見出し画像

もしもポーランド分割されなかったら?


はじめに

 西スラヴ民族の国であるポーランドはカトリックを国教とし、正教会を国教とした東スラヴ民族のロシアや、東方遠征を野望に掲げたドイツと歴史的に対立をしていた。同国はドイツ・ロシア及びオーストリアという国の間で「分割と統合」をいくつも繰り返す形で歴史を歩んできた。なかでも16世紀〜17世紀ではポーランド・リトアニア共和国という990,000km²にも及ぶヨーロッパ有数の大国となり、北欧のスカンディナヴィア帝国と共にロシアに強く反抗した国でもあった。その一方で、ヨーロッパの中で立憲君主制や連邦制、民主主義という概念を完成させた最初の国ともいえる。数十年の繁栄のあとに衰退してしまい、123年間にわたり分割統治されてしまった。ナチス・ドイツの敗戦後、冷戦期では東側陣営の括りとしてワルシャワ条約機構の一国となったが、1989年にソ連の干渉から独立し、ようやくアメリカ合衆国のもとポーランド共和国として現在の姿になった。第二次世界大戦に至るまでポーランドの北はドイツにより長年支配されてきた。しかしドイツの敗戦後、元々ドイツの領土であった東プロイセンはロシアのカリーニングラードとなり、現在でも領土問題は続いている。また、同国はカトリックを国教としているものの、ユダヤ人・ユダヤ教に関しては寛容であった。しかし、分割期に入るとロシア帝国によるポグロムが行われるようになったり、ナチス・ドイツではホロコーストが行われたりと虐殺の経験も身を持って体感した国でもある。また第一次世界大戦時に日本はポーランドに対する支援を手厚く行っており、ワルシャワ大学の開設を支援した他、ウラジオストクからポーランド人シベリア孤児を救出するといった活躍をしたため親日国のうちの一国でもある。しかし太平洋戦争中は違う陣営に所属していたため一時的に断交を行い、戦後の1957年に国交を回復させた。
 分割と統合を繰り返した歴史を歩んだポーランドだが、もしも分割されることなく歴史を歩んでいたらどうなっていたのかを概観してみようと思う。

史実

 ポーランドはケルト人居住地であるゲルマニア(ラテン語呼称)とスキタイの居住地であるウクライナに面している草原であったため、先史時代から陸上での民族の往来は多かった。7500年前の「世界最古のチーズ」製造の痕跡がポーランドで発見されていることや、インド・ヨーロッパ語族の言語やその話し手のヨーロッパにおける発展の非常に重要な段階とみられる球状アンフォラ文化やそれを継承した縄目文土器文化、ルサチア文化(ラウジッツ文化とも)の中心地がポーランドである事実などが挙げられる。ポーランド人の基本部族となったポラン族とレフ族はポーランド南西部に居住しており、ルギイ族と関連があったと『ゲルマニア』で記述されている。彼らは「プシェヴォルスク文化」と呼ばれる、周辺のゲルマン諸部族とは異なる独特の文化を持つ集団で、ルギイ族はヴァンダル族の別名か、あるいはヴァンダル族は複合部族でルギイ族はそのひとつではないかとされている。プシェヴォルスク文化は、当時ゴート族のものと推定されるヴィスワ川東岸付近一帯のヴィェルバルク文化を挟んではるか東方にあった原スラヴ人の「ザルビンツィ文化」と似通っていることが考古学調査で判明しているため、原スラヴ系の文化のひとつといえる。プシェヴォルスク文化とザルビンツィ文化は共通した文化圏で、元はひとつであり、ヴィスワ川河口付近からゴート族が入り込み間に割って入って川を遡上しながら南下していったため、この文化圏が西方のプシェヴォルスク文化と東方のザルビンツィ文化に分裂したものと考えられる。インド・ヨーロッパ語族のイラン系民族のサルマタイ人やスキタイ人が定住していた。バルト人、トルコ人もこの地域に住んでいた。
