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覚書(淤母陀琉神・阿夜訶志古泥神)

淤母陀琉神・阿夜訶志古泥神(おもだるのかみ・かしこねのかみ)

概要

神世七代 第6代の兄妹神。面足命は兄、惶根命は妹。
(中略)
神仏習合の信仰においては、神世七代の六代目であることから、仏教における欲界の六欲天の最高位である第六天魔王の垂迹であるとされ、特に修験道で信奉された。明治の神仏分離により、第六天魔王を祀る寺の多くは神社となり「第六天神社」を名乗るようになり、同時に祭神をオモダル・カシコネに改めた。

おさんぽ、YOKOHAMA」さんより

禍津日神(まがつひのかみ)

神産みで、黄泉から帰った伊邪那岐命が禊を行って黄泉の穢れを祓った時に生まれた神で、『古事記』では八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と大禍津日神(おほまがつひのかみ)の二柱、『日本書紀』第五段第六の一書では八十枉津日神(やそまがつひのかみ)と枉津日神(まがつひのかみ)としている[1]。これらの神は黄泉の穢れから生まれた神で、災厄を司る神とされている[1]。神話では、禍津日神が生まれた後、その禍を直すために直毘神(なおびのかみ、神直毘神、大直毘神)二柱と伊豆能売が生まれている[2]。なお、『日本書紀』同段第十の一書ではイザナギが大綾津日神を吹き出したとしている[1]。これが穢れから生まれたとの記述はないが、大綾は大禍と同じ意味であり、大禍津日神と同一神格と考えられている[1]。

Wikipedia」さんより

本居宣長は、禍津日神を悪神だと考えた[5]。宣長によると禍津日神は人生における不合理さをもたらす原因だという[5]。この世の中において、人の禍福は必ずしも合理的に人々にもたらされず、誠実に生きている人間が必ずしも幸福を享受し得ないのは、禍津日神の仕業だとした[5]。「禍津日神の御心のあらびはしも、せむすべなく、いとも悲しきわざにぞありける」(『直毘霊』)と述べている[6]。

一方、平田篤胤は禍津日神を善神だとした[7]。篤胤によると、禍津日神は須佐之男命の荒魂であるという[7]。全ての人間は、その心に禍津日神の分霊と直毘神(篤胤は天照大神の和魂としている)の分霊を授かっているのだという[7]。人間が悪やケガレに直面したとき、それらに対して怒り、憎しみ、荒々しく反応するのは、自らの心の中に禍津日神の分霊の働きによるものだとした[7]。つまり、悪を悪だと判断する人の心の働きを司る神だというのである[7]。またその怒りは直毘神の分霊の働きにより、やがて鎮められるとした[7]。

Wikipedia」さんより



天魔

天魔(てんま)とは第六天魔王波旬(はじゅん、サンスクリット: पापीयस् pāpīyas、より邪悪なもの)、すなわち仏道修行を妨げている悪魔のことである。天子魔(てんしま)・他化自在天(たけじざいてん)・第六天魔王(あるいは単に魔王)ともいう。また、天魔の配下の神霊(魔縁参照)のことを表す場合もある。

Wikipedia」さんより

他化自在天

他化自在天(たけじざいてん、: Para-nirmita-vaśa-vartin[1])は、三界における欲界の最高位、且つ六道天道(天上界)の最下部である、六欲天の第六天。欲界の天主大魔王である第六天魔王波旬(はじゅん、Pāpīyas)の住処。

この天は、他人の変現する楽事をかけて自由に己が快楽とするからこの名がある。この天の男女は互いに相視るのみにて淫事を満足し得、子を欲する時はその欲念に随って膝の上に化現するという。天人の身長は三里、寿命は1万6千歳という。ただし、その一尽夜は人間の1600年に相当するという。

天人としての他化自在天は、弓を持った姿で描かれる。

Wikipedia」さんより

魔縁

魔縁(まえん)とは、仏教用語で、障魔となる縁(三障四魔)のこと。また特に第六天魔王波旬を指す。また、いわゆる慢心の山伏である妖怪の天狗、即ち魔界である天狗道に堕ちた者たちを総称していう場合もある。

(中略)

天狗道は仏教の六道の範疇にないことから、その六道の輪廻からも外れた魔界であるとされる。仏教の知識があるため人間道には戻れず、特に宗教上の罪を犯したわけではないため地獄道、餓鬼道、阿修羅道、畜生道には堕ちず、かといって信心には無縁であるため天道にも行けず、天狗道に堕ちるとされる。そのため、6つの道から外れて救済不能な道、あるいはその道の者を外道と俗称する

