ごぶんのいち
こんにちは。
おそらく、このアカウントで書く、最初で最後のnoteになると思います。ですのでしっかりと段階を踏んで、僕の日向坂46に、濱岸ひよりに対する想いのすべてを書いていこうと思います。
日向坂にあんまり関係ない僕自身のことも多めに書いてしまっているので、お時間の無い方はブラウザをお閉じください。ガチで長いです。引き返すなら今です。
HELLO!HINATAZAKA!
埼玉県に生まれ埼玉県で育ち、親の愛を一身に受けて成長したしらす青年は、ごく普通の男子高校生でした。
「文武両道」の垂れ幕をでかでかと掲げた伝統ある男子校。僕はそこで、文化部よりの運動部とも揶揄される吹奏楽部の長く単調な練習と、いずれ迫る大学受験への不安と戦っていました。
平日も休日もお構いなしに、この二人はいつも僕に圧をかけてきます。授業が終わればすぐに練習です。襲い掛かる顧問からの集中攻撃。一人としてミスの許されない、合奏という名のデスゲーム。気の休まる暇がありません。
それが終われば、宿題と参考書が僕を手厚くもてなします。終わりのない数字の羅列。解読不可能な英文。意識の高い同級生との成績開示タイムという、ただの拷問。
自分で選択した道とはいえ、並大抵の忍耐力では耐えきれそうにもありませんでした。
ただそんな僕にも、小学生のころから熱中していた趣味がありました。
スプラトゥーンという名のテレビゲームです。
基本的に休日の午後にのみ触れる余裕のあったこの海鮮系陣取り合戦は、数少ない僕の心の拠り所でした。
そんなある日、日曜夜のテレビ番組でスプラトゥーンが取り上げられることを知りました。「有吉ぃぃeeeee!」という番組でした。
「アイドル」という文化に全く縁がなかった僕が、初めてそれらに触れた瞬間でした。愉快な反応をする子。でかいサボテンを貰って困り顔の子。僕の目には、そのどれもが新鮮に映ったのを今でも覚えています。
高校1年の、冬でした。
ハマんの?
有吉ぃぃeeeee!でついに日向坂に出会った僕でしたが、すぐにファンになった訳ではありませんでした。
そこには、男子高校生ならではの、今考えるとどうしようもなく薄っぺらい、ただ当時の僕にとっては果てしなく高い、「羞恥心」という名の壁がありました。母親に、中学の同級生に、そしてなにより、思春期のしらす青年にとっては、「自分」に対しての恥ずかしさがあったのかもしれません。
「有吉ぃぃeeeee!」で覚えた「べみほ」「丹生ちゃん」この2つの言葉を胸の奥にそっとしまい込み、2021年を迎えたのでした。
ところで、世界には人生の中で7回も雷に打たれた人がいるそうです。偶然の力は、ときに思いもよらない展開をもたらします。
年が明けたある日の休み時間、共に談笑する友達などいるはずもない僕がいつものように机に突っ伏して寝ていると、隣の席からこんな話し声が聞こえてきました。
「いや~今週もべみほ面白かったよな」
え!!!!!!!!!!!!!!!????????????????
そのときの僕の反応速度は、全盛期のリオネル・メッシをもしのいだでしょう。
「ねぇ今べみほって言った?」
言ってました。ここではひとまず「P君」と呼ぶことにするその彼は、「日向坂で会いましょう」というド深夜のアイドル番組について話していました。
未だ心に大きな壁がそびえたつ僕にとって、深夜のアイドル番組視聴というのは、想像以上の強敵でした。ここで奇跡が起こります。当時お笑いに疎かった僕の、唯一といっていいほどのお気に入りコンビ、オードリーがMCをやっているらしいではありませんか。
「いや、まぁ、ね?オードリーがMCやってるっていうから、とりあえず見ておこうかなってだけよ?おぉん。」
手遅れでした。
ご想像の通り、そこからはあっという間でした。週を重ねるたびに覚えたメンバーの名前は増えていき、それまで睡眠時間でしかなかった休み時間は、いつの間にか日向坂討論会へとその姿を変えていました。面白い子を発見すれば、月曜の朝にすぐP君に名前を確認し、メモリに刻んでいきました。
2021年始めというと1stアルバム「ひなたざか」が発売された後だったため、CMに入るたびに映るセンターの子が少し気になっていました。今思えば、このCMのみーぱんがいなければ、ひなあいさえも見るのをやめていた可能性もありました。ありがとう、みーぱん。LOVE。
ですが先にも言ったように、他媒体を追うほどの心理的余裕はそのときの僕にはありませんでした。まとまった時間でもない限りは、Twitterや過去のひなあいを見る時間など、到底捻出することはできません。そう、まとまった時間など、あるはずも、、、、、、、、、、、、、
春休みがやってきました。わずか2週間のその休みで、「ひらがな推し」全50回、「日向坂で会いましょう」当時のリアルタイムまでの100回を全て見終えました。
そこでとうとうついにようやく満を持して、この世界におひさまが一人増えたのです。羞恥心の壁?なんですかそれは。
運命の出会い
初めてのアイドルオタク。何もかもが分からない僕でしたが、唯一理解している概念がありました。「推し」です。
数学における革命「座標」の発見などで知られる哲学者ルネ・デカルトも、自身の著書でこんな言葉を残しています。
”我推しを思う、故に我あり”
嘘です。とにかく、「推し」を見つけることが重要である、という認識は持っていました。
きっかけは覚えていません。よく、推しとの出会いを「雷に打たれたような」と表現する人がいますが、僕の場合は「痛み止めが効いてきたような」とでも言いましょうか、体の芯にゆっくりと染み込んでいくように、気がつけば好きになっていました。
これを読んでくださっている方はお分かりかと思います。濱岸ひよりさんです。
それはもう、「運命」としか言いようがありません。あ、読みは(まぢきせき☆)です。「運命(まぢきせき☆)」です。
僕が「一番好きな表題は何か?」という問いに「君しか勝たん」と答えているのはこのころからです。好きになった時期の表題というものはいつまでも忘れられません。そうですよね。そうですよね?
