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「願いをさえずる鳥のうたーとある姫と皇子の逃亡劇ー」 第3話
第3話 後宮姫は世間慣れしてない
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アナトルキアには、使われていない地下貯水池が多数ある。
中でも古いのは、およそ千年前の大帝が作らせたと言われる巨大な貯水池だ。柱廊だった場所を時の大帝が解体し、現在の貯水池に作り替えたと言われている。
ユナニスタンにあるような古い神殿の柱を使っているため、『地下宮殿《イェレバタン・サラユ》』とも呼ばれている。 貯水池となる前は元々商業や裁判に使われる広場だった。
今は水が浸からない場所で、闇市が開かれていることも少なくない。
「……さて。どこで換金しようかな」
高い天井を見上げると、伸びる柱が闇によって途切れた。太陽の光が一切入らない地下宮殿では、各露店の脇にランプが並んでいる。橙色の灯りは、人々の顔と品物をおだやかに照らしていた。
(……これだけは母様の遺品だから、足がつくことはない)
後宮《ハレム》に入る前に母が持っていたもの。王宮は知る由もない。
カシワが換金したものはどれも王宮から与えられた装飾品だ。盗難防止のため、宝石商には皇家から購入リストが与えられており、そこから足がすぐについてしまう。それでも母の遺品を手放すことは踏ん切りがつかなかったが。
(……よし、今日こそは!)
ようやく覚悟が決まった。今。
今カシワが持てる財は、自分には必要のない装飾品と、もう一つの遺品である石がついた短剣だけ。そちらは護身用のため手放さないでおく。
生きるために持っていたものを捨てていく。
後宮《ハレム》にいては、決してできなかった生き方だ。
後宮《ハレム》は、流れ者であった母子の命と生活の保障をしてくれた。勿論意地の悪い女もいたが、亡き母の代わりに育ててくれた人も、友人だと思える同じぐらいの年頃の少女もいた。安定した将来もあった。
けれど、毎日が砂を噛むような思いだった。
青い陶製タイルが張られた薄暗い部屋に閉じ込められ、着飾った女たちの顔触れは変わらない。――変わるとしたらそれは、どこかの家臣に下賜された場合か、あるいは謎の死因。会話は着飾ることばかりで、他は踊りや楽の音を楽しんで過ごす。春と秋に野遊びに行くこともあるが、後は同じ会話、同じ踊りや音楽。繰り返される毎日の中、カシワに思い出はほとんどない。
誰の娘でもなく、ただ自分のことをまっすぐに見つめてくれたセリムとの数日。
そして、母が教えてくれたこと。
それだけが、カシワの思い出のすべてだ。
カシワの母は、こっそりとカシワに生きる術を教えていた。踊りと格闘技は身体で叩き込まれ、肉や魚のさばき方、周辺国の風土、医療知識から魔術まで。怒涛のように詰め込まれた知識の中には、宮殿を抜け出す方法もあった。
(多分母様は、私をあそこから解放させるために、ピアスを残したはず)
ためらう方がダメだった、とため息をつく。
……それでも手放さなきゃいけないことにはちょっとした精神的ダメージがあったりして。
歩けば歩くほど足取りが重い。ええい、しっかりしろよ自分。何度目かわからない自分への叱咤を、心の中でした時。
「嬢ちゃん、この布買っていかない? 安くするよ」
化粧をした男の店主に声を掛けられた。カモにされるのでいつもなら素通りするが、思わずカシワは立ち止った。
吊るされたものは、絨毯ではなく布だった。
見たことない模様。――けれど、なんて美しい青色だろう。
沈んでいた心が、無意識に浮上する。
「おじさん、これは?」
「更紗っちゅー布だよ。元々の発祥はここよりずっと東にある、インディっちゅー国なんだが、これはそれよりもっと東の、最果ての島国で作られたもんだとさ。藍、という植物で染められた布らしい」
手で触ってみる。絹ではない。木綿だ。
後宮《ハレム》でよく使われる陶製タイルの青より、ずっと深い。
「海の向こうには、色々あるのね」
宮殿があるのは港街のすぐそばなのに、後宮《ハレム》では海も見えなかった。塀で囲まれていたからだ。そしてこの辺りも、巨大な建物が迷路のように混在するため、遠くの風景は見えない。
「海、見たいな」
呟いた声は、店主に「海みたいな色だって?」と勘違いされる。だが、カシワの耳には届かなかった。
「……おじさん、ごめん。また今度に」
カシワはヴェールを深くかぶり直し、歩き出した。
地下宮殿に入ってからどこからか視線を感じていたが、人に紛れてみても張り付くように追いかけてくる。
徐々に足を速める。視界の端に、ランプの光がきらめく。東方の香と、水煙草の匂い。歩く速度を上げるたび、掛けられた赤い絨毯がちらついた。髭を蓄えた男たちが行き交う中心には、裸を晒す女が台の上に立っていた。まずい、とカシワは引き返す。奥まで入ってしまった。地上の入口に近い場所はともかく、奥にいるのは娼婦か競られている女奴隷だ。ここではカシワは上品すぎる。
(ディープだなあ~! もぉ~!)
八つ当たりしたいような気分になるが、八つ当たりする自分が甘ちゃんだとも理解している。
外に出るとは、すなわち未知なことばかりで、それが楽しいことばかりではないことはわかっていた。そしてこう思っている自分が、ひたすら世間に対して甘くかかっていたこともわかっている。
けれど――奴隷になるつもりも、死ぬつもりも、まったくないのだ!