(中略)

五部大乗写経をして怨念をもって死んだ崇徳天皇は、「日本国の大魔縁になる」と言い残したとされる。しかし、現在では白峯神宮の神となっている。

Wikipedia」さんより


崇徳天皇は「日本史上最も恐れられた御霊」として、百年ごとの式年祭前後の数年間には決まって国家的な動乱が起こったためです。

孝明天皇は幕末の国家動乱を避けるため、崇徳天皇の神霊を京都に奉還し鎮魂する白峯宮の創建を決めました。

父帝の遺志を継ぎ、明治天皇は慶応4年/明治元年(1868)に讃岐から京都へ、700年ぶりに崇徳天皇の神霊を迎えられました。

Kyoto Love.Kyoto 伝えたい京都、知りたい京都」さんより

崇徳天皇

保元物語』によると、崇徳院は讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経[14]の写本作りに専念して(で書いたかで書いたかは諸本で違いがある)、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込んだ。

Wikipedia」さんより

長寛2年(1164年)8月26日に保元の乱に敗れ、讃岐に島流しとなった崇徳上皇が亡くなりました。

その崇徳上皇の御霊が再び京都に戻ってきて京都市上京区の白峯神宮に祀られたのは、それから約700年も経った慶応4年(1868年)のことでした。

(中略)

実は、明治天皇は、孝明天皇の遺志を継ぎ、讃岐から崇徳上皇の御霊を京都に戻し鎮魂するまで、即位を待ったのです。

(中略)

この後、9月6日に崇徳上皇の御霊が京都に到着し、明治天皇が参拝します。

そして、9月8日に慶応から明治に改元されました。

(中略)

明治になってから日本の旧来の文化を捨てて、文明開化の名のもとに西洋文明を急速に受け入れていきました。

京都観光旅行のあれこれ」さんより

配流の地で讃岐国司庁・綾高遠の娘との間に一男一女

讃岐への崇徳上皇の護送は過酷なもので、殆ど囚人同様で上皇への礼儀を欠いたものでした。
崇徳上皇は讃岐国司庁の綾高遠の館近くの仮御所、雲井御所に入られ約3年間を過ごされます。
この間綾高遠の庇護を受け比較的平穏に過ごされ、地元民との交流もありました。
綾高遠の娘との間に一男一女が生まれますが、いずれも早世し菊塚、姫塚に埋葬されました。
その後完成した鼓ケ岡御所に移られますが綾高遠の館とも離れ、不自由な生活環境となり、仏事にのめり込むようになります。

Kyoto Love.Kyoto 伝えたい京都、知りたい京都」さんより


讃岐国で崇徳上皇は9年過ごされましたが、京都に戻ることは叶わないと心を落ちつかせ、五部大乗経を自筆されました。
3年がかりで自らの血で書写した自筆の経を京に送られるも、天皇はそれを拒絶します。
拒絶されたことを崇徳上皇は怒り恨み、「後生菩提のためとて書き奉る五部大乗経の置き所さえ許されねば、今生の怨みのみにあらず、後生までの敵にこそ」と言って、舌先を噛み切ってその血で経文の軸に、諸々の天部への願文を書きつづりました。

「日本国の大魔縁となり、天下を乱り国家を悩まさん」と誓って、以後髪も剃らず爪も切らず、生きながら荒んだ姿となって46歳で8月26日に崩御されました。

Kyoto Love.Kyoto 伝えたい京都、知りたい京都」さんより



第81番札所 綾松山 洞林院 白峯寺(りょうしょうざん どうりんいん しろみねじ)

保元の乱で破れ讃岐へ流された崇徳上皇は、都へ帰りたいという思いが叶わぬまま寂しくこの地で亡くなられ、御遺詔によって当山稚児嶽上に荼毘し、御陵が営まれました。

四国八十八ヶ所霊場会HP」さんより

月輪寺

【崇徳天皇(上皇)】 平安時代 近衛天皇崩御後院政を行っていた 鳥羽天皇の甥を擁立 親王の父である崇徳上皇が 藤原頼長に命じ【愛宕山】で 呪詛を行い天皇を呪殺したと広まり保元の乱が起きる 讃岐に流罪の後 日々怨みを重ねられ その御霊は愛宕山に登りて 天狗になられ後 讃岐と愛宕山を行き来する

月輪寺公式X(旧Twitter)」さんより


月輪寺には崇徳天皇様の 【肖像画】の掛軸が御座います 特別慰霊法要の時のみ掛けており 崇徳上皇様の慰霊法要は 月輪寺秘中の秘でございます

月輪寺公式X(旧Twitter)」さんより


京都からお迎えがきた崇徳上皇の御霊(「BUSINESS KAGAWA」)

