)』の著者、リック・ウォレン牧師は、次のように教えている。
しかし、ウォレンはここでイエスの教えを曲げている。この話の前後の文脈はこうだ。まずマタイ24:3でイエスと弟子たちの会話が始まる。
この質問に対し、イエスは話題を変えることもなく、ご自分の再臨が近付いていることを示すしるしについてすぐに語り始めている(マタイ24:4~31)。たとえば、マタイ24:7~11では次のようなしるしが現れると語っている。
そして、再臨のしるしを一通り語り終えると、イエスは次のように警告している(マタイ24:32~33)。
ここでイエスは、しるしを通して「人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい」と明確に命じている。つまり、イエスは「私が戻ってくることの詳細については、あなた方には関係のないことです」とは決して言っておられないし、むしろご自分が戻ってくるしるしを見逃さないようにしなさいと教えておられるのである。
イエスは、マタイ24:42で「あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らない」と語っておられるので、携挙の正確な日付はもちろんわからない。しかし、再臨の日が近付いていることは上記のような終末預言によって知ることができる。そして、携挙は再臨の前に必ず起こるので、携挙が近付いていることもわかるのである。
携挙や再臨、終末預言を軽視する傾向は、ウォレンに限ったことではなく、現在のキリスト教界全体に言えることである。これは逆に携挙と再臨が近いことのしるしでもある。
結論
キリストが信者を迎えに戻ってこられる携挙は、信者を恐怖に陥れるものではなく、信者の希望である。それは、次のイエスのことばが成就する時でもある(ヨハネ14:1~3)。
イエスは、このことばを信者を恐怖に陥れるためではなく、希望を与えるために語っておられる。
そのため、使徒ペテロは2ペテロ1:19でこう語っている。
預言のみことばは、キリストが戻ってこられることを明確に告げている。世の中がどれだけ暗くなっても、この預言のみことばに目を留めることで、希望を持って生きることができる。携挙の教えは、キリストを信じて救われているすべての信者に、希望と生きる力を与える教えである。
参考資料
中川健一「Q.250 携挙とは何ですか」聖書入門.com (https://seishonyumon.com/movie/6442/)
Roger Oakland, “Rick Warren Says Those Who Focus on Bible Prophecy “Not fit for the kingdom of God”,” (https://www.lighthousetrailsresearch.com/blog/?p=2569)
Andy Woods, “PPOV 111. Chaos in the Church” (https://www.youtube.com/watch?v=5LZZCSOsN4k)
このように言うと、信じたら何をしてもいいのかと反論する人々がいるが、そうではない。信者は神から新しいいのちを受けているので、次第に罪から遠ざかっていくのである。信者であると主張する人が、信じる前と同様に重大な罪を犯し続けて恥じないのであれば、そもそも本当に福音を信じて救われているのかを疑ったほうがよい。
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