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近年SNS上にて賛否両論または否定的な意見とSNSの正しい使い方


はじめに

 Xになって以降、炎上事例が大変多くなっている。これらが起こる原因としてはインターネットが利用者数が高いこと、利用者の匿名性が高いこと、閉鎖的空間の生成などからストレス、正義感、承認欲求など様々な原因が挙げられる。これが近年増え続けているのには現在の社会情勢とも関連があるのではないかと推測した。では、ネットで主に問題視され炎上しているものというのはどんなものがあるのだろうか。私自身の体験を踏まえながらまとめていこうと思う。

近年のTwitter

 まず近年の日本のTwitterは、社会問題や歴史、性別、宗教、性癖、ネットミーム、Vtuberなどのツイートで溢れている。それに対して、海外のTwitterでは次の画像のように音楽、女優、スポーツ、AI画像などのような割合が大きく感じる。

11/9 深夜時点のトレンド

その中でどのTwitterにも共通するコンテンツとした社会問題及び国際情勢に関する話が特に多かった。(大体10割中7割)。では国際情勢関連のツイートで問題視される事例はそもそもどれなのかを見てみよう。

ネット右翼

 ネット上の右翼というもの自体はネット黎明期から存在しており、それを意味する「ネット右翼」という用語も最低でも1999年時点で既に呼称されている。ネット右翼は日韓W杯前後を期に自由主義史観(ここでは特に日本の植民地政策や戦争を正当と評する史観であり、自虐史観に反対する史観)の広まりと、あちら側の反日ナショナリズムに触発された嫌中憎韓ナショナリズムの高まりを受けて急速にその勢力を広げ、00年代後半にはネット上の政治的意見の過半を占めるに至る。さらにばらばらな個人だったネット右翼が団結してデモや不買運動を起こしたり、継続的なグループや組織を立ち上げるケースも出始めている。実際に埼玉県川口のクルド人の問題やそれに対する右翼的集団の問題がネット上で拡散され、炎上するという事例が投稿日時からおよそ3か月前にありました。これについて保守派意見からは「関東大震災の二の舞やらかす気かこの野郎」「100年前の関東大地震で朝鮮人虐◯があったときと日本人の脳みそは変化していないだろう」「警察に通報しました」とある一方で、ネット右翼からは「旭日旗掲げられるだけで批判される理由がわからない」「全てクルド人が悪い」「応援しています」などのツイートも見かけた。このように、自国の愛国心から国を賛美したり、そこから組織やメンバーを作るということは現代社会において、問題視されやすいものの一つだと感じた。しかしこれも人によっては良いことだと捉えたりする事例もあるので、賛否両論分かれやすいものではあるだろう。
こうした広がりを受け、現在では政治家や政党、マスコミ、学者、バラエティ番組、Youtubeなどもネット右翼を積極的に取り上げるようになっている。肯定側ではネット右翼出身者を選挙の候補者として擁立したり、ネット右翼を支持基盤として取り込もうとしたり、ネット右翼を対象とした出版やグッズ販売(愛国ビジネス)を展開するなどしている。否定側では彼らの思想内容やこれに迎合する動きを批判するほか、人種憎悪的言動を禁止する法律を制定するよう働きかけるなどしている。
 ネット右翼の実数は―当たり前といえば当たり前だが―不明である。ただ肯定側の古谷経衡は「全国250万人」、否定側のやまもといちろう(切込隊長)は「最大で120万人」と、いずれもネット調査などを元に推測している。属性分析も調査の難しさ+調査側のバイアスのために確たるものがないのが実情だが、「30代から40代あたりの男性が相対的に多め」という部分は肯定否定中立どの調査でも共通点として出てきやすい。いずれにせよ、ネット右翼がもはや無視できないだけの大きさを持つ政治勢力、圧力団体となっているのは間違いない。
 彼らの様態を調べてみると、朝鮮・韓国人や中国人に対し、人種民族レベルでの嫌悪感や蔑視感、憎悪感情を表明する者が多く、国内のリベラル派・左翼は反日、売国というレッテルを貼り排除の対処とする。しかし、ネット左翼や保守派からすればこれに対する批判意見も殺到するため、炎上リスクを招きやすい。またこうした考え方ゆえに、「自分は『普通の日本人』『普通の愛国者』であり、周りが『反日』『売国』だから叩いているだけ。自分は右でない」という自己認識の告白が多く見られる。これは彼らがネット右翼と呼ばれることを嫌う理由の一つでもある。実際に2024年アメリカ合衆国大統領選挙のトランプの当選や2024年日本国総裁選挙、韓国日本語教育を実施などのニュースではネット右翼により叩かれていたことが多く、そのネット右翼の主張を掲げた人の多くは「普通の日本人として意見を言ったまでだ」と語ったという。しかし、真に問題となっているのはこれがX上において当たり前となっていることである。旧Twitterでは、相手への明確な批判はすぐに炎上したり、凍結することが多かったのだが、Xになると炎上はするもののこういう意見を述べても応援するツイートが多かったり、凍結しないようなものが多くなってきている。ネット右翼とSNSで対峙することが多い人は、SNSで「ネトウヨの理想とする国は北朝鮮やロシア」と指摘することが多い。愛国政党による一党独裁を肯定して野党の存在を徹底否定する、強権的指導者に対する絶対的忠誠と崇拝をする、強権的指導者を批判する者は売国奴と非難する、自国を賛美するテレビ番組が毎日流れる、軍事大国を目指し核武装を肯定する、核武装の結果として世界中を敵に回すことを意に介さない、国威発揚を何より好む、貧富の差が極端に拡大した格差社会である、といった国家をネット右翼は好む傾向にある。そうした国家は北朝鮮やロシアとそっくりだというのであると語る。

