見出し画像

世界の要塞と時代を追った戦術変化


はじめに

 人類は先史時代から自らの縄張りを守るために、他の縄張りと争い、その防御のための様々な工夫を行ってきた。その防御方法は環濠集落や城牆、天守閣、城郭都市、総構えと続き、近現代においては陸上要塞や沿岸要塞、防空要塞というような永久要塞へと移り変わっていった。地中海・中東・インド・中国にて古代文明が生まれるようになると、それぞれの都市国家を形成し、それを守るための軍事力や要塞を建てていった。その後最終的に発展していったのが要塞となるわけだが、要塞になる前まで人々は城を使って防御を行っていた。しかし、城が生まれた時代は世界が一体化される前の中世の段階であるため、国によってそれぞれの様式が異なっていた。例えばヨーロッパでは古代ローマの時代には城塞都市という形式が定着し始めた。古代ローマから中世に至るまで使われた城塞都市は大きな都市を丸ごと城壁で囲い込み外敵の侵入を防ぐために使われた。しかし、イスラームやモンゴル帝国の軍事力を思い知ったヨーロッパは更なる軍事力を強化するために要塞を定着化させた。一方、日本では外敵からの侵入を優先するよりも、国内での内乱に巻き込まれることを防ぐために城塞都市という工夫は行わなかった。また、中国では外敵からの侵入、内地での内乱がどちらも発生するリスクがあるため、ヨーロッパの城塞都市と日本の防衛工夫を両方施した技術を蓄えていった。今回はそれぞれの城の工夫と強み、弱みを軍事史から読み解いていこうと思う。

世界各国の要塞

中東世界の要塞

 人類が最初に文明を築いたのはおそらく中東の肥沃な三角地帯であるメソポタミア文明とナイル川沿岸にあるエジプト文明だろう。この二つの文明の特徴は川の流れから農作物が育ったことで、定住するに至るまで発展することがしやすかった特徴が挙げられるため、アケメネス朝ペルシャに至るまで神殿や遺跡を保護するための城郭都市が多く設けられた。しかしアレクサンドロス大王の進撃を受けた以降よりイスラームの台頭に至るまで大規模な城壁が築かれることはなかった。しかしイスラーム勢力が台頭するようになるとバグダードを中心とする大規模な城郭都市が生まれるようになり、アルハンブラ宮殿などいくつもの宮殿も建てられるようになるなど、その軍事力は強大化していった。バグダードは直径およそ2.35キロメートルの正円の城壁が建設され、ティグリス・ユーフラテスの両河が相互に接近し、サーサーン朝時代の運河(イーサー運河、サラート運河など)が密集し、これら運河を利用して他宗教の者と交易を行い、城壁の内側には宮殿やモスクが建てられた他、中心には円城が設けられるようになった。美術面での違いを除けば中国やヨーロッパの城と同じく火砲に備え、塔や城壁を持つ点で全体的には、似た部分も多い。しかし、11世紀以降、イスラーム文化の中心地はバグダードからしだいにカイロにうつっていった。これは、アッバース朝カリフの威信低下、スルタン制の確立、イクター制の一般化、イスラーム思想の固定化の進行など一連の西アジア社会の構造変化と無縁ではなかった。その後中央アジアのサマルカンドからオスマン帝国のイスタンブルに至るまで、宮殿を中心とした城塞都市が大きく発展することとなっていった。

中国・朝鮮の要塞

 中国における城とは、本来城壁のことを意味し、都市や村など居住地全周を囲む防御施設を指すことが多い。そのため中国語では都市のことを城市といい、欧州や日本に見られるような城は城堡という。ちなみに城壁のことは城牆(じょうしょう)という。大規模なものは、宮殿など支配者の住む場所を囲む内城と、都市全域を囲む外城に分かれており、内城は城、外城は郭と呼ばれ、併せて城郭といわれる。辺境では北方騎馬民族の侵入への備えとして万里の長城を発達させた。また、城とは呼ばれないが長大堅固な城壁を持つ要塞として、交通の要所におく「関」が重要である。このような城は、秦王朝末期に極東からスキタイ系遊牧民である匈奴の進撃が始まったあたり作られる。始皇帝は当時北方からの遊牧民の侵入を阻止するために万里の長城という城壁を設けた。武帝は匈奴に対し積極攻勢に打って出て領土を大きく拡張し、その新領土を守る形で長城を延長していった。まず紀元前127年に衛青が黄河屈曲部以南および河套平原を占領すると、すぐに陰山山脈の長城を復活させて守りを固めた。ついで紀元前121年に霍去病が祁連山脈北麓のオアシス都市群、いわゆる河西回廊を獲得し西域諸国へのルートを確保すると、紀元前111年にこの地域を守るための長城建設が開始され、紀元前100年には完成した。これにより長城は黄河上流からはるかに西へと延長され、玉門関にまで達した。さらに紀元前102年には陰山山脈の長城のさらに北、山脈北麓に2本の長城を増設し、防衛線をさらに北進させた。同時に河西回廊においても、酒泉から流れる弱水の流れに沿って長城が建設され、さらに弱水の終点であるオアシス・居延沢を囲むように長城が建設された。先述の陰山北麓の長城は居延の長城と連携できる位置に建設され、これによって黄河から河西回廊にいたる広大な砂漠・草原地帯が匈奴から漢の領域に併呑された。また、これにより長城の総延長は約20000里(7930 km)に達した。この漢の長城はすべての長城の中でも最も長く、西は現在の甘粛省西端にある玉門関から東は朝鮮半島北部にまで達していた。しかしこの長城も8年に建国された新王朝期の混乱によって大打撃を受け、25年に後漢が建国されたころにはかなり荒廃した状態となっており、三国時代や五胡十六国時代においては北方異民族の力が強まり、放棄することとなった。中国の城壁は当初、版築による土壁であり、唐長安城の城壁も全長27kmに及ぶ長大な土牆(どしょう)であった。時代が下るとさらに城壁の強度が求められ、現在中国各地に遺構として残る明代以後の城壁はその多くが堅牢な煉瓦造りである。城壁の上部は城兵が往来可能な通路となっており、城壁に取り付いた敵軍を射撃するために「堞」(女牆)と呼ばれるスリットの入った土塀が備えられていた。城壁は一定間隔ごとに「馬面」という突出部を持ち、これが堡塁の役目を果たして敵を側面から攻撃するのを助けた。城壁には市街に出入りするための城門が設けられていた。石造りの土台をくり抜き、トンネル状として(これを「闕(けつ)」という)その上部に木造重層の楼閣が建てられ、その上には門の名称を記した「扁額」が掲げられた。城門はその多くが二重構造となっており、城門の手前に敵を食い止める目的で半円形の小郭が設けられていた。これは「甕城(おうじょう)」と呼ばれ、洋の東西を問わず普遍的に見られる防御構造であり、日本城郭では「枡形虎口」がこれに相当する。外敵が城内に攻め入るためにはまず、この甕城で足止めされることになるため、城兵は城壁や箭楼(甕城に設けられた櫓)から銃撃をしかけることができた。中華人民共和国時代に入って、市域拡張のため、また近代化の妨げになるという批判もあり、ほとんどの都市では城壁は取り壊されたが、西安や平遥のように中華人民共和国国家歴史文化名城という文化遺産保護制度で保護されているものも多い。
 一方、朝鮮半島における城とは、朝鮮固有の形式である山城の他に中国の影響を強く受けた都市城壁を持つ邑城(ウプソン)の2形式があるが時代が下るとともに邑城へと移行した。しかし山がちな地勢上、完全な邑城は少なく山城との折衷形式のものが多く見られる。文禄・慶長の役で日本軍の攻囲に耐えた延安城、また一旦は日本軍の攻撃を退けた晋州城はその折衷形式のものである。現在の韓国水原市にある水原城は、李氏朝鮮の独自性を狙った造りだともいわれる。文禄・慶長の役に際して日本軍が朝鮮半島の南部各地に築いた日本式の城(城砦群)である倭城も朝鮮にあった。日本の石垣の技術は7世紀半に百済から伝えられたものである。長じて戦国時代に培われた戦国武将の経験によって大幅に向上した築城技術が用いられたので、それまで長らく戦がなかった李氏朝鮮の城(邑城 ウプソン)に比べて防御力が高く、遥かに実戦的であったことに特徴がある。和平が結ばれて慶長の役が終わるまで、明・朝鮮の攻撃を受けても落城することは一度もなかった。日本の城郭史において、文禄・慶長期の築城技術を示す重要な遺構とされるが、朝鮮半島では天守・櫓・城門や塀が残っている城は一つもなく、石垣や遺構だけが現存している。石垣も、撤退後または和平時に角部が破壊(破城)されている箇所もある。いくつかの倭城は公園となり、その他の多くは丘の上や林の中に石垣が残存し、いくつかは消滅した。倭城はその性格によって大きく2つに分類される。 一つ目は明に攻め入る際に豊臣秀吉の滞在地(御座所)と兵糧補給路を確保することを目的として建設された城で、"つたいの城"とも呼ばれる。釜山からソウルまでのほぼ1日で軍隊が進軍できる距離ごとに建設され、後に義州まで建設された。主に朝鮮の邑城を修理するか、適当な邑城がなかった場所に新たに建設された。 位置が現在では明確でないが、咸鏡道の吉州と安辺の間に建設されたと言われており、当時、進軍ルートごとに日本軍がこの城を構築したものと推定される。 二つ目は南海岸(釜山、蔚山、慶尚南道、順天、南全羅に築造された統治のための城である。)

