恋のこと

わたしにとって、27歳の2月まで、恋は至上の喜びで、歓びで、悦びの宝物だった。催眠術にかかったような快楽(けらく)で、渦中にいるときは、そのこととその人以外なんにも興味がなかった。

ぐっとのめり込んで全部を捧げるような恋は、24歳からの3年間にふたつ。

ひとつは恐ろしく悲しくて最悪の恋愛で、もうひとつは嬉しくて幸せで最高の恋愛だった。

でもどちらも、両極という点では非常に強くわたしの心を満たすもので、研究も友達づきあいもアルバイトも、いわゆる「生活」を手放しはしなかったけれど、心の中では、すべて恋の前にはどうでもよかった。

悲しい恋愛をしているときは毎日泣いていて、本当に起きている間はずっと執着していたし、嬉しい恋愛のときはこれまた毎日、起きている間も寝ている間も幸せの反芻をして生きていた。

恋は、自分をめちゃくちゃに解体しながら、同様に自分をめちゃくちゃ強固に実感できる唯一の手段だった。

相手のことを心から思っていたのではなく、相手を使って自分の心を隅々まで味わい尽くすこと。それがわたしにとっての恋なのだと気づいたのは、ふたつの恋が終わってしばらく経ったいま。

いまは全く恋はしたくない。たまに幸せだったふたつめの恋を思い出して、涙が出そうな郷愁を心地よく味わうことで十分。

相手が目の前にいるより、遠くにいて、永遠に手に入らない方が楽しい。終わった恋は、実生活を煩わすことがなく、ただただ純粋に、自分勝手に、玩弄できるものだから。

思えば、成就して壊れたふたつの恋は、決して自分が心から求めた人と結ばれたわけではなかった。それでも、恋の間は夢中だった。これしかないと思った。これだけでいいと思った。いつも身体がばらばらに感じられて、心はぶるぶると震えて弾け飛びそうだった。

好きだった人、愛していた人は、無条件で最上級に可愛かったけれど、あの人たちのために死ねるかと言われたら死ねないし、あの人たちのために何を犠牲にできるかと言われたら、週に一度、彼らと会っている間の自分ぐらいしかない。

もしも毎日毎時間毎分毎秒一緒にいたら、なんにも犠牲になんてしなかっただろう。繰り返される毎日で我慢なんてしたくない。唯々愛される快楽と、自分を自分で弄ぶ快楽だけが欲しかった。

だから、目の前の愛しいはずの人を、形式以上に愛することはできなかったのだ。それは本当は、付き合っている最中にも度々感じてはいたことだったのだけれども。

誰かと一緒にいるために、果たして本当の愛が必要なのかどうかはわからない。でも普通は、みんなもっとうまくやるんだと思った。うまくやるってことは、相手と自分とのバランスが取れているということ。

たぶん、わたしは、一生自分に100の比重を置くんだろう。それを悲しいことだとも悪いことだとも思わなくなってしまったのは、ふてぶてしさ、という点でだけ唯一おとなになれたということだ。

ふてぶてしく、大手を振って、自分だけに一生懸命生きてゆく。
最近は、いろんなことが前よりもうまくできていると思う。

これもまた、諦めがついたという点ではおとなになったのだと思う。

おとなはこどもよりずっと楽だ。張りつめていた神経がたゆんと弛んで、ひとりでいいのだという気持ちになる。

ひとりはぜんぜん孤独じゃない。
ひとりでいいのだと思うと、ひとりがいやだと思っていた時よりもずっとひとりじゃなくなる。

ひとりだけどひとりじゃないから、ほどけた恋も、心の片隅に置いておける。

わたしの、恋のこと。

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