親露派/反露派

 ロシアやロシア文化、ロシア人に好意的な受け止め方をするものとされる。2022年までには問題視されることはなかったものの、ウクライナ戦争以後ロシア側がウクライナに宣戦布告したと見て、この事実からロシアは絶対悪という風潮が広まり、賛否両論で分極化された。親露派意見には、「ロシアでは、自分とあまり関係がなく義理もないような相手に物事を頼んだり、知らない相手から気軽にものを頼まれても応じたりするような雰囲気があると感じます。例えば、現地で大学院に入学後、『入学金と授業料を払うように』と急に通達がきました。一日に銀行から引きだせる現金に上限があり入学を取り消されかねない状況になりましたが、通っていたカフェの店主と、その友人のタタール人のカップルがお金を貸してくれて、どうにかなりました。こうしたことはいくらでも思い出せます」「ロシアの人びとは、『自分』と『他人』、『我々』と『彼ら』をはっきり区別するような考え方を、あまりしないのではないか。そんな印象を受けました。危機的な状況になるたびに親切を受け『彼らを見習おう』という気持ちが湧きました。似たようなことは、東欧のエストニア、中央アジアのカザフスタンでも経験しました。ウクライナも含む他の旧ソ連圏にも、同じような雰囲気があるんじゃないかと推測しています」と語っており、実際にロシア人と交流がある人や、ロシア文学・ロシア音楽に触れて感化された人、ロシアの歴史に興味がある人が当たり前だが多くなっている。しかし、長年に続く北方領土問題を筆頭に、シベリア抑留による日本人の虐殺事件、共産主義。そして近年ではロシアの領空侵犯ということもあり、ロシアへのイメージダウンが激化しており、また親露派の意見を受け入れないという人もいる。(受け入れる人は大体中立)。これは韓国でも同様であり、北朝鮮問題や反共主義、ウクライナ問題などからも嫌悪感が生じているようだ。