地中海、ヨーロッパの要塞

 中近東を含めた地域では文明が興り都市が形成されるとその周囲に城壁(囲壁)を巡らしていたが、これは街の防護と戦時の拠点とするためだった。古代ギリシアでは、アクロポリスが作られ、その影響を受けたローマ人も戦時は、丘に立て籠もった。こうした様相は、当時文明の中心であった地中海周辺ばかりでなく、例えばガイウス・ユリウス・カエサル『ガリア戦記』には険阻な地形に築かれたガリア人の都市を攻略する様子が度々登場するように広く見られるものである。首都ローマにも都市を守る城壁(囲壁)であるセルウィウス城壁が築かれていた。また仮設であるがローマ軍団は、進軍した先で十分な防御能力を備えた陣地を構築しており、これも城の一種と見ることもできる。恒久的な基地としてはティベリウスの親衛隊の兵舎が挙げられる。古代ローマの全盛期になると、もはや侵入できる外敵が存在しなくなり、都市機能の拡大に合わせて城壁を拡大していく必要がなくなった。ローマ帝国の防衛は国境線に築かれた防壁リメス並びに軍団及び補給物資を迅速に投射できるローマ街道等の輸送路の維持によって行われていた。しかしながらローマ帝国が衰退する4世紀頃以降、ゲルマン人の侵入に対抗するため都市に城壁(囲壁)を築いて防衛する必要性が生じた。ローマ帝国最盛期には城壁を持たなかった首都ローマも、全周約19km・高さ8m・厚さ3.5mのローマン・コンクリートで造られたアウレリアヌス城壁で防御されることになった。城壁の素材は地域や時代・建築技術の程度によって様々で、日干しレンガや焼きレンガ・石・木・土など様々である。なお『ガリア戦記』に記されているガリアの城壁は木を主体としたものであり、北西ヨーロッパに本格的に石造建築が導入されるのはローマ化以降のことである。ローマ帝国の最盛期には強固なローマン・コンクリートで城壁(囲壁)や塔が造られるようになっていた。このように、古代地中海世界を含めて、10世紀半ばまでのヨーロッパには厳密に「城」と呼べるものは存在せず、主に都市や国を囲んで防御する城壁(囲壁)や塔が造られていた。
 西ローマ帝国の消滅後、古代ローマの建築技術は急速に失われ、土塁並びに木造の塔や柵が再び主流をなす時代が訪れた。10世紀、農業技術革命による生産力の上昇に伴い人口の増大と富の蓄積が始まると、それらを守るための施設を作り維持する社会的余裕も生まれた。またカロリング朝フランク王国が衰退・分裂して中央の支配力が緩みだし、ノルマン人やマジャール人の侵入が激しくなると、各地の領主は半ば自立して領地や居舘の防備を強化しはじめた。当初は居館と附属施設の周りに直径50mほどの屏を作り、濠を掘る程度だったが、10世紀の終わり頃から城と呼べる建築物を作るようになった。多くは木造の簡易なもので、代表的な形態がモット・アンド・ベーリー型である。平地や丘陵地域の周辺の土を掘りだして、濠(空濠が多かった)を形成し、その土で小山と丘を盛り上げた。小山は粘土で固めてその頂上に木造または石造の塔(天守)を作った。この丘は『モット(Motte)』と呼ばれる。また、丘の脇または周囲の附属地を木造の外壁で囲んで、貯蔵所や住居などの城の施設を作った。この土地は『ベイリー(Bailey)』と呼ばれた。これは非常に簡単に建築でき、100人の労働者が20日働けば建設できたと考えられている。このような城は、東西は現在のポーランドからイングランドやフランス、南北はスカンディナビア半島からイタリア半島の南部までの広範囲に広がっており、特にフランスで多く使われていた。また、ほとんどの街も城壁を有する城郭都市となった。古い街の中には、古代ローマ時代の城壁を再建・補強して用いた場合もあった。
 11世紀には、天守や外壁が石造りの城が建築されるようになるが、石造りの城は建造に長期間(数年)かかり費用も高額になるため、王や大貴族による建設が中心であり、地方では木造の城も多く残っていた。石壁には四角い塔が取り付けられ、壁を守る形になった。12世紀の十字軍の時代には、中東におけるビザンティン、アラブの技術を取り入れ、築城技術に革新的変化がみられた。集中式城郭と呼ばれる城は、モットの頂上に置かれた石造りの直方体の天守塔キープ(Keep)』が、同心円状に配置された二重またはそれ以上の城壁で守られていた。内側に行く程、壁を高くして、外壁を破られても内側の防御が有利になるよう工夫されている場合もあった。 石造りの城を攻撃するためには、地下道を掘って城壁を崩したり、攻城塔破城槌を使う従前の方法だけでなく、12世紀後半には十字軍が中東から学んだカタパルト (投石機)が使われるようになる。投石機は50kgの石を200m余り飛ばすことが出来るものもあり、14世紀末に大砲にその役が取って代わられるまで城攻めの中心的兵器であった。この投石機より飛来する石弾の衝撃を逸し吸収するため、直方体の塔は多角形を経て円筒形になり、また壁の厚みも増していった。 代表的なものにクラク・デ・シュバリエ城、ガイヤール城がある。
 カタパルト (投石機)と並んで弓矢による攻撃技術も発展したが、城に立て籠もった防御側の抵抗手段は塔の上から石や熱した油を落とす程度のものであった。12世紀後半になり、塔や城壁に矢狭間を設けてクロスボウを用いて反撃を行うようになった。城壁には壁面から突出する半円形の塔(側防塔)を配し、そこに矢狭間を設けることで城壁に取り付く敵兵に左右から射掛けることが可能となった。こうして城の軍事的機能の中心は天守塔(キープ)から側防塔を配した城壁に移行していった。ついには、城とは強固な城門(ゲートハウス)側防塔を配した城壁そのものとなり、城壁に内接する形で居住スペースなどの建物が配置された。この様式の城(城壁)のことをカーテンウォール式城郭と呼ぶ。ここに至り天守塔(キープ)の軍事的意味は消滅し、強固な城門であるゲートハウスがその役目を担うことになった。だが、城主たちは天守塔の持つ支配と権力の象徴性を重視し天守塔を建てることに固執した場合もあった。
 ビザンツ帝国ではギリシアの火と呼ばれる火炎放射器が使われていたが、これが西ヨーロッパに広まることはなく、14世紀頃に中国から伝わった黒色火薬の製造技術が大砲の製造を可能にした。当初は鍛鉄の棒を円筒形に並べた固定したものや、青銅の鋳物を用いた「大型の大砲」が造られ、15世紀中頃からは高炉技術の普及で鋳鉄を用いた「中型・小型の大砲」が大量生産されるようになる。15世紀の砲弾には炸薬や信管は無かったが、初速が大きく水平に近い軌道で飛ぶ砲弾の破壊力は大きかった。高い建造物は大砲の標的となったため城壁は高さよりも厚さを重視するようになり、さらに地下に掘り下げて建設され地上からはその姿を見いだせないような要塞型の城となっていく。この形の城は最終的に星型要塞となった。これに対して、王侯貴族の住居は国境から遥かに離れた安全な地に防衛機能より居住性や壮大さや豪華さを重視した、優雅で窓の多い城や邸宅が建てられた。また、地方の中小貴族層は住居と所領経営の拠点である小型の邸宅に住むようになった。現在のヨーロッパの城のイメージは、近世に建築されたこれらの軍事機能を持たない城や邸宅によるものである。
 城塞の技術は、15世紀 - 16世紀の火薬、大砲、銃の活躍によって大きく変化した。有史以来の防護設備、砦、城、要塞の基本は壁と塔であった。壁により敵の侵入を防ぎながら、塔から高さを生かした攻撃を行うもので、重力を利用すれば、弓矢の威力は増し、単なる石や丸太も武器として利用することができた。攻撃側は、壁を壊すための器具を工夫したが、いずれも大がかりで時間のかかるもので、守備側の優位は堅かった。しかし、大砲、銃が使われ出すと、火薬を使った銃弾の威力は高さの優位を減少させ、大砲により高いが比較的薄い壁は容易に打ち壊されるようになった。このため要塞と城の機能は分離されるようになり、要塞は高さより、厚さを重視するものになり、永久要塞としては星型(稜堡式)要塞が、野戦要塞としては塹壕が主流となった。一方、城は防衛機能より居住性や壮大さや豪華さを重視した、優雅で窓の多いものが作られるようになる。フランス語のシャトー(château、複数形châteaux)は日本語で城と訳されているが、荘園主によるものは城郭というよりはイギリス・アイルランドにおけるマナー・ハウスに相当する。

