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ファーストリテイリング1991年

僕は、ちょうど26歳の頃、全く儲からないバーを経営していた。以前は岐阜のアパレルメーカーで働いていたが、どうにも上手くいかなくて、やむを得ず独立したのだ。

車は、古い古い1972年製BMW520の左ハンドル。いつエンジンがかからなくなるかという不安にかられながら、毎日イグニッションをひねっていた。年中金欠で、睡眠不足も当たり前の日々だった。

そんなとき、1991年(平成3年)の冬の深まりに、家の近所にユニークロージングハウス岐阜店が開店しようとしているという噂が流れてきた。気になって店舗に向かってみると、そこには摩訶不思議な求人チラシが貼られていた。時給900円という高額な報酬に、僕は惹かれてしまったのだ。

とはいえ、実は僕には急ぎの出費があった。車のウォーターポンプが壊れてしまって、お金が必要だったのだ。そんな状況で、短期アルバイトを狙うことにした。求人チラシの裏が履歴書になっていたので、紙切れ一枚を持って店舗の裏口を叩いた。

何度も何度も叩いた末に、ようやく人が出てきた。短期アルバイトを希望している旨を伝えると、相手は反す刀で、「短期も長期もすでに埋まっている」と言い放った。

もう、諦めて帰ろうかと思ったその時、相手は不意に、「でも、正社員はまだ余裕があるよ」と宣う。そうして、チラシの人事部に電話するように催促された。

その日はそこで終わりになったが、僕の運命は、あの時、大きく変わってしまったのだった。

翌日、人事部の電話が響いた。あわててスーツを引っ張り出し、指定された名古屋の喫茶店で面接を受けた。相手は、平瀬という男性。彼は、明日名古屋へ行く用事があるため、急遽こちらで面接しようと提案したのだ。結果は、後日電話で連絡するという。

翌日、岐阜からの帰り道、自分の愚かさに呆れつつ、面接を受けたことをすっかり忘れていた。しかし、数日後、BMWのエンジンにプラグレンチを差し込もうとしていた時、ファーストリテイリングの人事部から電話がかかってきた。社長面接のため、来週火曜日14時に本社まで来てほしいとのことだった。

本社までの道順も、丁寧に案内された。そして、その時、初めて自分がいかに情報に疎いかを思い知らされた。新幹線に「小郡駅」があることを知ったのだ。そして、本社が山口県にあることを知った瞬間、混乱が頂点に達した。このあんまりにも情報量が多すぎる状況に、自分の中のプラグが抜け落ちるような気がした。プラグレンチを持ったまま、古いBMWの周りを3周回って、ボンネットを閉めた。

小郡商事ファーストリティリング

岐阜羽島より始発の新幹線に乗り、新大阪で乗り換え小郡へと至りました。山口県、修学旅行以来の地です。果たして本州の果ては、予想以上に遠く感じられました。

小郡駅のプラットフォームを降りると、昭和の雰囲気が漂う土産物屋が一階に並んでいました。ちょっとした時間があるので、散策するつもりでしたが、タクシーに乗って本社までどれくらい時間がかからるか分からず不安もあり、とりあえずタクシーに乗りました。

「宇部大和のファーストリテイリング」と目的地を告げると、運転手のお爺さんはどうやら知らないようでした。「何をやっているところなんだい?」と尋ねられたので、「洋服の会社です」と答えました。すると、運転手は怪訝そうな顔を浮かべて、突然振り向いてきました。「ひょっとして、柳井さんとこの小郡商事?」と尋ねられ、私は頭を傾げました。そういえば、先月に社名を変えた話を聞いたことがあります。私は「そうです、小郡商事でお願いします」と告げようと思いましたが、口からは出ませんでした。それでも、運転手さんの態度は劇的に変わり、シートをまっすぐに戻し、帽子を正しくかぶり直して、「大変失礼しました。柳井さんのところですね。大塔興行ですか、小郡商事ですか?」と聞いてきました。私は何が起こっているのか、少しパニックになりました。しかし、「小郡商事でお願いします」と答えると、運転手さんは緊張気味に「はい」と返答しました。このやりとりが、後に何を意味するのか、私にはまだ分かりませんでした。

社長面接

その頃の社屋は、地上3階地下1階の茶色の煉瓦造りの建物であった。受付はあったかどうか、私の記憶には曖昧である。しかし、社内は全員が忙しそうに働いていた。私はその中の1人に面接に来た旨を伝えると、「おそらく3階だろう」と返答があった。私は階段を上がり、3階に到達した。社長室の全室には待合室があり、くたびれたソファーに3人が座っていた。私だけがスーツを着ていたが、残りの3人はカジュアルで、見るからにヤンチャそうな若者たちであった。私は一緒に座る気になれず、立ったまましばらくの間、その場に佇んでいた。しばらくして「次の人」と呼ばれ、私は最後に来たので「次」ではないと思っていたが、全員が一緒に入るよう促され、初めて社長室に入った。
そして、そこで初めて、当時26歳の私が当時42歳の柳井社長に出会ったのである。




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