ネオナチ

 1990年代からアメリカ国内や国外の極右民族主義、白人至上主義などのネオナチは早期にインターネットを利用し、2000年代前半に登場したFacebookやYouTubeなどのSNSメディアを有効利用し始めた。連邦捜査局(FBI)は、この1990年代から2000年代前半の期間は電子メール等の利用を禁ずる等の情報管理を行っていた為、これら過激な民族主義者を追いきれない、また取り締まり切れない状況になっていった。Netflixの番組「偽りなき偽りのデジタル社会」では、極右過激思想(ネオナチ)の発信方法はインターネット台頭以降変化したとしている。FacebookやYouTube等のSNSのアルゴリズムは、相手に見せるべき有益な情報を選択して見せてはおらず、視聴する側が興味を引く物を見せる「広告成功への最適化」の状態にある。現在でもホワイトパワー・スキンヘッドの様に剃り込みを入れ、また十字マークの刺青を入れるなどの見た目での発信をする物達等もいるが、現在はスーツを着込むなどによって姿や言動を健全に見せた状態で、オルタナ右翼や平和主義、愛国主義などを自称して他国民や自国民に発信する手法をとるとしている。
 イーロン・マスクによるTwitter社買収以降、Twitterは言論の自由を理由にリチャード・B・スペンサーのような著名なネオナチ指導者がTwitter Blueに加入することを認め、さらにネオナチコンテンツの隣にマイクロソフト、アドビ、ウォルト・ディズニー・カンパニーなどの大企業や有名ブランドの広告が表示される状態にあり、『憎悪に満ちた行為を描いたメディア』のポリシーに違反している状態だと指摘されている。
 かつてナチズムが支配したドイツでは第二次世界大戦後はナチズムを非合法化し、ナチズムの肯定及びそれに類する発言は全面的に法令上禁止された。ナチス時代の軍服や武器を一般市民が手に入れることは原則禁止であり、販売も許されない。また、ナチスのシンボルである鉤十字、あるいはそれを彷彿させるような図柄を公共の場に掲揚することも禁止されている。
 ナチスに対する賛美思想などは、批判される一方でTwitter上では増えている一方だ。

偏向報道

 偏向報道とは、特定の事象について複数の意見が対立する状況下で、特定の立場からの主張を否定もしくは肯定する意図をもって、直接的・間接的な情報操作を行うといった報道のことである。この言葉はその出来事の利害関係者が使うことが多いと主張する者もいるが、利害関係がなくとも意見が対立する場合、偏向報道であるか否かの判断が分かれることにも留意が必要である。本来国民に対して公正中立な立場で情報を伝えるべきマスメディアが現在ではその機能を失い、特定集団に対して異常に偏った擁護、又はバッシングを行っている。事実、国境なき記者団による世界報道自由度ランキング(Worldwide press freedom index)では日本の順位(2007年度)はなんと37位である。日本の報道の自由度が低い原因として、会員制で排他的な記者クラブの存在や広告収入に大きく依存している為スポンサーに不利な報道を避ける傾向、番組・記事制作者のモラルの低下等が挙げられる。特にこれらの偏向報道が社会問題や国際情勢のものであれば、Twitterでは「マスゴミ」と批判されることが多い。
 マスコミと言えど一企業であり収益を上げなければならない。その為センセーショナルな報道を行い雑誌・新聞の売り上げやテレビの視聴率を上げようとすることがある。ろくに事実確認もされないまま大ニュースとしてスキャンダラスに取り上げたり、複雑な問題を二元論的に極めて単純化して視聴者を扇動することもしばしば行われている。前提に誤りが含まれていたり不十分な情報しか取り上げないという問題もある。現代のマスコミ、及びニュース視聴率が減少している問題は暗にこれが含まれている。マスコミは世論形成に大きな力を持っている為に意図的に流行を生み出したり、世論を特定の方向に誘導する事もできる。この為スポンサーになったり資金提供をする、外郭団体から圧力をかける等マスコミを通じての世論操作を狙う団体も多く存在する。マスコミはその影響力の大きさからある程度の中立性を持つことが望まれるが、近年スポンサーにかなり配慮した報道姿勢や政治的な偏り、特定集団への過剰な擁護バッシングが目立つようになってきた。発言の一部削除や切り張り、情報の隠匿、過剰な誇張表現等による印象操作やプロパガンダはもう珍しいことでもない。