 4世紀、プシェヴォルスク文化の担い手は、西のオドラ川(オーデル川)と東のヴィスワ川が大きく屈曲して作った平野の、当時は深い森や入り組んだ湿原(現在はかなり縮小したとはいえいまだ広大な湿原が残っている)だった場所に住んでいた。その地理的な理由からフン族の侵入を免れ、ゲルマン民族の大移動の後に東方からやってきて中欧に定住した「プラハ・コルチャク文化」を持つほかのスラヴ諸部族と混交して拡大していったものが、中世にレフ族あるいはポラン族として登場していた。6世紀まではこの地に現在のスラヴ民族が定住し、一種の環濠集落を多数建設した。遅くとも8世紀までには現在のポーランド人の基となる北西スラヴ系諸部族が異教(非キリスト教)の諸国家を築いていた。8世紀、それまでレフ族・ポラン族とゴプラン族(Goplanie)を治めていた、のちに「ポピェリド朝」と呼ばれることになった族長家の最後の当主ポピェリドが没し、「車大工のピャスト」と呼ばれた、おそらく荷車や馬車などを製造する原初的マニュファクチュアを経営していた人物(一説にはポピェリドの宮宰だったともされる)がレフ族/レック族の族長に選出され、「ピャスト朝」を創始し、966年には諸部族を統合し、ミェシュコ1世はキリスト教カトリックに改宗し、ポーランド公国として認知され始めた。992年に息子のボレスワフ1世が後を継ぐと領土を画定し、中央集権化として国家を統合し、神聖ローマ帝国、デンマークなどと外交を行っていった。1004年ボレスワフ1世はボヘミアに進軍してボヘミア公になり、そのままの勢いで1018年にキエフ・ルーシを攻略した。そして同年の講和によりミシニャとウジツェを獲得し、中欧の大国となった。1015年にはデンマークのイングランド遠征の援助をするため、軍を貸して北海帝国建国の援助をした。1025年ローマ教皇に認知されて、ポーランド王国となり、国境が画定した。王国領は西ポモージェ地方を除く現在のポーランド、チェコのモラヴィア地方、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ドイツのラウジッツ地方、ウクライナの「赤ルーシ」地方となる。ボレスワフ1世が治めた属領も含めてすべてを合わせると西ポモージェ地方も含めた現在のポーランドのほぼ全域、チェコのほぼ全域、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ウクライナ西部の赤ルーシ地方、ベラルーシのブレスト地方、ドイツのラウジッツ地方とマイセン地方となる。最初の戴冠式を受けたのは息子のミェシュコ2世である。しかし、王国内の各地の諸侯は王権のこれ以上の拡大に危惧を抱いた。1034年、ミェシュコ2世は謎の死を遂げた。その後数年間は政治的な混乱の時代が続いた。1038年、時のポーランド公カジミェシュ1世は政治が滞っていた首都ポズナニを離れ、クラクフへと事実上の遷都をした。正式な戴冠はしていなかったがポーランド王国の事実上の君主であった公は、混乱を収拾して王国を再びまとめ上げた。また、公はヴァヴェル大聖堂を大改築し、クラクフとヴロツワフに司教座を置いた。その長男で1058年に公位を継いだボレスワフ2世は神聖ローマ皇帝とローマ教皇との間で起きていた叙任権闘争をうまく利用し、1076年にポーランド王位に就いた。
 1138年、ボレスワフ3世は王国の領土を7つに分割。そのうち5つを后と4人の息子たちにそれぞれ相続させた。そのうちの長男ヴワディスワフ2世にはさらにクラクフ大公領を与えてクラクフ大公とし、以後はクラクフ大公に就いた者がポーランドの王権を継ぐこととした。残りのポモージェ地方はポーランド王国の直轄領とし、現地の諸侯に実質的支配を任せた。1079年に大公位についたヴワディスワフ2世は国家の統一を画策し、大公の権力強化に反対するグニェズノの大司教と対立して大公支持派と大司教支持派の間で内戦となった。戦争は長引き、王国はどんどん小さな領邦に分裂していった。1146年神聖ローマ帝国の赤髭王フリードリヒ・バルバロッサからの援助を得る見返りに、当時の神聖ローマ皇帝ロタール3世に臣従し、これによってシロンスク公領の支配権を得た。「シロンスク・ピャスト朝」の始まりである。これによってシロンスク公領は当地のピャスト家が支配したままポーランド王国からは独立した状態となった。グニェズノ大司教をないがしろにしたうえ、シロンスク地方をポーランド王国から独立させたことがポーランド国内で大問題となり、ヴワディスワフ3世は大司教から破門され、神聖ローマ帝国へ亡命してのちにフリードリヒ1世の居城で客死した。