日本の城

 これらに比べ、世界で城を最も特殊な使い方をしたのは間違いなく日本である。日本は大陸国家に比べると、外国からの侵略は少ない。判例としてモンゴル帝国が襲来した元寇は、台風や高波などの自然災害にて大きな被害を被り撤退を行った。このため被害は国内だけに限られ、外国との間の戦争が生じないために城塞都市が作られなかった。しかし、自然の防壁があり、城塞都市がないからといって、日本の防御は大陸よりも薄いのかと言われればそういうわけでもない。
 弥生時代の日本には、集落に外敵が攻めにくいように、濠をめぐらせた環濠集落や山などの高いところにつくられた高地性集落が数多く存在したが、ヤマト政権に至る政治的統一が進むにつれて衰退した。城の文献上の初見は、664年に天智天皇が築かせた水城(みずき)である。この時代には、大野城や文献に見えないものも含め多数の城が九州北部から瀬戸内海沿岸に築かれた。 また、蝦夷(えみし)との戦争が続いた東北地方では、7世紀から9世紀にかけて多賀城出羽柵、秋田城などの軍事拠点と行政拠点を兼ねた城柵が築かれた。城は、主に西日本における城柵であり、山城を主体として政庁を囲むようにして石垣や版築土塁の城壁を築き、街道が貫く部分を開口して城門を建てた。柵は、主に東北地方における城柵である。西日本の城と同様の構造であったが、政庁を囲む城壁は版築土塁のほかに木の角材を建て並べたものも使われた。これらの城は、ユーラシア大陸における古代中国に見られるような城壁都市の概念に由来するものであり、日本では国府の守備として築かれ用いられたが、律令制が崩れると共に廃れ、武士の時代に築かれ始めたものが戦闘拠点としての狭義の城である。
 中世の日本では、武家の平時の居住地への防護と、戦時に険阻な山に拠る際の防護と、2つの必要から城が発達した。平安時代後期、治承・寿永の乱においては『吾妻鏡』や『平家物語』『山槐記』などの記録史料・日記に城郭の存在が記されている。この頃の「城郭」は堀・掻盾や逆茂木など敵の進路を遮断するために設置したバリケードであると考えられている。南北朝時代の城の特徴は、曲輪(くるわ)の削平が不十分、腰曲輪の使用、多重の堀切もしくは多数の堀切を入れる城が多い傾向がある。戦国時代初期まで「城」と呼ばれるものは圧倒的に後者の山城が多かった。領主の居城では、外敵に攻められた際、領主は要害堅固な山城へ籠り(籠城)、防御拠点とした。こうした山城は、麓にある根小屋に対して「詰めの城」と呼ばれた。例としては、武田氏#甲斐武田氏の躑躅ヶ崎館と要害山城などがある。前者の領主が平時に起居する館は、麓に建てられた。地域によって「根小屋」「館(やかた/たち/たて)」「屋形(やかた)」などと呼ばれ、周囲にを巡らし、門に櫓(やぐら)を配置するなど、実質的に城としての機能を備えていた。周囲には、家来の屋敷や農町民の町並み(原始的な城下町)ができた。戦国時代中期から城の数は飛躍的に増大し、平地に臨む丘陵に築いた平山城(ひらやまじろ)や平地そのものに築いた平城(ひらじろ)が主流となる。防御には優れるが政治的支配の拠点としては不向きであった山城は数が減っていく。また、この時期の特徴としては「村の城」とも呼ばれる施設が全国的に造られたことも挙げることができる。これは戦乱が日常化したため、地域の住民が戦乱発生時の避難施設として設けたもので、時には領主への抵抗運動や近隣集落との抗争時に立て籠もる軍事施設としても機能した。これらの施設は山頂に平場を作事するなど純粋な軍事施設の「城」に比べると簡素な造りで、狭小であることが多い。中世・戦国時代初期の城郭は、土塁の上に掘り立ての仮設の建物を建てたものが主体であった。鉄砲、大砲の普及によって、室町時代末期から安土桃山時代には、曲輪全体に石垣を積み、寺院建築や公家などの屋敷に多用されていた礎石建築に加え、壁に土を塗り籠める分厚い土壁の恒久的な建物を主体として建設され、外観も重視して築かれたものが現れた。こうした城は室町時代末期以降、特に松永久秀が多聞山城や信貴山城を築いた頃や、織田信長が岐阜城や安土城を築城した頃に発生したと考えられている。その後豊臣秀吉により大坂城や伏見城などが築かれ、重層な天守や櫓、枡形虎口を伴う城門に代表される、現在見られるような「日本の城」が完成した。この形式の城郭を歴史学上、「織豊系城郭」と呼ぶ。織豊系城郭は織豊政権麾下の諸大名が主に建設した。日本国内全体に遍く普及したのではなく、東北地方や関東、四国、九州の戦国大名たちは、各地の実情にあわせた城郭を築いている。また、織豊系の城では、これまで城館の周囲には定住のなかった商工業者たちを、城に接する街道沿いの指定区域に配置。常設の市を開き、領国の経済拠点として都市を設置した。豊臣政権や江戸幕府は、天下普請として政権が直轄する城の築城を、各地の大名に請け負わせた。このことにより、織豊系城郭の技術が諸大名に広まり、各地に織豊系城郭の要素を取り入れた城が多く現れた。