10月の全国おひさま化計画東京公演では初のライブ参戦を果たし、バイトもできない学生としてはハードルの高いtalk購読も開始するなど、着実におひさまの階段を上っていきました。それこそ、ひなくり2021のあの発表で目頭が熱くなるほどには。
「起承転結」の「濱」の部分
思えば、ひよりが休業していた時期を「過去」としてしか知らない僕は、推しのいない状況というものにまったく耐性がなかったのでしょう。
ここで新たな経験をします。
2022年3月26日、「濱岸ひより 新型コロナウイルス感染に関するご報告」
あの日のことは、忘れたくても忘れられません。
待ちに待った、グループの念願ともいえるライブでの推しの欠席。語彙が貧弱な僕には、このときの気持ちを形容する言葉が思い浮かびません。まじでやばたんでした。
そうして迎えた東京ドーム公演は、楽しさ半分悲しさ半分、といったような気持ちで見ていました。
僕の最推し曲「窓を開けなくても」や美穂センター「抱きしめてやる」の披露など、どう考えても最高のライブでしかありませんでした。
でもどうしても、MCで全員が一列に並ぶたびに、花道を連なって歩くたびに、曲が切り替わりステージが明るくなるたびに、探してしまうのは少し背の高いあの子でした。カブトムシではなくひよたんでした。
そんな複雑なドーム公演を乗り越えたひよっこオタクに待ち受けていたのは、またもや予想だにしない初体験でした。
2022年4月3日、「渡辺美穂 卒業のお知らせ」
僕にとって卒業とは、戦争のようなものでした(???)。そういう歴史があったことは理解しつつ、他のグループでは日常として起こっていることも理解しつつ、それでも自分が推しているグループとは縁のないものと、そう考えてしまっている自分がいました。
あれほどまでに喪失感を感じたのは初めてでした。時を同じくして新メンバーの募集も発表され、僕の心を奪った22人の日向坂が、その姿を変え始めました。
希望の光~ひよりを信じて~
さらに、もっと大きな問題が僕を襲います。受験です。
小学生のころから紙と鉛筆と愛と勇気だけが友達だった僕は、身の程も知らず、志を高く設定していました。
もちろん簡単な話ではなく、想像を絶するような時間をそれに捧げました。定期的にある模擬試験では、逃れようもない現実を何度も目の当たりにしました。根がネガティブなので(根がネガティブってなんか面白い、ネガネガ)、そのたびに良くない想像ばかりしてしまいます。
高校3年生になったある日、家の方針もあり、もう1年という選択肢を取るわけにはいかなかった僕は、受験勉強を始めた頃の僕を、裏切りました。
今となってはその選択に後悔はありません。素晴らしく充実した学生生活を送っています。
ただそのときにおいては、数年後の未来など見えもしないしらす青年にとってそれは自分への敗北宣言でしかありませんでした。
そんな学校と予備校を行き来するだけだった毎日の中で、希望の光が僕を支え続けてくれました。
毎週30分のひなあいと超絶不定期更新のhiyoritalkのふたつです。
そしてそして何よりも、ひより推しとしてこのシーンを好きでない人は絶対にいないと断言できる、あの曲のあのパートです。
本当に本当に本当にありがとう。
ひよりのおかげで受験期を乗り切ることができたし、ひよりこそが受験期を頑張る理由そのものでした。
そうして進んだ大学での最初の1年は、はっきり言って受験期よりもキツすぎて、推し活どころではなくなってしまったため書くことがないです。僕のおひさま生活で空白の1年です。片道2時間通学、100分授業が週21コマに大量の課題とか意味わからん。
卒業発表の時間軸まで一気に飛びますね。
残された時間と後悔
そうしてある日、濱岸ひよりの卒業が発表されました。8月6日は、僕の人生で一番大泣きした日となりました。
日向坂を語り合う友達がほとんどいなかった僕は、同じひより推しとライブに行ったことが、なんなら会ったことがありませんでした。
日向坂を知った当初から、こんなに魅力的でこんなに美しい子の人気が収まるわけがないと思っていた僕は、他のひより推しがいない左に少し戸惑っていました。
そんな僕が初めてひより推しと連番をしたのは、チャリティーライブでした。めちゃくちゃ最近ですね。そこで初めて、「本物のひより推し」を見ました。マジもんでした。
