
徳川家康の「遺訓」と聖書
聖書と徳川家康の「遺訓」の比較
・「聖書」すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
・「遺訓」人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し。
「人生に疲れた。人間関係に疲れた。会社に疲れた。いろいろと要求してくる窮屈な社会に疲れた。全てに疲れた。もう全部投げ出したい。」
人生の悩み、苦しみ、悲しみ、本当に辛い状況のとき、人はどうしたら良いのでしょうか。
重き荷を背負ったまま人生を歩むのか?
その生き方に報いはあるのか?
イエスとイエヤス
イエス すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28〜30)
聖書でイエスは疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。と、語っています。
You Raise Me Up English & Japanese〜励まされる歌〜
人生に疲れてる方にお勧めする賛美歌
気持ちが沈んで
心も疲れたとき
困難に見舞われ
心に重荷を背負ったとき
私は静かに
静寂の中で待つ
あなたが隣に来て
座ってくれるまで
あなたがわたしを高めてくれる
だから高い山にも立てる
あなたが私を高めてくれる
だから嵐の海も歩ける
私は強くなれる
あなたの肩に身を預け
あなたが私を高めてくれるから
今以上の自分になれる
あなたが奮い立たせてくれる
私を奮い立たせてくれる
だから嵐の海も歩ける
私は強くなれる
あなたの肩に身を預け
あなたが奮い立たせてくれる
今以上の自分になれる(聖化)
イエヤス 徳川家康の「遺訓」
人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し 急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし 心に望み起こらば 困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基 怒りは敵と思え。
勝つことばかり知りて 負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人を責むるな。
及ばざるは過ぎたるに勝れり。
人の一生というものは、重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。
急いではいけない。
不自由が当たり前と思えば、不満は生じない。
心に欲が起きたときには、苦しかった時を思い出すことだ。
がまんすることが無事で長く安らかでいられる基礎で、「怒り」は敵と思いなさい。
勝つことばかり考えて、負けることを考えないことは危険である。
自分を顧みて、人を責めてはいけない。
足りないほうが、やり過ぎてしまっているよりは優れている。
徳川家康の遺訓を読んで、学ぶべきところがあります。しかし、すべて実行できてる人はいるでしょうか?
例えば宗教の教理、素晴らしい良い教え、行いによる救いを頑張っても、すべて実行できる人はいません。神から与えられたモーゼの十戒を神の選民であるユダヤ人は実行できなかった。メシアであるキリストのしるしを妖術使いと疑い「殺せ」と言ってローマ人に殺させました。人は良い行いをすべて実行しようと思っても出来ないんです。
だから、生まれ変わって修行するんだ。
修行の最終到達地点は涅槃だ!
自力本願?(他を頼まず、自分ひとりの力で本望を達成すること。)
他力本願?(仏教用語で「阿弥陀仏の本願によって救済されること」)存在しない存在に祈って救われるのでしょうか?
物、人間の手で造った仏像を拝んで救われるでしょうか?(人の手によって造られた物は、ただの物です。物に向かって拝む行為は罪です。悪霊が集まり悪霊の住処となります)
神(天地万物の唯一の神、天地を支配される方)以外に願っても救いはありません。(偶像に仕えてはならない)
人は輪廻転生して生れ変わりません。
1度だけの人生です。
前世の記憶を語る人がいますが、嘘か悪魔悪霊からの影響です。
偶像崇拝、輪廻転生すると騙すヒンズー悪魔教(オーム真理教)、仏教哲学の神抜きの救いの方便です。
方便=嘘
人は良い行いをすべて行おうと思っても出来ないんです。
神抜きで自力で頑張っても出来ないんです。
世に流され、世に迎合してしまう弱い存在なんです。
だから、イエシュアが必要なんです。
救いとは100%神の恵みによるものです。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:8〜10)
神の御目から「義人はいない、ひとりもいない。」
また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。
新共同訳: 聖書 新共同訳