 江戸時代以降の城は、軍事拠点としての意義が縮小し、政治を執り行う政庁としての役割が強くなる。藩の御用金や年貢米を保管するための蔵が城内に設けられ、これらを守ることが城の主な機能となった。また藩の財政を司る勘定所が設置され、歳出と歳入の計画の立案と記録が行われた。江戸幕府により、1つの大名家につき原則1つの城を残して破却するよう命じる「一国一城令」が諸大名に向けて発布された。各大名はこれに恭順して家臣たちの城を破却し、大名の居城の城内や城下に屋敷を与えて集住させた。1万石以下の領主は城を持つことが許されず、陣屋と呼ばれる屋敷を建てて住い、領地支配を行った。このような陣屋の一部は、江戸末期から明治初頭において城郭化や拡張が行われたものもある。江戸時代では、災害などで被害を受けた城の修復には幕府から修復許可を得なければならなかった。修復許可には修復願絵図という図が付けられ、災害の被害状況などが説明されていることから、災害の規模や当時の城について知ることができる資料である。江戸時代後期、日本と正式な通商を許されていたオランダ以外の欧米諸国の艦船が日本近海に来航するようになった。海防のため、幕末には日本各地に台場や砲台などが築かれた。また、大砲戦に対応した西洋式要塞の影響を受けて、開港地となった箱館の五稜郭四稜郭に代表される稜堡式の城郭、五島列島の石田城、蝦夷地(北海道)の松前城など日本式の城郭も新しく築城された。松前藩はこのほか、本州で戊辰戦争が始まっていたの明治元年(1868年)に館城を築いており、最後の和式城郭と位置付けられている。会津藩の鶴ヶ城や五稜郭などは、戊辰戦争で戦場となった(会津戦争、箱館戦争)。明治新政府樹立後に築かれた城も存在している。千葉県の松尾城がこれにあたり、横矢掛かりを重視した稜堡式を取り入れ、役所と藩知事邸を分離するなど特徴の多い城郭であった。これらの新期城郭は廃藩置県により工事が中止になったものがほとんどである。明治時代に入ると、各地の城郭は、兵部省(後の陸軍省)の所管となった。1873年(明治6年)に布告された廃城令によって廃城処分(大蔵省所管)となった城は旧城の建物が撤去され、役所や学校などが置かれたり、神社境内や公園として利用されたりした例もあった。「廃城処分」とは、大蔵省の裁量によって処分することである。彦根城や犬山城のように元城主が邸宅として居住した例もある。一方、存城処分となった城は引き続き陸軍省の所管となり、日本陸軍が駐屯した。九州には、士族反乱で戦場となった城もあった。なお、明治時代から太平洋戦争終結に至るまで軍事施設として近代要塞(東京湾要塞、虎頭要塞など)や野戦陣地(西南戦争、硫黄島の戦い、沖縄戦など)が構築された。廃城令で約190あった城のうち43が破却された[2]。軍の施設や公共施設を設置するために不要な建物や老朽化の進んだ建物、維持が困難となった建物は撤去されていったが、名古屋城や姫路城に代表される一部の城郭建築について保存運動が行われ、参議であった大隈重信に対して町田久成、世古延世によって『名古屋城等保存ノ儀』が進言されたのに加えて、1874年、彦根城天守について明治天皇に対して大隈重信や二条斉敬の妹(皇后の従妹)などによる彦根城保存の上申や陳情があり、天皇の命によって解体から一転して保存されることとなった。さらに、1878年、日本陸軍大佐の中村重遠が当時陸軍卿だった山縣有朋に対して名古屋城と姫路城の保存を進言した。1879年、陸軍予算による両城の保存修繕が加えられることが決定し、正式に国によって保存されることとなった。
 築城に際しての基本設計を縄張(なわばり)あるいは径始・経始(けいし)といい、その中心は曲輪の配置にあった。“縄張”の語源も曲輪の配置を実地で縄を張って検証したことに由来するとされる。近世に入ると、軍学者たちにより、様々な分類・分析がなされた。縄張の基本的な形式としては、曲輪を本丸・二の丸・三の丸と同心円状に配置する「輪郭式(りんかくしき)」、山や海・川を背後に置き(後堅固)本丸がその方向に寄っている「梯郭式(ていかくしき)」、尾根上などに独立した曲輪を連ねる「連郭式(れんかくしき)」などがあるが、実際にはそれらの複合形を取ることが多い。堀や土塁・石垣で囲まれた区画を曲輪・郭といい、城はこの曲輪をいくつも連ねることで成り立っていた。江戸時代にはともいわれた。防御の中心となる曲輪は本丸であり、他に二の丸・三の丸が設けられることが多かった。城によっては、櫓曲輪、水手曲輪、天守曲輪、西の丸(大名の隠居所)などが設けられることもあった。馬出(うまだし)が大規模化したものを馬出曲輪、ある城に隣接している独立性の高い曲輪は出曲輪・出郭(でぐるわ)、出丸(でまる)という。大坂の陣の真田丸や熊本城の西出丸といったものがある。一般に山城では各曲輪の面積が狭く設置可能な施設は限られていたが、平城では各曲輪の面積が広く御殿など大規模な施設の設置が可能であった。近世にいたり、城郭が単なる軍事拠点のみならず政治的統治拠点としての役割を持つようになると、城下町や家臣団防備の目的で従来の城の機能的構成部分(内郭)から、さらにもう一重外側に防御線が設けられるようになった。これが総構えである。普通、「城」という場合は、内郭のみを指し、外郭である総構えは天然の地勢(山・河川)をも含むため、どこまでをいうのか不明瞭なものもあった。また総構えの堀は総堀(惣堀)と言うが、外堀と言われることも多い。ただし単に外堀と言った場合は、総構え堀を指す場合と本城の外側の堀を指す場合とがある。