シロンスク公国は以後もシロンスク・ピャスト家の者が後を継いでいくことになり、そのうちの一族は17世紀まで続いた(庶子の系統は地方領主として18世紀まで続いた)。以後もクラクフ大公の位は継続したが、その権威は地に墜ち、ポーランド王国は王位を継ぐものがいないまま、各地の領邦にどんどん分裂していった。1226年、ポーランドのコンラト1世 (マゾフシェ公)は隣国の異教徒プルーセン人に対する征討と教化に手を焼いて、クルムラント領有権と引き換えに当時ハンガリーにいたドイツ騎士団を招聘した。1228年、皇帝フリードリヒ2世のリミニの金印勅書により騎士団のプロイセン領有が認められ、1230年、クルシュヴィッツ条約に基づいてコンラート1世は騎士団にクルムラントおよびプロイセンのすべての権利を認め、騎士団はプロイセンの領有権を得た。教皇の名の下、騎士団はプロイセンを東方植民として統治し、近代化、開拓、商業的発展、布教、教育などに従事した。1241年に極東からモンゴル帝国が来襲し、シロンスクに侵攻。教皇グレゴリウス9世はポーランドを救援して異教徒と闘うことを詔書とし、ワールシュタットの戦いにてモンゴル軍を追い返すことに成功した。その後国王による都市化推進が進められ、ユダヤ人も多く流入されていった。ドイツ騎士団主導により近代化として都市建設とドイツ法のマクデブルク法、習慣、制度、文字を導入した(ポーランドのマクテブルク法を用いた法はドイツ法式とは異なり、古代ローマの法を使用し、その土地にドイツ定住者がいない場合はドイツ語記載の法を理解できなかった。ほかの事実としてユダヤ人などもポーランドでマクデブルク法により商業的に有利な優先的条件と権利を保護されていたためにユダヤ人にとって魅力があったため移民した)。彼らは都市を築き、商業や銀行業を始め、彼らのビジネスや文学や進んだ技術や高い能力を認められ大公などの側近を務めポーランド経済の柱となり、ポーランド初のヘブライ語が印刻された硬貨の発行などに携わった)。地域における本格的なドイツの東方殖民(植民と近代化と発展)の始まりである。彼らは特にシロンスクとその周辺に定住し、多くの街を作った。これらの街では従来のポーランドの法律でなくドイツの都市法であるマクデブルク法が使用された。当時の領主たちが西方からの植民者に与えた(商業的)優先条例と権利であった。ヘンリク4世(在位1289年 - 1290年)は、ドイツ系住民の支持を受けクラクフ公になった。東方植民でドイツ人の影響力が強まっていった。クラクフでは住民税と所得税の完全免除を求めるポーランド人住民たちによる暴動が起こることもあった。こういったドイツ人との分離主義的な運動に強く対抗する運動も起き、次の14世紀にはドイツ系と非ドイツ系の2勢力の反目が、ポーランド史の基軸となった。この当時のポーランド人による文書には、「連中(ドイツから来た人々のこと)はグダンスクを(訛って)ダンチヒと呼んでいる」などと書いてある。ドイツ人商工業者たちが統治を行うドイツ人王侯貴族(ドイツ騎士団など)による支配よりも、もともとのポーランドの王侯貴族による支配を選択したからである。のちにポーランドのバルト海側におけるドイツ騎士団の十字軍、そして南部におけるモンゴル襲来後のドイツ入植者の受け入れはこれらの地域の経済や文化の発展をもたらした反面、19世紀から20世紀にかけてのポーランド人とドイツ人との間の激しい民族紛争の遠因ともなった。
 14世紀にはヨーロッパでの反ユダヤ主義を背景にポーランド国内法の宗教的・民族的寛容さから多数の移民が押し寄せた。14世紀当時は、ヴワディスワフ1世の子で、軍事、外交、内政に巧みな手腕を発揮したカジミェシュ3世「大王」がポーランド王国を治めており、彼の治世にポーランドは経済的な大発展をした。1339年、ドイツ騎士団に対し、かつてポーランドの領土であったことを理由に一部の土地の返還を求め抗戦した。ルーシ族(ヴァリャーグ)のハールィチ・ヴォルィーニ大公国(西部ウクライナ)を占領し領土を広めていった。