男尊女卑/女尊男卑

 男尊女卑とは、女性に対する性差別であり、女性差別撤廃を目指す思想や運動をフェミニズムという。日本は、男女格差が世界で最も大きい国の一つとされ、世界経済フォーラムが世界男女格差レポートにて公表しているジェンダー・ギャップ指数ではG7で最下位、G20でサウジアラビア、トルコに次いでワースト3位である。日本の女性労働者の待遇改善問題は、裁判所による政策形成の歴史とも重なる。すなわち、行政府が男女の雇用機会均等に向けて動かない中で、裁判所が判例を通じて性差別を是正していった事例として挙げられる。司法による格差是正の動きは、1950年代後半から1960年代に始まった。当時、労働に関する法令としては労働基準法があったが、労働基準法は賃金について女性を理由とした差別を禁止していたのみであり、採用や解雇(例えば、当時は女性の早期退職は社会では当然の慣行となっていた)といった、その他の労働面における差別を訴える法律が存在しなかった。そして、賃金についても、企業は女性を男性と異なる職に就けることによって、差別化を行っていた。こうした状況の中、まず日本国憲法第14条(法の下の平等)を理由とした格差是正が試みられた。しかし、私人間効力がない(私人間には憲法が直接は適用されない)ことを理由にこの動きは失敗した。ところが、裁判所は1966年の住友セメント事件で民法90条(公序良俗違反)(私人間効力の間接効力を参照)を利用することによってこの状況を打破した。この動きは全国に広がり、各地の裁判所で民法90条を使用して女性の早期退職、結婚退職、出産退職が是正されていった。国会で男女雇用機会均等法を制定したのは、1985年のことであった。女性労働問題については、パート労働者の待遇改善の歴史とも重なる。こうしたものからフェミニストが増えていった。フェミニズムは伝統的な女性概念、社会通念からの解放と権利の見直しを求める考え方であるが、現状に対する解釈の違い、方法論の違い、目指すゴールの違いなど多様であり一本の思想と考えることはできない。「性別に左右されない個人の尊重」をめざし女性の地位の向上や社会参加の推進をする考え(リベラル・フェミニズム)や「女性差別の撤廃」をめざし、女性にとって差別的と判断した文化や慣習を否定する考え(ラディカル・フェミニズム)などさまざまである。フェミニズムの基本的な考えに対する反論としては、男尊女卑思想とは別に「性差」に対する考え方の違いによるものがある。たとえば、「男性と女性では異なるのが当たり前であり、差別ではなく区別されるのは当たり前だ」という主張である。しかしながら、何を以て差別、区別とするのかは個人の主観や地域ごとに最適化された慣習によって異なるため、単純な定義づけが困難であり問題は複雑である。TwitterやFacebookなどのSNSの利用もこの潮流の特徴である。SNSの拡散力はこれまでの書籍や講演、デモなどを通じた啓蒙活動とは比較にならないほど大きく、フェミニズム運動は大きな成果をおさめた。セクシャルハラスメントや性的搾取に関する被害をSNSで#Me too(私も被害者だ)とハッシュタグをつけて訴えるMe too運動は記憶に新しいところだろう。日本でも、職場で女性にだけ強制されるハイヒールやパンプスからの解放を訴えたKu too運動が広まった。一方でSNSの利用は同時に強い反発も生み出していく。衆目を集めるためのフェミニストの過激な発言と炎上はもはや世界的に日常茶飯事と言って良い。この掲示板にもよく見られるアンチフェミニズム的書き込みも、SNSを通じてフェミニズムに失望した人によるものが多いのではなかろうか。SNSを利用して第四波といいつつ、内容が第二波のラディカル・フェミニズムと変わっていない論者も多い。第三波で乗り越えたはずの画一的な男女対立、女性への「あるべき女性」価値観の強制など、時代が逆行している論説が第四波フェミニズムの名を借りてSNSで横行しているのもまた否定できないところである。
 一方、女尊男卑として男性に対する性差別が問題視されるケースもある。加藤秀一は、一見すると「女性優遇」と思われるような状況についても、「それらがなぜ、何のために行われ、どのような働きをしているのかといった社会的文脈の中に位置づけて」考える必要があると主張している。たとえば女性専用車両は「女性たちに何かプラスをもたらしているわけではなく、せいぜい痴漢被害というマイナスを少しでも埋め合わせてゼロに戻そうとする補償的措置にすぎない」ため、女性を「優遇」しているとは言えないとする。また映画館のレディース・デイは、男女間の賃金格差という社会的文脈を考慮すれば「男性差別」とは言いきれず、「雇用や労働をめぐる男女平等が達成されれば、このようなサービスはおのずと消滅していく」だろうと述べている。女性の方が男性よりも社会福祉や公的扶助を利用しやすいという傾向について、京都大学准教授の丸山里美は、女性は雇用保険や年金の対象にならない低賃金の働き方の人が大半であることから、その利用が認められやすくなっていると論じている。性別役割分業を前提とした近代家族モデルのもとで、男性は賃労働に就くことを期待されるのに対し、女性は家庭での再生産労働を期待され、この結果、労働報酬から保険料を拠出するような保険制度(雇用保険、医療保険、年金など)は男性と結びつき、公的扶助による生活保障は女性と結びつくことになるのだという。さらに公的扶助の受給には社会的スティグマをともなうため、「保険と扶助のあいだには、序列が存在している」としている。これに対してマスキュリズムと呼ばれる男性に対する性差別(男性差別)の撤廃を目指す思想や運動である。元は、「反・男尊女卑社会」を目指すフェミニズムへの反発から生じた運動だったが、現在は、働き方や徴兵忌避など、生存権・社会的公正から権利を擁護する運動がメインになってきている。現代は、封建社会の頃と異なり、名目上は社会の全構成員が、同様の権利を持つとされている。しかしながら、才能も含めて生まれや育ちなどで、その後の人生において、差がつくことが普通である。その場合、どこまで差を容認するか。言い換えれば、どこまでが自己責任かが問題となる。一般には、格差の再生産、つまり事実上の階級社会化が生じている場合は、その是正が求められるが、強者男性(大企業経営者や政治家)は、その権力や富を用いて、その他の人々の生殺与奪に影響を及ぼしているので、抵抗しづらい。また直接権力を及ぼさなくても、「弱肉強食」「自己努力」など、ある程度正当性のある道徳や倫理観でもって、弱者を排除することもあり、問題を複雑にしている。これは、客観的に強者男性だけが主張するというわけでなく、客観的には“弱者”であっても、弱肉強食を甘んじて受け入れ、より弱い者をいじめる場合がある。徴兵の例で言えば、経済的徴兵制と呼ばれる場合、生まれながらにして、経済的弱者の立場のものが、経済的利益を得るために、軍隊に志願して入ることも、結果的に、弱者男性ばかりが死ぬリスクが増えるので、弱者男性問題とも言える。過労死の問題も、社畜と自虐しながらも、無職や退職という経歴自体が、社会的差別の対象となる場合、結果として過労死に追いやられるまで働き続ける、それを雇用者は黙認するという現象は、この問題に入る。