後北条氏の拠点、小田原城の総構えは2里半(約9km)に及ぶ空堀と土塁で城下町全体を囲む長大なものであった。大坂城の外郭も周囲2里の長さで、大坂冬の陣では外郭南門の外側に出丸が造られ(真田丸)、徳川方は外郭内に1歩も侵入できなかったという。また江戸時代の江戸城外郭は最大で、堀・石垣・塀が渦状に配されて江戸市街の全てを囲んでいた。総構えの典型は、中国の城や中世欧州の都市のように、都市全域を囲む堀と塁(城壁)にみることができる。中世都市の堺は三方を深さ3m、幅10m程の濠で囲み、木戸を設けて防御に備えた。今でも遺構を見ることが出来る京都の「御土居」も典型的な総構えであり総延長は5里26町余(22.4km)にも及んだ。城を構成する基本的な防御施設として、初期の山城では切岸(きりぎし)が用いられたが、やがて堀(ほり)・土塁(どるい)が多用され、石垣(いしがき)が多くなった。堀は水堀の他、空堀、畝状竪堀などの形態があり、土塁は土居(どい)ともいい、堀を掘った土を盛って外壁とするものである。土塁の上部に柵や塀を設けることもあり、斜面には逆茂木(さかもぎ)を置いて敵の侵入を阻むなど、防備は厳重を極めた。石垣は中世においても城郭の要に一部用いられることはあったが、安土桃山時代になると、重い櫓を郭の際に建てる必要から、土塁の表面に石材を積んで強化した石垣が発達した。安土城以降は、土木技術の発達と相まって、大規模な石垣建造物が西日本に数多く建設された。
 虎口は城郭、あるいは曲輪の正面開口に当たり、城内の軍勢にとっての出入口であると同時に、城攻めの際には寄せ手が肉薄する攻防の要所となるため厳重に防御される。古くは開口に木戸等の門を設け、両脇に櫓を建てて攻め手に備えるなど簡易なものであったが、戦国期に著しい発展を遂げ、城の縄張の重要要素となっていった。西日本で枡形が発達し、東日本では馬出が発達したが、時間の経過や統一政権の出現で技術的融合がおこり、しだいに枡形は東日本にも、馬出は西日本にも広がっていった。やがて内側に枡形、外側に馬出と、両形態の虎口を二重に構え防備をより厳重にした城も現れた。戦国大名武田氏が築城あるいは改修したとされる小長井(谷)城(静岡県川根本町)・大島城(長野県松川町)・牧之島城(長野県長野市)は、馬出と枡形虎口を組み合わせている。会津若松城は、馬出形状の北出丸、西出丸を外側に備え、その内側は枡形を備える二重構造となっていた。この構造は門扉が砲撃の死角となるようにできており、幕末戊辰戦争では緒戦において北出丸の追手門を突破しようとした新政府軍の阻止に成功し、長期籠城戦に持ち込んだ。。塀(へい)は、曲輪内を仕切るほか、防御の目的で石垣・土塁の上にも築かれた。中世には竹で小舞を編んで土を塗った掘立の土塀が多く使われ、近世には礎石立てで小さな屋根をかける壁の厚さ20センチメートルほどの土壁が主流となり、版築土塀の要素を含んだ「練塀」も登場した。防火のために漆喰を塗り籠めたり江戸時代中期には土塀の外壁に瓦を貼り付けた海鼠塀が登場した。塀や櫓には矢や鉄砲の弾丸などを射出するための小窓が設けられ、これを狭間(さま・はざま)といった。その窓の形により丸狭間・菱形狭間・将棋駒形狭間・鎬狭間・箱狭間などと呼ばれ、塀の下の石垣の最上部に切込みを入れるように開けられた石狭間もあった。その用途によって矢狭間・鉄砲狭間・大砲狭間などと呼ばれた。日本の中世の城では、塀の内側に木材を組んで盾板を建てたが登場し、攻撃のための「高櫓」(たかやぐら)や物見のための「井楼」(せいろう)と呼ばれる簡易な建物を建てて、防御を行っていた。また、常時矢を始めとする武具や生活道具なども保管する倉庫としての役割もあった。そのため、「やぐら」の字には「矢蔵」「矢倉」ともあてられる。戦国時代末期から江戸時代までには、鉄砲などの銃器の導入に伴う戦い方の変化から、より頑丈な建物が設置された。その形状も多様に及ぶようになり、意匠には寺社建築の要素も取り入れられて破風や外壁仕上げにより装飾して領主や城主の権威を誇示する要素を含むようになった。櫓は通常、数字やいろは順を冠して一番櫓、二の櫓、はの櫓、ホの櫓など呼んだり、方位を冠して巽櫓(たつみやぐら)・丑寅櫓(うしとらやぐら)、東櫓、西櫓などといい、また用途などによって着見櫓・月見櫓・太鼓櫓などと呼ばれるものもあった。郭の角にある隅櫓は、近世城郭では通常二重櫓、大きな城などでは小規模な三重櫓が用いられることもあったが、中には大坂城本丸にあった三重櫓や熊本城にある五階櫓のように天守に匹敵する規模の櫓があげられていた例もある。そして城郭の最終防衛拠点と位置付けられ、城の象徴でもある天守は、大型の望楼櫓が発展したともいわれる。名称の由来は、仏教の多聞天、梵天、帝釈天(=天主)を祀ったところから命名されたものという説、城主の館を「殿主」「殿守」といったところからきたという説などがある。しかも、天守の文献上の初見は、摂津伊丹城とするものや松永久秀の大和多聞山城とするもの、また、織田信長の安土城の天主とするものなどの説があり、起源については未だに十分解明されていない。多様な形式・形状の天守が築かれたが、築城のピークは関ヶ原の戦い前後で、特に西日本には姫路城天守のように高さ20メートル前後から30メートル前後のものが築かれたのも特徴である。