そして9月のひなたフェスを全力で楽しんだ後、本当に重要で最高の大きな出会いが待っていました。
マンボウちゃんディスコです。
何もかもが暖かくて、熱量がすさまじくて、本気でひよりと向き合っている人たちがそこにはいました。
今まで知らなかったひよりの一面を知れたり、自分一人では絶対に出来なかったことを出来たりなど、多くの方々がいたおかげで充実した日々を送ることができました。卒業に際しての様々な企画もほんのちょびっと、自分でも覚えてないくらい少しですが、参加させていただけて光栄でした。
ひよりの卒業が発表されたことは、間違いなく僕の人生の中でトップクラスに衝撃的で悲しい事実でした。
ですがそれと同時に、卒業が発表されてからこれまでの約5か月は、おひさまをしてきた4年間の中で、一番楽しくて一番ひよりのことが好きだった期間だったと胸を張って言えます。
もちろん、後悔もあります。
有名な言葉で「推しは推せるときに推せ」というものがありますが、今の僕ほどこの言葉がしみる人間はいないでしょう。
どれだけ忙しくても、どれだけ辛くても、全力でひよりを推すべきだった。すべてを捧げるべきだった。それに気がついたのは、終わりが見えた後でした。
あと3年僕が早く生まれていれば、大学を卒業し就職して、好きなように推し活が出来ていたのかも。
生写真をいっぱい買ってコンプして、シングルだって爆買いしてスペイベ当選しちゃったりなんかして。地方のライブだって全て参戦して、いつかはアリーナでレスを貰って。ひなこいやひな図書にめいっぱい課金してリアイベを狙ってみたり。もちろんミーグリだってたくさん積んで、他愛もない会話をして。
そのどれもが、高校生の頃からずっと夢見てきた姿でした。もう少し、もう少しだったなぁ。
気持ちの変化
卒業が近くなるにつれ、僕の中のひよりへの想いがどんどん増していることはずっと感じていました。それが何であるのか、最近になって分かったような気がします。
他のメンバーにも向いていた意識が、さらにひよりに集約し始めたのだと思います。もちろん、推し活としての想いの絶対量も増えてはいるのですが、今までよりも鋭利(?)なおひさまになっているような気がしています。
その感覚の筆頭としては、12thシングルのフォーメーションや収録曲の発表によって僕の中で顕になった、やるせない怒りのようなものがあります。
「何故ひよりじゃなくこの子なんだ」
そういった負の感情が、僕の腹の中を巣食い始めました。残念ながらその思いは今でも昇華することなく残っています。
このような理由で、ひよりが卒業したあとの日向坂46を推していける自信が僕にはありません。
終わらせよう
ここからは楽しかったことを書いていきたいです。ちょっと愚痴が多すぎた。
12thひなた坂ライブでは、アイドル「濱岸ひより」の本気を見ることが出来たように感じました。マブダチであり尊敬するきょんこさんのソロ曲「孤独な瞬間」と「居心地悪く、大人になった」を披露しているひよりは、これまでのどのひよりよりも美しく、圧倒的な迫力がありましたね。そしてやはり歌が上手い。もはや美味しい。
22回目のひよ誕祭の日に発表された写真集の発売は、ひよりの夢であると同時に僕たちひより推しの夢でもあったと思います。
供給の少ない日々に不満がこぼれるときもありましたが、hiyotanbookには感謝しかありません。たくさんのひよりの笑顔を届けてくれてありがとう。1プリ最高。
池袋駅の出口を間違え迷子になり、重みを増していくトートバッグに肩を潰されながら東京中を駆け回った12月3日の夜も、いつかは泣きたくなるほど懐かしい思い出になるのかな。
全ページがベストショットでした。
履修が落ち着きお金も貯まり、これからどんどん積んでいくはずだったミーグリは、卒業ブーストによって満足な枚数を確保することができませんでした。
コミュ障の極みで笑顔はひきつるし声も上ずっちゃうけど、それでも、いつまでも忘れられない素敵な思い出です。自分の言動を思い出すのが気持ち悪くて苦手で、レポを一切書かなかったの、ちょっと後悔。
リアミは2回しか行けなかったけど、ひよりに会うために電車に乗って東京に繰り出すというあの感覚が、そのときのわくわく感とセットで強く記憶に残っています。初めてのリアミはスピッツを聞きながら行ったなぁ。