 調理場を意味する漢字である。インターネット上では、他の単語の後ろについて蔑称に使われることが多い。ネットで迷惑な行動をする者を表す俗語である。主に作品・ジャンルでの厨を表す際は「好きなジャンルだけを持ち上げて、それと比べて他作品を貶す」行為をし、人を不快にさせる行動をする者を表している。ただし厨という蔑称は、事柄を説明するのみに使うべきであり、他人に「厨」と使うと誹謗中傷にあたる。

淫夢厨

 淫夢だけを持ち上げて他を人前で下げる者、また淫夢厨の特徴として掲示板・動画のコメントで相手に不快感をもたらす為に「淫夢ネタ」を荒らしに用いることが挙げられる。淫夢ネタを用いる者のうち、淫夢ネタを好ましく思わない層がいる可能性のある一般的な場所で攻撃の意味を持って書き込み等を行うのが淫夢厨である。淫夢ネタ自体が抱える問題点として、淫夢ネタは元々R-18のホモビデオであるため一般層の中に忌み嫌う人もおり、それが嫌悪感に拍車をかけている。定型文を用いた書き込みや括弧書き単語の多用、人名記述法などは許されているケースも多いが、無関係の動画や記事を取り上げたり、風評被害を行ったりなどは批判を浴びることが多い。淫夢と無関係な動画をMAD素材に無断使用された動画投稿者が淫夢ネタ専用に隔離投稿された動画を権利者削除した。これに対し淫夢厨が逆ギレ・逆恨みし、元動画・作者記事・コミュ生放送等を荒らし、時には個人攻撃も行った。この結果、荒らされたコミュニティが閉鎖されるといった事態を生んだ。そのほか、動画・生放送・大百科記事への書き込み規制や削除に対する反発、被害に遭い削除された動画から派生動画への被害転移、淫夢ネタに批判的行動を取った者への集団突撃、反論する者に対するホモ認定やレッテル貼り等が見受けられる。またネットで数年に渡り言葉のみが広まりスラングと化しており、淫夢ネタと知らずに使ってる者も多い。淫夢ネタを見かけ不快に思った際、ただ怒りに任せるのではなく冷静に対応して頂くのが望ましいだろう。効果的なのはスルーだ。