明治の第一歩は、崇徳上皇の御霊の鎮魂から始まったということです。

BUSINESS KAGAWA」さんより

安井金毘羅宮

【御由緒】
第38代天智天皇(てんちてんのう)の御代(668~671年)に藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が一堂を創建し、紫色の藤を植え藤寺と号して、家門の隆昌と子孫の長久を祈ったことに始まります。

 第75代崇徳天皇(すとくてんのう) (在位1123~1141年)は特にこの藤を好まれ、久安2年(1146年)に堂塔を修造して、寵妃である阿波内侍(あわのないし)を住まわされました。

 崇徳上皇が保元の乱(1156年)に敗れて讃岐(現、香川県)で崩御された時に、阿波内侍は上皇より賜った自筆の御尊影を寺中の観音堂にお祀りされました。

 治承元年(1177年)、大円法師(だいえんほうし)が御堂にお籠りされた時に、崇徳上皇がお姿を現わされ往時の盛況をお示しになられました。このことは直ちに後白河法皇(ごしらかわほうおう)に奏上され、法皇のご命令により建立された光明院観勝寺が当宮の起こりといわれています。

 光明院観勝寺は応仁の乱(1467~1477年)の兵火により荒廃しましたが、元禄8年(1695年)に太秦安井(京都市右京区)にあった蓮華光院が当地に移建され、その鎮守として崇徳天皇に加えて、讃岐の金刀比羅宮より勧請した大物主神と、源頼政公を祀ったことから「安井の金比羅さん」の名で知られるようになりました。

 明治維新の後、蓮華光院を廃して「安井神社」と改称し、更に「安井金比羅宮」と改め現在に至っています。

安井金比羅宮公式HP」さんより

【御神徳(御利益)】
あらゆる悪い縁を切り、良縁を結ぶ


 主祭神の崇徳天皇は、讃岐の金刀比羅宮で一切の欲を断ち切って参籠(おこもり)されたことから、当宮は古来より断ち物の祈願所として信仰されてきました。

 また、戦によって心ならずも寵妃阿波内侍とお別れにならざるを得なかった崇徳上皇は、人々が御自身のような悲しい境遇にあわぬよう、幸せな男女のえにしを妨げる全ての悪縁を絶切って下さいます。男女の縁はもちろん、病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁を切っていただいて、良縁に結ばれて下さい。

 良縁に結ばれたご夫婦やカップルがお参りされても縁が切れることはありません。更にお二人がより深くより強く結ばれる御利益をいただけますのでご安心を。

海上安全

 崇徳天皇とご一緒にお祀りしています大物主神は、古くから道開きの神様として信仰されています。

 特に讃岐(香川県)の金刀比羅宮は海上交通の守り神とされてきました。当宮は京都市内唯一の金比羅さんとして、釣り人やマリンスポーツを楽しまれる方の信仰を集めています。

交通安全

 海上安全と同じく、大物主神のお力によるご利益です。

 現代社会では、ご自分が原因でなくても、いつ事故に巻き込まれるか分かりません。自動車、バイク、鉄道、その他あらゆる交通に関わる災難からお守りいただく御神徳です。

安井金比羅宮公式HP」さんより


北西の方角について

『北西』

 「主人」「上司」「目上」「出世」などをつかさどる大事な方位。

Dr.コパの風水相談所」さんより

白峯神宮

9月21日 秋季例大祭
崇徳天皇祭 11:00
薪能 16:00

「白峯神宮HP」さんより

(考察MEMO)
京都御所の北西(風水的に目上の場所)の白峯神宮(旧名白峯宮)に明治天皇が崇徳天皇を不遇の終焉の地である讃岐から移す。また、白峯神宮には1873年(明治6年)、藤原仲麻呂の乱で淡路国に配流され崩御した淳仁天皇(淡路廃帝)の神霊を淡路島から迎えて合祀している。これは天皇家へ恨みを持つであろう怨霊に対する鎮魂の意味なのか、それともその恨みの力を利用して真の力を押さえつける意味なのか。明治は急速に西洋文明へ舵を切った時代である。日本古来のものへの嫌悪と破壊が始まった時代。私は恨みの力を利用したのではないかと考える。
天狗道は外道と言われ、六道輪廻から外れて救済不能と言われる世界らしい。今こそ、そこに住む「大魔縁となる」と宣言した崇徳天皇の真の鎮魂と慰霊、救済が必要なのではないだろうか。