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辻井喬/堤清二、に関する引用文Ⅴ

反転していったメディアや企業の役割

それにしても、昨今のテレビ・ビデオ・雑誌などの情報の質はコマーシャルも含めて、ただ企業間の競争原理だけが働く場のように見えてしまうのは多くの人の共通した認識であろう。かつては視聴者に対して、情報の伝達や解説、娯楽、芸術の大衆への解放という肯定的な役割を果たしていたメディアは、どの時点から反転して、害の方が大きく意識されるようになってしまったのか。それはちょうど日常生活の近代化、合理化そして多様化に有用であったはずの流通、小売、都市化推進などの企業の役割が、いつの頃からか消費を強制する装置に転化したように見えることと軌を一にしているのかもしれないと思うのは私だけだろうか。その原因はおそらく過剰産業活動ということだけではないに違いない。こうした反対物への転化という現象は経済システムや経営手法の歴史のなかでしばしば起っている事柄でもある。
かつては、テーラーが提唱した科学的管理システムは、教育水準の高低にかかわらず総ての人々に労働の機会を与える方法として労働者に歓迎された。しかし、それを具現化したフォード社のベルトコンベアシステムは一九七三年になってEC(欧州共同体)の労働委員会がEC閣僚理事会に対して「流れ作業の廃止を目指し、社会各層と協力して、直ちに研究に着手することが必要である」と提言するようになったのである。それには労働者を巨大な製造装置の附属部品のように扱うことへの批判が基礎になっていた。ここにはヨーロッパにおける近代の文化的伝統の思想があり、わが国においては、そんな夢のようなことを言っていては競争に敗ける、として一蹴されてしまうような内容だったのであるが。
同じような価値の逆転は、経済発展は豊かさをもたらすことで人々を幸せにするという、開発主義にとっての暗黙の前提についても当てはまってしまうのではないだろうか。(辻井喬『伝統の創造力』岩波新書、2001._P.69-71)

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