出会い厨

 出会い厨の「出会い」は出会い系サイトの出会いなので、「恋愛や性行為の対象を見つける目的で、そのような趣旨では開催されていないオフ会等に参加する人」が本来の定義であると思われる。一般に恋愛・性的関係は様々な問題を引き起こす可能性があるので、オフ会等の多人数が集まる場に積極的に持ち込もうとする者は好まれない。参加したら気になる人がいたという場合、相手を口説くために再びオフ会等に参加すればその者は出会い厨である。もちろん出会ったその場で口説いたところで、出会い厨と非難されることは免れないであろう。出会い厨という用語は、実際に出会っている人間のみを指すのではなく、出会おうとする段階の者にも向けられる。このため、出会おうとするが失敗している者は「出会いたいのに出会えない厨」、「出会えない厨」とされることもある。

不謹慎厨

 その名の通り、不謹慎な言動・行動をする、またはこれを指摘したり、していない人に対して非難する人のことをいう。その多くは東日本大震災、アメリカ同時多発テロ事件などを取り上げている人が多く、心理学では「不謹慎狩りは共感疲労によって起こる」との分析がされている。共感疲労とは、災害その他悲惨な光景や話を見聞きすると、それに共感し過ぎて自分自身の心までもが疲れてしまったり、ネガティブな感情に支配されてしまうことである。そうした心の疲れが苛立ちに繋がり、些細なことに腹が立って当たり散らすようになってしまう。これが不謹慎厨の正体だと言われている。

批判厨/批評厨

 現実に意味が混同されていることも反映してか「批判」という言葉が当てはめられているが、厨と付くだけあって基本的にその言動としては否定のための否定としての「非難」ひいては「中傷」などに当たる行動がほとんどである。主に物事や作品を見る際にとにかく否定ありきの思考を持っていたり、それらを周囲に押しつけるなどの行為を行う、あるいはそれらの「非難」を意図的に「批判」と称して正当化しようとする人達などが批判厨と呼ばれている。物事を叩き、非難する事は理屈も客観性も不要なため非常に簡単であり、逆に理屈と態度そして何より責任の伴った真っ当な批判は本来誰もが容易に出来る物ではないのだが、しかしそれらが混同されている現在ではあたかも正当な主張であるかのように双方の良いとこ取りを狙って都合良く振る舞う者が増えてしまっているのが現状である。また、物事を非難することで褒めるより遥かに簡単に手軽な優越感を得、ささやかな自己顕示欲をも満たすことも出来てしまう側面があるため、批判意図の有無に関係なく同様の行為はネット中に幅広く蔓延している。なお批評厨は批判厨と違い、認める分だけまだマシと思えるのだが、何でもかんでも評価してしまうことが不快に思う人もいる。

比較厨

 特定のコンテンツや人物を不特定多数の人間が見ている場所で貶している時点で十分質の悪い荒らしと言えるのだが、比較厨の場合は「何かを貶すために別の何かを持ち上げている」若しくは「何かを持ち上げる為に別の何かを貶している」という特徴があり、ファンとアンチの争いだけでなく双方のファン同士の争いまで引き起こす原因になる為、より悪質な荒らしとなっている。