時代に応じた攻城戦における戦術変化

 敵の砦や城、城郭都市を奪取する戦闘である攻城戦は、古代から近世初期にいたるまで、野戦と並ぶ2大戦闘形態の1つであった。城塞の技術は、15-16世紀の火薬、大砲、銃の活躍によって大きく変化しており、この後の要塞を攻める行為も類似の戦闘ではあるが相違点も多い。従って、本項ではそれ以前の攻城戦を中心に記述し、一部関連を説明するものの16世紀以降の防衛拠点攻囲戦は市街戦がメインとなっている。『孫子』では、防御に徹する守備側を攻略することは容易ではなく、攻城は下策で最も避けるべきと述べられている。古典的な戦記などでは会戦が多く描かれるが、実際の戦争は「小競り合い」と「攻城戦」がほとんどを占めたといえる。城内の防御側勢力が長期に渡り守勢に徹して攻撃側と対峙し続けることは「篭城」と呼ばれ、城が攻撃側の侵入を阻止し切れずにその支配権を明け渡すことは「落城」、「陥落」と呼ばれる。現代の戦争では兵器の攻撃力と通信技術が発達しているため大軍が建物に籠城し、そこを攻める攻城戦に至ることは稀であるが、装備品の有無や城の定義(城参照)によっては現代でも攻城戦は起きえる。攻城戦の目的はいくつかあるが、第一に陥落した城は城壁などを修復不能なまでに完全に破壊してしまえば再利用が不可能になるため、攻め手はそれに留意する必要がある一方、交通の要衝など軍事的に重要な地点を確保すれば、その後、会戦をするのも持久戦に持ち込むにも有利になるためである。第二に、地域支配の中心である城を奪えば、その地域は自ずからそれに従うようになる。国レベルにおいてもコンスタンティノープルのような首都を奪えば、国全体の征服も容易になる。また城塞都市においては第三に、そこに蓄えられた財宝、食料、物資が直接的な目的となることもある。古代、中世の戦争は君主を捕らえれば終結し、逆に捕獲できなければ抵抗がいつまでも続くことが多い。野戦では逃げられる可能性もそれなりにあるが、城に追い込めば捕獲できる確率は高くなるなどのようにいずれも敵を弱体化させるために吹きかける戦争であることは間違いないだろう。その戦争は短期戦と長期戦に分かれ、短期戦は大規模な軍を最初に動かし、城兵の少ない場所から城内に侵入し、陥落させるという手法、つまり奇襲戦術などを行ったり、大規模な軍を形成して、敵兵を圧倒するような強攻戦術などが使われる。主に日本では、こういった戦術が多く用いられるため、日本の城は複数の総構えや堀、塀などにより奇襲防衛に長けている。逆に西欧では城壁の中に都市が混在しており、奇襲できる道が多く存在するため、奇襲防衛や強攻防衛に弱い一面がある。実際に強攻防衛においてはコンスタンティノープル攻城戦においては、ローマ帝国の領土は首都コンスタンティノープルと、ペロポネソス半島の一部モレアス専制公領(古代スパルタ近郊にあるミストラの要塞が首府)を残すのみとなっていた。ローマ帝国が東西に分裂して以来、コンスタンティノープルは幾度となく攻撃を受けてきたが、占領されたのは第4回十字軍による一回(1204年の包囲戦)だけであった。10世紀のブルガリア帝国君主シメオン1世や14世紀のセルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンのように、東ローマ帝国を完全に征服しようと意図した者はいたが、実際に成功した者はいなかったわけだが、その中でメフメト2世は1452年にボスポラス海峡のヨーロッパ側、つまりコンスタンティノープルの城壁の外側に城を建て、攻城戦の橋頭堡とし、スルタン直属の最精鋭部隊であったイェニチェリ軍団2万人を中心とした10万人の大軍勢に加え、海からも包囲するために艦船を建造させた。またハンガリー人の技術者ウルバンが売り込んだ新兵器ウルバン砲を採用して戦局を優位に進めた。それは長さ8m以上、直径約75cmという巨大なもので、544kgの石弾を1.6km先まで飛ばすことができた。東ローマ帝国にも大砲はあったが、より小さいもので、射撃の反動で城壁を傷つけることがあった。ただし、ウルバン砲にも欠点はあった。「コンスタンティノープルのどこか」といったような、かなり大きな標的でさえも外すほど命中精度が低かったのである。さらに1回発射してから次の発射までに3時間かかった。砲弾として使える石が非常に少なく、射撃の反動が元で6週間使うと大砲が壊れるという始末であった。5月29日未明、ついにオスマン帝国側の総攻撃が開始された。攻撃の第一波は、貧弱な装備と訓練のされていない不正規兵部隊(バシ・バズーク)たちだったため、多くが防衛軍に倒された。第二波は、都市の北西部にあるブラケルナエ城壁に向けられた。ここは大砲によって部分的に破壊されていたため、何とか侵入できる場所であったが、すぐに防衛軍によって追い払われた。イェニチェリ軍団の攻撃にもどうにか持ちこたえていたのだが、ジェノヴァ人傭兵隊長ジョヴァンニ・ジュスティニアーニ・ロンゴが負傷[注釈 2]したことで、防衛軍は混乱に陥り始めた。不幸なことにブラケルナエ地区のケルコポルタ門の通用口は施錠されていなかった。これを発見したオスマン軍は城内に侵入し、防衛軍はたちまち大混乱に陥って敗走した。しかしコンスタンティノス11世は、最後まで前線で指揮を執り続けた。ドゥカスの伝えるところでは、城壁にオスマンの旗が翻ったのを見たコンスタンティノス11世は身につけていた帝国の国章(双頭の鷲の紋章)をちぎり捨て、皇帝のきらびやかな衣装を脱ぎ捨てると、「誰か朕の首を刎ねるキリスト教徒はいないのか!」と叫び、親衛軍とともにオスマン軍の渦の中へ斬り込んでいったと言われている。コンスタンティノープルに亡命していたオスマン帝国の皇族オルハンは自害したというような結果がでている。