その呆気なさを祝福するために/オタール・イオセリアーニ『群盗、第七章』(1993)

感動的な音楽に煽られることなく、悲痛や苦悶に満ちた顔をクロースアップで捉えることもなく、そして役名もない一人の「死」をあまりに呆気なく撮ることが出来る監督を信頼したい。パッと思い付くのが『ノン、あるいは支配の虚しき栄光』を撮ったマノエル・ド・オリヴェイラ。旗を握りしめた兵士の手を何のためらいもなくスパッと切った鮮烈なロングショットは忘れ難い。
本作においてオタール・イオセリアーニは、オリヴェイラ同様呆気ないほど簡単に人を殺してみせる。それは玩具のような銃を子供がぶっぱなして大人が吹き飛ぶことから始まる(その前のシーンで写るくまの縫いぐるみとのギャップが良い。しかも別のシーンでも似たようなことやってたよね)。処刑される寸前の女がおどけた顔でウィンクをしてみせる強烈なシーンもそうだけれど、ポンポン人が死ぬ割にはユーモアを忘れていないところが凄い。感傷さを避けて、人生に必ず訪れる日常の延長線上にあるものとして死を描く。
かと言って全くふざけているという訳ではなく、しっかり(謎の)感動を覚えることの出来る映画でもあるから余計に素晴らしい。例えば、誰も乗ってない車椅子が坂を下っていくショットや楽団員不在を示す並べられた椅子のショットの物悲しさと言ったらない。沢山の言葉を並び立てて泣かせようとする醜悪さを免れ、喋ることのできない道具にカメラを向けて"語らせる"その手腕はなんて見事なのだろうか。「在」でなく「不在」に目を向けること、その視点が限りなく映画を豊かにするのだと、自分は思う。