囲い厨

 配信者が特定のリスナーにのみ配信を行うようにしたり、配信をやめさせること、すなわち囲い込みを目的とする。 配信者と親密になりたいという点では、出会い厨の変種ともいえる。他には、自分の好きな生主が他の人と仲良くなっていく事に嫉妬して自分より親しいと思われるリスナーに対して嫌みの意味で使われる言葉でもある。囲い厨は数多くのコミュニティで見受けられる。配信者は、電話・チャットソフトであるSkypeのユーザIDを公開していることが多い。 対処法の伝授は、主にSkypeを通じて行われる。 これらのマッチポンプ行為、自作自演が繰り返されることにより、囲い厨は目的とする囲い込みを達成しようと試みる。一見、親切なリスナーと区別がつかないのが、囲い厨への対策を難しくしている。当人は出会いという自身の利益になることのみを目的とした動機とは違い、主やファンリスナーが苦悩するアンチや荒らし参加を規制するためにコミュニティ限定にすることを推薦したり、オフ会に参加することで出会い厨にストーカーのようにしつこくいいよられることを想定しオフ会参加や開催に否定的であったりするなど、ある程度客観的な根拠を持って自警や自治として行動することもある。しかし第三者は、囲い厨と誤認する場合がある。また、これら親切なリスナーの行為は出会い目的の囲い厨やアンチや荒らしからすると自身が目的することの妨害となるために、この親切なリスナーを囲い厨と呼び蔑むことがある。そもそも、囲い厨に対処すべきかどうかも意見が分かれる。 配信者のみが「配信をどのような形で行うか」について最終判断を行うことができる。 よって、囲い込まれたとしても、受け入れるのも拒否するのもそれは配信者本人の判断によるものだ、という考え方もある。

ステマ厨

 ステルスマーケティング、通称ステマは犯罪である。そのためステマを行った企業はその企業がステマを行ったという明確な証拠の下に糾弾されなければならないが、ネット上においてはその証拠も無い、あるいは証拠として意味をなさない根拠を用いて掲示板、コミュニティにおいて何か特定の企業に対してステマを行ったと認定し、これを糾弾(実質的にはネガキャンである)する迷惑な人たちがいる。それがステマ厨である。ステマ厨にはステルスマーケティングと真っ当な広告の区別がつかず、合法的な宣伝さえもステマだと騒ぎ立てるタイプ・ステマの意味をそもそも全く理解しておらず、とりあえずステマという言葉を使って騒ぎたいだけのタイプ・ステマの意味をいくらか理解しているが、浅薄な思慮と安っぽい正義感に酔って証拠不十分にも関わらず特定の企業をステマ認定して叩くタイプ・ステマの意味を理解して、あるいは理解せずとも単にその企業が気に入らないので、相手を叩く理由があれば何でも構わないタイプなどのように種類があるが、共通して言えるのはそのどれもが掲示板やコミュニティにとって客観的には荒らしと全く変わりない、迷惑以外の何者でもないということである。もちろん、ステマについて書き込む人間が全てステマ厨というわけではなく、中にはステマについて真剣な気持ちで注意喚起を呼びかける人間もいるが、そのような人たちは得てして常識と良識を兼ね備え、過激な行動に出ることはないので、ステマ厨と呼ばれることはまずない。


特定厨

ブログやSNSなどで発信される情報を元に個人を特定する人物は特に問題視される。TwitterやFacebookに載せていた個人情報や写真を元にその人物の住所や本名、さらには勤務先や通っている学校まで特定してしまう。特に背景のわずかな情報から写真が撮影された場所を特定し、そこから個人を特定するに至る所業はもはや探偵・警察の捜査と差し支えないレベルである。とはいえとにかく根気のいる作業らしく、特定厨は対象者が特定できる情報を流すまで粘り強く待つとのこと。
 特定厨の存在により、アニメのモデルとなった場所が広く知れ渡り、聖地巡礼スポットとして人気を博したケースも多い。一方で悪意のある人物によりその場所が荒らされる問題も発生している。またニコニコ動画・ニコニコ生放送においては、カメラ配信を行った放送から放送主の自宅を特定されるケースも少なくない。また動画や生放送上における何気ない発言から個人を特定する事もあるため、迂闊な事は何も喋れなくなってしまう。そのため、配信者の中には嘘の個人情報を流し特定厨を幻惑させる者もいる。Twitterで犯罪を暴露したアカウントから本人が特定され、その人物の所属する会社や学校にその事実を報告し、ひいては逮捕や処罰に繋がった事例も多い。一方で犯罪は犯していないアカウントも容赦なく特定厨の餌食にされる事もある。とにかくほんのささいな情報も特定厨にとっては個人を特定するに至る手掛かりになるので、特定されたくない人はネット上に個人が特定されるような情報を微塵も流さないようにする事が望まれる。最も個人を特定されやすい情報を発信しているほうにも非がある。

