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引用0101:梅原猛「甦る縄文」より

「今日、日本のいたるところで、縄文遺跡の新しい発掘が行われて、ますますその縄文時代という時代は、世界史的に見て、まことに特殊な文化を育成せしめたことがわかってきた。
 たとえば、能登半島の先端にある真脇遺跡では、おそらくは神殿であったと思われる、直系約一メートルの白木の半円形の木材を十本サークル状に並べた遺跡が見いだされたし、また福井県の鳥浜遺跡では、巨大な舟をはじめとする意外に高い技術をもった文化の跡が見いだされたのである。そしてこのような文化は、連綿として以後の文化、弥生文化、古墳文化、律令文化、あるいは武家文化や江戸文化などに連なっているのである。この真脇遺跡で見つかったあの十本のサークルをなした木の柱は、伊勢神宮の心の御柱や、諏訪神社の御柱の信仰につらなるものであろうが、この柱は、『日本書紀』のいうように、天と地と、神の住まいと人間の住まいとを結びつけるものであるに違いない。神様は、この柱をつたわって天から地上に降りてこられるばかりか、またこの柱をつたわって、霊が昇天するのであろう。この真脇遺跡のウッドサークルの周りには無数のイルカの骨が出てきたが、おそらくこの柱は、こうしたイルカの霊を昇天させるための柱であったに違いないのである。
 日本人は、いまでも白木の柱を見ると、ある神聖感を覚える。それは、どこからくるのであろうか。白木の柱を見て、われわれの心に知らず識らずの間に神聖感を起こさしめるのは、ユングのいうように民族のもっている集団的無意識の結果であろうが、真脇遺跡は、この集団的無意識の意味をわれわれにはっきり自覚させてくれたと思う。
 また、真脇遺跡からは、能面の、特に癋見の面に大変よく似た土面が出てきた。能登地方は、いまでも能が盛んであるが、この能は、実は何千年の伝統をもっていたわけである。私は常々、日本の能面が面としてははなはだ小さく、伎楽面や舞楽面のようなかぶる面ではなく、つける面であることに疑問を抱いていたが、もしも能面の起源が木の面ではなく土の面であるとすれば、その疑問も一挙に解決されるのである。だいたい、能のシテは多く死霊であり、能の筋の多くは、人間のなかに紛れ込んだ死霊を鎮魂して、それをあの世に無事送り届けるというストーリーであるが、この四千年前の真脇遺跡でも、このような仮面をかぶって地上にやってくる死霊をなぐさめ、それを再び点に送る祭事が行われていたのであろう。
 このような考古学的な発見は、『記紀』の歴史叙述とほぼ一致するのである。神武建国以前、すなわち南九州からやって来た強い武力を持った農耕民が大和を占領して、王朝を建設する以前に、すでに日本の文化は、ほとんどそのまま存在していたということが、考古学的な発見によって徐々に証明されようとしているように思われる。
 とすれば、日本文化を研究するには、その基層文化である縄文文化を明らかにしなければならない。」(梅原猛「甦る縄文」『日本人の「あの世」観』中公文庫、1993.)


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