見出し画像

44.対案のない批判の価値は低い

コロナのワクチン接種、進んでいるようですね。我が家にも接種券が郵送されてきました。このワクチン接種について様々な意見があるようで、特に最近声が大きくなってきたのは”陰謀論”の類のものです。要は「コロナワクチンは実は毒で、数年後に多くの人に多大な影響を出すことになる」といった趣旨のものです。

批判はあっても対案はない

この話について、私としては”その通りかもしれないし、その通りじゃないかもしれない”という意見です。なぜなら、判断できないからです。確かに事例(実は事例ではなく作り話かもしれませんのでご注意を)として「接種を受けることで体調が悪化した」、「ワクチンを打って死亡した人がいる」、「血中の成分が変化することにより悪影響が出る可能性が高い」などを挙げ、それを根拠に話す方もいます。

しかし、これらの意見には概ね”対案”がありません。簡潔に言えばワクチンは、コロナによる社会の停滞を解消するための手段として世界レベルで提唱されており、これを打つことで、将来的にはまた誰もがマスクなく楽しく社会的な生活が送れるようになることを目的としているはずです。しかし「受けるな」、「受けたくない」という意見はあっても、「だからこのようにしてそのような社会を、誰もが納得する形で取り戻そう」というものはありません。要は、対案なく批判だけしているということです。

対案がない以上、それがどれだけ全うな内容でも、
現行の方法で行くのが行動ベースでは最適解

これは会社や組織の中でも言えることだと思います。仕組、人のこと、業務内容、設備など、どんなことにも批判をすることは容易にできます。しかし、対案がない批判は本当に価値が低いと考えています。なぜなら、物事を前進させるには行動ベースで考える以外になく、「じゃあどうするか」がない以上意味がないからです。まだ弊社では徹底できていませんが、基本的に”反対意見は対案込みで言う”ことを、少なくとも私自身に対してはもちろんのこと、私が参加する会議については徹底しています。

今日はコロナウイルスに関する、最近のシビアな話題に触れてみました。これだけ書いておいてなんですが、私自身は”ワクチンには懐疑的だが接種する”という意見です。ワクチンに懐疑的な理由は”薬の臨床実験期間としてはあまりにも短いものを打つのは抵抗があるから”です。私もその道の専門家ではありませんが、開発から1年足らずで臨床まで完了する薬はないはずです。そういう意味では、まだ見ぬ副作用がある可能性は否定できないと思います。ただ、行動ベースでは接種しようと考えています。その理由は、”この件について私には特に対案がないことと、早く以前のように多くの人々と気にせず交流できる社会が戻ってきてほしいから”です。今日の話も何かのお役に立てば幸いです。

(注意)今日はコロナウイルスやそのワクチンについて意見を書きましたが、文章中でも述べた通り私はその道の専門家ではなく、記事の内容も専門的知見から述べたものではありません。正確な情報につきましては本記事をうのみにすることなく専門性・信頼性の高い情報を基に判断いただきますよう、よろしくお願いいたします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?