望ましいSNSの使い方

 友人の友人の友人……とつながっていくと、6人目までに世界中のほぼ全員が含まれる。社会学の分野で「六次の隔たり」と呼ばれる考え方である。ネットワーク社会のなかでSNSが生まれてきた背景には、このような繋がりを世界規模に広げていく目標があると言われている。コンピュータ・ネットワークのなかで、このようなコミュニティをつくり出そうという試みは日本でも行われてきた。しかし、日本国内では言語のギャップのために広く普及した例は少なかった。この状況が変わったのは、2004年に完全招待制のSNSとしてmixiが誕生し、大成功をとげてからである。そして大きな特徴は、ほとんどのSNSサービスは基本無料であること。サービス提供者が利益を得るしくみには、広告収入、課金売上げ、連携売上げというようなものがある。そのSNSの強みは赤の他人と考え方を共有できることやコメント、いいねでのコミュニケーションが取れること、写真共有もできること、意見を述べることができることである。中でもZ世代は、自分らしさを大切にしたり、複数のSNSを利用したり、消費活動はコスパを重視して、事前情報の収集に力を入れている傾向にある。
 このような規定の中で望ましく使うためのヒントは以下の書籍にある。

 J.S.ミル『自由論』は、「人間は、自分自身に対する唯一の権威である」と述べ、個人の自由を重視する自由主義的な考え方を提唱した。この思想は、当時の厳格な道徳観や社会規範からの解放を求める人々に強く支持され、自由主義の根本的な思想として認識されるようになった。しかしミルにとっても、現代社会のSNSにおいても「何をしてもよい自由」は存在しない。その前提条件はとても単純明快なもので、「個人の自由は他人に害さない」というものだ。より厳密に言うならば、人や場所・物事の迷惑にならないのはもちろん、他人の考えを絶対的に侵害しないことが必要であるということだ。一見単純そうに見えるものであっても、「他人を害さない」という答えだけでは、色々な答えがあるため忘れがちな人はかなり多い。つまり、他人の自由を尊重し、社会全体の幸福を追求することこそが重要なのだと考えた。そしてこの幸福は量ではなく、質のほうが価値が高いという質的功利主義を述べた。ベンサムの「最大多数の最大幸福」という概念から生み出された考え方である。しかし、ミルは単なる量的な幸福ではなく質的な幸福を重視し、精神的な幸福は肉体的な幸福よりも価値があると主張した。質的な幸福とは、いくらあっても還元できないような幸せ全般にある。肉体的な幸福とは、食欲、睡眠欲、性欲であり、これらは満たしても飽き足りることはない。つまりそれと同様にいつまででも手に入るような幸福を持つというのは非効率である。一方で精神的な幸福でいえば、脳内の「ドーパミン」「セロトニン」「オキシトシン」の3つが活性化し、達成感や愛情、健康、知識欲など二度と手に入らないような幸福を手に入れたほうが価値は大きいということである。例えば、「複数の友達がいる」か、「一人のとても優しく、誠実な親友」の二択ならばどちらを選ぶかとなれば後者のほうが価値が高いという法則と同じだ。
 しかしその考えを遵守したとしても、SNSにはデマ情報があったり、プライバシーが侵害されたり、ハラスメントに不快に思ったり、SNS中毒となって生活に支障をきたすことがある。まずデマ情報やハラスメントは、その者の裏側の感情を探り、基本は無視していけばよいだろう。そしてプライバシーやSNS中毒についてで不安に思うのなら、一旦SNSをやめる、または趣味用ではなくビジネス用・ニュース用として見ることをメインに使ってみるのはどうだろうか?まとめるとこういうことだろう。

SNSの効果的な使い方
1.自分自身を尊重せよ
2.相手の考えを侵害しないし迷惑かけない
3.相手の考えを尊重せよ
4.SNSでの強みをうまく生かす
5.SNSを用途によって使い分ける
6.不快に思ったことは無視する

おわりに

 SNSには快楽を見出すことは相対的に難しいかもしれない。世の中にはSNSの他にも、多くのメディアが存在する。その普遍的な人間の中にも自由というのはある。その自由が保障されず、なおかつ害を与えるものであれば批判したり批評したりするのは当然のことだ。しかし害を与えようとする理由を考えてみると新しい世界が見えるかもしれない。

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