また、のちに反王権的性格を表す重要な意味合いを持つ「ポーランド王国の王冠」という言葉もこのころに土地の主権を主張する時の言葉として出始めた。1355年にはマゾフシェ公ジェモヴィトが大王に対し臣従した。1364年、大王はクラクフ大学(ヤギェウォ大学)を創立し、これ以後ポーランドの学術文化が華麗に開花していく。王朝が変わり、ルートヴィクの時代に入ると王の権威は衰えた。ルートヴィク死去後の二年間の空位や立場の弱い女王がこれを更に加速させる。1385年、ポーランド女王ヤドヴィガとリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド語名ヤギェウォ)が聖職者とバロン、シュラフタなどの意志のもと結婚し、ポーランド王国とリトアニア大公国は人的同君連合をした。ポーランド=リトアニア連合を形成した(クレヴォの合同)。1399年にヤドヴィガ女王が没するとヤギェウォがポーランド王に即位し、以後ポーランド、リトアニア、ボヘミア王国およびハンガリー王国の王朝であるヤギェウォ朝がポーランドを統治することになった。1410年、ポーランド=リトアニア連合はグルンヴァルトの戦いでドイツ騎士団を討った。1414年、コンスタンツ公会議ではグルンヴァルトの戦いの戦後処理について話し合われ、会議では当時異教徒の国であったリトアニアとキリスト教徒の国であるポーランド王国が同盟して、キリスト教徒のドイツ騎士団と戦争をした点が大問題となり、これについてポーランドに対してドイツ騎士団側からの激しい非難があった。ドイツ騎士団は「異教徒と同盟してキリスト教徒のドイツ騎士団を討伐したポーランドの行動は罪であり、この罪によって、ポーランド人は地上から絶滅されるべきである」と主張した。ポーランド全権でクラクフ大学校長であったパヴェウ・ヴウォトコヴィツ(ラテン語名:パウルス・ウラディミリ)は「リトアニア人のような異教徒であっても我々キリスト教徒とまったく同じ人間である。したがって彼らは自らの政府を持つ権利(国家主権)、平和に暮らす権利(生存権)、自らの財産に対する権利(財産権)を生まれながらに保有する。よってリトアニア人がこの権利を行使し、自衛するの(自衛権)はまったく正当である」と述べた。教皇マルティヌス5世は異教徒の人権についての決定はしなかった。1430年にリトアニア大公のヴィータウタス(ポーランド語名:ヴィトルト)が没すると、ポーランド=リトアニア連合内はよりポーランド王の権威と権限を強め、事実上ポーランド王国の支配下に入り、すべてのリトアニア貴族はポーランド語とポーランドの習慣を身につけてポーランド化していった。ただし宗教や宗派については、ある場所ではローマ・カトリック、ある場所ではプロテスタント、ある場所では正教会、ある場所(リプカ・タタール人の共同体)ではイスラム教、といった具合にそれぞれの地方共同体の伝統的な宗教や宗派を守っていることが多かったとされる。そしてそのままの勢いで1569年にポーランド・リトアニア共和国を建国した。ジグムント2世アウグストの死後、ポーランド=リトアニア連合王国はすべてのシュラフタ(ポーランド貴族)が参加する選挙(国王自由選挙)によって国王を決定する「選挙王政」をとる貴族共和国になった。ポーランド貴族の人数は常に人口の1割を超えており、そのすべてに平等に選挙権が付与されていた。当時のポーランド=リトアニア連合王国ではのちのアメリカ合衆国に比べ選挙権を持つ国民の割合が大きかったことになる。1573年、すべてのシュラフタが1人1票を持つというかなり民主的な原則で行われることになったポーランドの国王自由選挙で選ばれた最初のポーランド国王はフランス王アンリ2世とイタリア人の王妃カトリーヌ・ド・メディシスの息子であるフランス人ヘンリク・ヴァレジ(アンリ、のちのフランス王アンリ3世)であった。しかし国王戴冠の条件として署名を余儀なくされた「ヘンリク条項」によりポーランドで事実上の立憲君主制(シュラフタ層の大幅な権力拡大および王権の大幅な制限)が成立したため、バイセクシュアルであった自身の性指向がポーランドでは以前からずっと白い目で見られていたことや、ジグムント2世アウグストの妹ですでに年老いていたアンナを女王でなく国王とした政略結婚が求められたこともあり、ポーランドでの生活を窮屈と感じ嫌気が差したヘンリクは1574年6月18日、突然フランスへと逐電してしまう。
