私「だからこそ」

「高校生の時の私がこの選択肢知っていたら」
「あの時近い目標を持った友達がいたら」
「もっと早く大学に進学できていたら」

日本の大学に一度進学し、2年のギャップイヤーを経て留学を決めた私は、考えても仕方がないタラレバに囚われてしまうことがありました。

でも、これはこの前52HzのPodcastでお話ししたように、決して変えられない「過去の自分」の部分。この座標の黄色の部分に固執して卑屈になっても、自分を惨めにするだけだと気づきました。

私は「恵まれている」と思います。
確かに、高校時代はグローバルな選択肢が当たり前ではない環境で、たくさん悩んで遠回りもしました。
でも、振り返ると、高校時代の素敵な思い出もあるし、遅く始めた留学を応援、サポートしてくれる家族もいる。そして、遠回りしたからこそ出会えた人たちや見られた景色は、私にとってかけがえのない宝物です。私は恵まれています。

「有るもの」に目を向けることで見える多面性に気づけるかどうかは、結局自分次第だと思います。
そして、何に目を向けるかを選ぶとき、損得勘定で考えていいと思うんです。自分が「どの見方を選べば、より心地よく生きられるか」を基準にして。

環境や生まれ持ったものも才能の一部だとしたら、羨むだけで終わるのか、それとも「私だからこそできること」を探すのか。そんな選択肢も、結局は自分次第です。

そして他人を「理解した」と思い込んで、自分と比較することは、むしろ傲慢かもしれない、とも感じます。どんなに想像力を働かせても、私が相手になることはできないからです。

だからこそ、人と自分を短絡的に比べたり、安易な意見を押し付けるのは避けたい。誰もがそれぞれの場所で、それぞれの苦しみや悩みを抱えて生きているはずですもんね。

時には、突然大きな苦しみに押しつぶされそうに感じることもありますよね。恵まれてるとか恵まれてないとか、そんなレベルじゃない出来事に。
大切な何かを失ったり、信頼している人に騙されたり、粛々と積み上げてきた物が崩れたり、どうしても報われないと思うとき。ポジティブな言葉すら痛くて痛くてたまらないとき。

でも、そんな苦しみや悲しみが、いつか誰かの痛みに寄り添う「優しさ」になり、何かを生み出す力になる可能性だけは、どんなに辛い時にも忘れないでいたいです。そう考えるだけで、少しだけでも、今の自分が報われる気がしませんか?

どんな経験も、無駄になるどころか、未来の自分にとって大切な武器にすらなり得る。私はそう信じています。
だからこそ、今の自分の置かれた場所を少し俯瞰して、どこに目を向けるかを自分の意思で選んでみる。それでも苦しいときは、その苦しさがきっと未来にもたらす意味や可能性に焦点を当てて、無理せずゆっくり進んでいきましょう🫂

年末に真面目な話をしてしまいましたが、読んでくれたみんなにビッグハグ🫂❤️
ラブ🫂❤️

ぜひ素敵な年末年始をお過ごしください❤️❤️
また次のnoteかYouTubeかなにかでお会いしましょう🫂🫂(しつこいハグ)

ひより🍀

いいなと思ったら応援しよう!