また、ローマ帝国の第二次ポエニ戦争の時代では、ハンニバルとタレントゥムの親カルタゴ派の間の約束では、カルタゴ軍が街の東側のポルテ・トラメンディニに近づいた際に、カルタゴ軍はアポローンの墓所から灯りで連絡することとなっており、城内のトレギスコからの灯りによる応答を待って、侵攻を開始することとなっていた。ハンニバルの入城はスムースに行われ、この作戦の中での最重要な部分が完全に成功した。続いてバッサ街を通ってアゴラに向かった。約2,000の兵士は、ローマ軍の外部からの反撃に備えて城外に残った。ハンニバルは他の経路も確保したかったため、フィレメノに対して、1,000人のリビュア兵とともに最寄の門に向かうように命じた。フィレメノが城門の外から笛を吹くと、守備兵は城門を開けて出撃した。彼らと合流すると直ちに衛兵を殺し、城外に潜んでいたリュビア兵を引き入れた。彼らもまたアゴラへ向かって進んだ。タレントゥム市民がカルタゴ軍の進入に気付いたとき、かつてない混乱が生じあちこちで騒ぎが起こった。ローマの長官は家族と共に港に通じる門(西門)に逃れた。そこで家族と別れ、守備隊の多くが残っている塔に戻った。フィレメノの部隊はローマ軍からトランペットを奪い、それを吹き鳴らした。ローマ軍はそれが何を意味するものか分からず、一部は持ち場に留まったが、一部はそれにおびき出されてカルタゴ軍に捕らえられ、殺された。しかしヨーロッパや中国などの大陸国家の城は長期戦を得意とし、補給路などを確保し防御設備を築いた上で、交通路を押さえて、城を包囲し、大砲やバリスタ、破城槌、投石機などを使い城を破壊することが十八番となっていた。一方日本においても、元弘の乱に見られたように赤坂城の用水路を絶ったり、畿内の野戦で派手に暴れることによって、味方を増やし籠城用の兵糧を確保すると共に、幕府に大軍を動員させ、騎兵が活躍しにくく弓矢を最大限効果的に使えるように設計された上赤坂城に引き連れることで、多くの損害を出すことに成功した。また、小田原征伐では周辺の複数の城を落とした上で箱根を越えて小田原に進軍し、海からは伊豆を経由して九鬼嘉隆、加藤嘉明、脇坂安治らの水軍が迫った。4日、徳川家康や堀秀政らが小田原の包囲を開始した。一方5月9日、後北条氏と同盟を結んでいたはずの奥州の伊達政宗が、秀吉の参陣要請(要求)に応じて本拠から小田原へと向かい、海上封鎖なども行った。この小田原へ戦を仕掛ける間も北条の支城は全て陥落していた。豊臣軍が21万といる中で北条軍の数はどんどん減っていき、最終的に小田原城も陥落することとなり、豊臣秀吉は天下統一へと向かっていった。
 近代戦においては、第二次世界大戦中の拉孟・騰越包囲戦、バルジの戦いでのバストーニュ包囲戦、インパール作戦でのコヒマ包囲戦が近い。例に挙げた内、攻囲側が勝利したのはバストーニュ包囲戦と拉孟・騰越包囲戦である。コヒマ包囲戦の日本陸軍はイギリス軍の空輸作戦の前に屈し、やがてインパール作戦の破滅的な瓦解へと繋がった。レバノン内戦では、「キャンプ戦争」と呼ばれるシリア軍によるPLO系パレスチナ難民に対する包囲戦が行われた。これはシリア軍が難民キャンプを包囲して水・食料の供給を遮断した上に、難民達が使用する井戸周辺に狙撃ポイントを設定(井戸を使用する人間を無差別に狙撃)したため、難民側に多数の犠牲者が発生した。2024年、南アフリカ当局は、廃鉱になった金鉱山における違法採掘者の摘発に着手。鉱山の出入口を規制して水と食料の供給の搬入を不可能とし、坑内に立てこもる最大4000人に対し兵糧攻めを行った。
 日本において、凱旋と出陣時に、勝ち栗、打ちアワビ、昆布を(敵に打ち勝ち、よろこぶ)にかけて儀式と共に食べられた。城の敷地内に、食料や燃料となる食物を育てる例が見られる。柿は干し柿にして保存された。栗は勝ち栗ともなり、保存も出来たことから保管された。松は燃料となり、非常食の松皮餅ともなった。梅は食料保存や傷の消毒ともなり奨励された。徳川家康は駿府城に食料となるようにミカンを植えた。また、長期間の籠城戦に備え、熊本城では、庭に銀杏、畳に芋茎、壁に干瓢、堀に蓮根が備えられていた。他に食べられた食料として米は乾燥させ干飯や、味噌などがあげられ、さらに色んな食材を組み合わせた兵糧丸が作られた。その一方でヨーロッパは、荷物を運ぶ牛(運んだあとに食料となる)、クラッカーや乾パン、塩漬け食料、その他の漬物、乾燥マメ、チーズ、ビール・ワイン。肉を食べない日もあったので、乾燥または塩漬けされた魚、特にタラの塩漬けであるバカラオは大航海時代も支える優秀な食料であった。他、酢、オリーブオイル、コショウ、サフラン、生姜。ロウソクも食卓に並ぶ。漢王朝以前や中国北部では、米や小麦に比べて保存が効きやすい黍(キビ)が重宝され、塩・野菜の漬物・発酵漬けされた魚・豆から作った調味料などが加えられた粥(小米粥)として供された。漢王朝以後は、種無しパンが食べられるようになり、そのままだと硬いため、茶やスープと共に食べられるようになった。明になると、真ん中に穴が開いた乾パンを紐を通して持ち運び食べられた。これら乾パンは軍用のみ作られた。唐・宋になると、焼餅・大餅・麻餅・黍餅・雑餅がたべられた。特に有名な物は「鍋盔餅」である。中国南部では、粟を食べる習慣が無かったので、干飯が食べられた。主食以外は悲惨で、味噌と漬物、豆を粉にしたものを茹で乾燥させ固めた物で、新鮮な肉や野菜が無かった。もし村から耕作用の牛を取ってきて食べようとした場合は死罪であった。そのため、肉を手に入れるには、敵や味方であった人間を調理する必要があった。遠征前には豪勢な宴会が開かれ、牛酒がふるまわれた。元(モンゴル)では、肉を乾燥させた乾燥肉を牛の膀胱に詰めたボルツが食べられた。これらの食料は栄養が豊富であったため兵站を無くし機動的な戦闘を行うのに重宝した。