2回目にして最後となった12月15日のリアミでは、念願叶ってひよりの身長を感じることができました。高身長フェチの僕は、これ以上ないほどに興奮しましたとさ。改めて、僕はひよりが好きだと実感しました。
そして、ついに来てしまった卒業セレモニー。木金の授業を蹴っ飛ばして、飛行機に乗り込みました。そうして到着した初上陸のその県は、ほのかにとんこつラーメンの香りがしました。しました。
思えば、この日はずっとフワフワしていました。完全にテンションがおかしかったな。見知らぬ土地で、見知ったひより推したちに会って不思議な気持ちだったのかも。
影ナレを終え、ついに流れ始めたoverture。ここでもう泣いちゃった。無理だよ。卒業発表以来の大泣き更新です。
ライブ本編の方は、少し思うところもあり複雑な気持ちで終えました。そして唐突に聞こえてきた、いなちゃんの声。泣きすぎて内容まじで思い出せない。
少し経つと、荘厳な音楽とともに世界一美しい女神がステージに現れました。このあたりで、僕の涙の在庫はなくなりました。そんなことってあるんですね。これ以降は表情筋が痙攣するだけで、一滴も涙は流れませんでした。怖かった。
ひよりの「二期生でやりたかった曲」という振りで流れたイントロには、度肝を抜かれました。それは予想できんて。
ほんっとうに悔しいのが、タオルで涙を拭いていた影響で口がふさがってしまって一時的な過呼吸状態になり、スピーチから全員登場までの流れを集中して見られなかったことです。万全な体調でリベンジしたい。
それからのメンバーの言葉は、幸いにも涙は枯れていたため集中して見ることができました。小坂、ありがとう。
楽しかった時間も、長くは続きません。JOYFUL LOVEの終わりは、僕にとって最高のアイドルの終わりを意味します。
階段を上がるひより。
「あぁ、終わる。」と思ったその時、ひよりが振り返りひとこと。
「大好き!」
本当にあなたを推してきてよかった。あなたに出会えてよかった。
こんなに綺麗で愛おしい幕引きが他にあるでしょうか。
そうして、濱岸ひよりが、僕の青春が、ステージを降りました。
ちなみにこの「大好き!」はその場で思いついた言葉だそうです。なんて子だ。ミーグリで聞いたよ。
ひよりへ
アイドルという道を選んでくれてありがとう。
けやき坂46に入ってくれてありがとう。
数えきれないほど多くの人を笑顔にしてくれてありがとう。
グループに戻ってきてくれてありがとう。
そして、僕と出会ってくれてありがとう。
あなたがいたから、辛い日々を乗り越えることができました。
あなたがいたから、朝を迎えるのが楽しかった。
あなたがいたから、生きるのが楽しかった。
毎日、とまではいかない数日おきのtalkが、歌番組で聞こえる艶やかな歌声が、ライブで見るダンスが、ひなあいで笑うあなたの姿が、生きがいでした。
今年で20歳になった僕の人生の中で、5分の1はあなたを好きでいました。
あなた以上に誰かを好きになれる想像がつきません。
いつになるかわからないけど、人生の最後をゆっくり迎えることができるなら、最後に思い浮かべる顔はひよりがいいな。
ありがとう。さようなら。
さいごに
僕には、おひさまとしてこれを生で見ずには死ねない!と長らく思っていた2曲がありました。
片方は、運よく「潮紗理菜卒業セレモニー」にて叶えられました。まさか、一年越しに自分の推しが、同じく卒業セレモニーという舞台でその曲を選ぶとは思いもしませんでしたね。
そしてもう一曲は、辛い受験勉強に追われる日々で心の支えとなったあの曲です。もちろん、オリジナルのあの二人のダンスで見たいな。去年披露しましたが、なっちょ卒セレに参戦した分二日目の公演は行けず、念願の披露には立ち会うことができませんでした。
東京ドームで待ってるからな!!!
やっと終わりです。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。さすがに長すぎるって。
こんなにも長く拙く恥ずかしい文章を折れることなく読み進めたあなたには、街中で急激にのどが渇いて立ち寄ったコンビニでひよりがバイトしてる未来が待っていますきっと。
追記(2025/01/01)
夢が叶った。これでもう、思い残すことはない。
プレゼントボックスから出てきたひよりを見た瞬間に視界がぼやけた。
イントロが聞こえてきた瞬間に泣き崩れた。
もう、よく覚えてないくらいに幸せな時間だった。
ありがとう。