辻井喬/堤清二、に関する引用文Ⅳ
一九六〇年代のはじめから小売・流通・ファッションといったビジネスの中にいた私は、自分が推進してきたのはこうした猥雑な都市を造ることだったのだろうかという不安に捉われない訳にはいかなかった。
(略)
少し理論としても整理しておかなければ、という意図で書きはじめた文章は、まとめてみると「消費社会批判」としか呼びようのないものになった。これは「やりたいだけやっておいて、よく言うよ」という反感を惹起せずにはおかないのではないかと恐れたけれども、だからといって沈黙を守るべきだったろうか。これは、目標にしていたものに近付いてみると反対物に転化してしまったという事柄の、身辺における事例だった。
(略)
文化の環境変化と高度成長
私たちは六〇年代以降の経済の成長のなかで数々の懐かしいものが消えていったのを知っている。都市の河川は汚れ悪臭を放つようになり、やがて産業用道路の拡幅のために塞がれ、岸辺の風景は一変した。古い建物は由緒あるものもないものも次々に壊され、近代的で機能的なビルに変り、それに従ってそこに住む人々の意識も変わったようであった。東京の場合、江戸時代から続いてきた木挽町、笄町、箪笥町(港区)などの名前から東西南北と数字に表されるものに置き替えられた。(略)
(略)
このことに関連して、一時期、都市化現象の推進企業と見られていたパルコがある地方都市に出店した際の小事件を私は思い出した。その地方の教育委員会が緊急会議を開いて、学校周辺にはポスターを張らないこと、小・中学生は親の同伴でなければパルコという店に入ってはいけないこと、高校生は制服を着替えてから店に行くことなどを決めたのである。また、この教育委員会に働きかけたのはパルコの進出によって影響を受けると見られていた、その都市の百貨店の経営者だった。彼は商工会議所の幹部でもあったということだった。
井原西鶴が聞いたら、さっそく芝居にしたかもしれないこうした小さな出来事は、おそらく都市化現象が「遅れた」地方に波及していく過程で、いろいろな都市で起こっただろうと思われる。つまり都市化はその地方の伝統的な生活様式を壊す要因を孕んでいると考えられたのであった。そう言えば、この会社の「裸を見るな、裸になれ」「欲しいものは欲しい」、あるいは同じ系列の会社の「おいしい生活」などというポスターはその大胆なデザインと共に刺激的であった。(辻井喬『伝統の創造力』岩波新書、2001._P.58-68)