城の内部構造

 日本の城郭建築、おもに天守や多重櫓は、複雑に屋根を重ねることがあるので、階層を呼ぶ場合には構造の複雑さにかかわらず、外観での屋根の数を表す“層”または“重”と、内部の床数の“階”とを並べて、「 - 層 - 階」「 - 重 - 階」とする。近世の姫路城、名古屋城、熊本城、松江城などでは最上階とそれ以下の下層階で構造を分け、下層階では防御のためにできるだけ壁面を多くする一方、最上階では砲撃戦を想定して壁はできるだけ少なく設計された。最上階は壁面を少なくすることで射手を多く配置でき、射撃後の硝煙の排気も迅速に行うことができる。天守の内部にはそれぞれ心柱を使う城の他にも、心柱を使わない2階分の短い柱308本のうち、96本の通し柱を配置して天守を支える構造の城もある。天守を支える柱には、一面だけ、あるいは二面、三面、四面に板を張って鎹(かすがい)鉄輪(かなわ)で留められている物がある。この柱を覆う板を「包板(つつみいた)」と呼ぶ。天守にある総数308本の柱のうち130本に施してあり、割れ隠しなど不良材の体裁を整えるためのものと考えられている。石垣に近づく敵を鉄砲や石などで攻撃するために設けられた穴で、松江城天守には2階の四隅と東・西・北壁、附櫓の南側に設けられている。また格子窓には窓に太い格子を縦に取り付け、外から内部が見えづらくする役割を持つ。外には突き上げ戸がついている。格子は鉄砲を広角に撃てるように◇型に取り付けられている。また、西側大破風の内側を利用して藩主用の箱便所がおかれていたといわれている。天守内に便所が設けられていたのは珍しいという。籠城戦を想定して天守に井戸を設けた城がある。天守の建物の内部に井戸がある城には、名古屋城、松江城、駿府城、浜松城などがある。熊本城は小天守に井戸が設けられている。また、姫路城は天守台北腰曲輪内に井戸が設けられている。天守台は城の最も高い位置にあるため、本来は最も井戸を掘りづらい場所であり、これらの築城時には何よりも先に井戸を掘る作業が行われたと考えられている。そして、日本の城にて政治的な役割を持つようになっていくと御殿が設置された。御殿は、藩主の住居と政庁が合わさった公邸であり、来客をもてなす迎賓館もかねている。
 一方、西洋の城の内部構造や内装は、時代を超えた秩序と現代的な魅力を備えた、壮大なスケールの匠の技といえる。用途に応じて複数の棟に分かれているが、共同空間としては大広間であることが一般的だ。また、美しく造園された中庭は、周りの建物に自然光を加えるだけでなく、セキュリティ対策としての役割も果たしている。象徴的なのは暖炉である。気候的な必需品であることに加え、視覚的な効果にも大きく寄与している。

おわりに

 要塞は人類の歴史において、防衛戦略の象徴として君臨してきた。石の壁や堀に頼る古代の要塞から、火砲に対応する星形要塞へと進化し、近代においては都市全体を守る要塞線や地下要塞へとその形態を変えてきた。日本、西洋、中国といった地域ごとに振り返ると、それぞれの地理的特徴や文化、軍事技術がどのように影響を与えたかが明確に浮かび上がる。この多様性は、要塞が単なる軍事施設以上の存在であり、各地域の社会や歴史、そしてその時代の価値観を映し出してきたことを物語っている。日本では、城は単なる防御施設ではなく政治や文化の中心地として機能した。安土桃山時代から江戸時代にかけては、美しさと権威の象徴としての「天守閣」を持つ城が発展した。しかし、日本の城は火砲の発達による直接的な影響を受けず、代わりに堀や曲輪といった防御構造が洗練された。これにより、他地域とは異なる独自の発展を遂げた。西洋では、城や要塞は中世の封建社会の中心であり、領主の権力の象徴であると同時に外敵から領地を守る拠点でした。火薬の登場とともに、城はその防御の形を変え、星形要塞や近代的要塞へと進化した。この過程は、戦術だけでなく、西欧の中央集権化や国民国家の形成と深く結びついている。一方、中国では、城郭都市や万里の長城に代表されるように、国家全体の防衛を目的とした要塞が発展した。特に長城は、遊牧民族の侵入を防ぐための巨大な防御線であり、軍事目的だけでなく、東アジアにおける統一と権威の象徴として機能した。中国の城郭は広大な土地を支配する必要から、都市防衛を主眼とした設計が特徴的で、西洋や日本の城とは異なる発展を遂げました。こうした各地域の要塞や城の進化は、それぞれの地理的条件、社会構造、軍事技術に深く根ざしています。そして、それらが直面する課題に応じて適応し、変化し続けてきた。この多様性こそが、要塞や城郭の歴史を紐解く際の最大の魅力といえるだろう。そして現代において、要塞という概念は物理的な防壁から、サイバー空間や経済的要塞といった抽象的な領域へと拡張されています。これらの変化は、技術革新や社会構造、戦争そのもののあり方の変遷を映し出している。要塞の歴史と戦術の変化を振り返ることで見えてくるのは、防御と攻撃の絶え間ない相互作用が、軍事技術だけでなく、政治や経済、文化の発展にも多大な影響を及ぼしてきたという事実である。要塞は単なる軍事施設ではなく、その時代の人間の知恵や恐怖、希望の結晶でもあった。そのため、要塞の研究は過去の戦争の教訓を学ぶだけでなく、平和を維持するための手がかりを探る上でも重要な意義を持つといえる。

いいなと思ったら応援しよう!