 ドイツ騎士団と苦戦が続き、トルコ人のオスマン帝国とクリミア・タタール人のクリミア・ハン国と領土をめぐり何世紀にもわたり抗戦となり、そしてモスクワ大公国と何度も対戦するリトアニアを援護した。当時ヨーロッパにおいて大きな国家のひとつであったリトアニア大公国は、自国を防衛する必要に迫られた。この時期の戦争と外交政策は大規模な領土拡張を生むことはなかったが、国家を深刻な戦乱に巻き込まなかった。国は封建制となり農業国として発展した。1533年にオスマン帝国との「恒久平和」で侵略の脅威を免れることができた。この時期にシュラフタが発展した。1592年、ポーランド=リトアニア共和国はスウェーデン王国と同君連合となった。時の国王ジグムント3世(スウェーデン国王としての名はジギスムント)はスウェーデン生まれであるが、母がヤギェウォ家のポーランド人だったこともあって若いときからポーランドに住み、ポーランドの教育を受けていた。彼は、軍隊のような高い規律意識を持つ組織行動によって全世界における対抗宗教改革の尖峰となっていたイエズス会によって教育され、歴代の王のうちでもっとも熱狂的なローマ・カトリックの闘士となった。戴冠した当初は当時の首都であったクラクフに居を構えていたが、1596年には将来のスカンジナヴィア諸国、バルト海沿岸地域、ルーシ諸国といったヨーロッパ北方全域のカトリック化を念頭に置いた最前線基地としてワルシャワに遷都した。以後、現在までワルシャワがポーランドの首都となる。彼は常にイエズス会の代表者的な立場にあった。彼が同時に王位に就いていたスウェーデンでは、彼の留守中に叔父で摂政を務めていたプロテスタント教徒のカールの反乱が起き、ジグムント3世は反乱鎮圧とスウェーデンのカトリック化を目指してスウェーデンに軍を進めたが鎮圧に失敗、1599年にスウェーデン王位をカールに簒奪され、ポーランド=スウェーデン同君連合は解消した。1611年、ジグムント3世はモスクワ大公国の自由主義的な大公国貴族(ボヤーレ)たちの求めに応じて東方へと侵攻し、モスクワ市を占領した(ロシア・ポーランド戦争)。ジグムント3世が占領中に「ロシア皇帝位にはカトリック教徒のポーランド国王あるいはその王太子のみが就く」という布告を出したことから、正教徒であるロシア人との間で宗教的対立を生じ、ロシア保守主義者が一般市民を巻き込んで住民蜂起を起こした。モスクワ市内の占領軍は孤立し、籠城の末に玉砕し大公国にいた残りのポーランド軍は1612年までに撤退した。度重なる戦争(ポーランド・スウェーデン戦争、大洪水時代)によりポーランド=リトアニア連合王国の政府財政は急速に悪化していった。1683年にオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を撃退し、全ヨーロッパの英雄となったヤン3世ソビエスキ王は以後、行き過ぎた地方分権による無政府状態化の阻止を目指し、中央政府の権力を強めるため世襲王政の実現と、王およびセイム(国会)のそれぞれの権限の明確化による立憲君主制の確立を画策するなど王国再興を目指して奔走したが、志半ばで没した。その後、王国の中央政府の権限は急速に弱まり、国庫は逼迫し、国力は衰退していった。18世紀後半になるとオーストリア・ロシア帝国・プロイセンの国力がポーランド・リトアニア連合王国を追い抜き、三ヶ国によって分割されることとなった。ナポレオン戦争により束の間でワルシャワ大公国という国が出来上がるもウィーン会議にて元の領土に戻ってしまう。123年間にわたり分割状態だったが、第一次世界大戦後にポーランド第二共和国として独立。1920年にはソビエト連邦に対する干渉戦争の一環としてソビエトへ侵攻し、ポーランド・ソビエト戦争が発生した。緒戦には欧米、とりわけフランスからの援助を受け、ウクライナのキエフ近郊まで迫ったが、トゥハチェフスキー率いる赤軍が猛反撃を開始し、逆にワルシャワ近郊まで攻め込まれた。しかし、ピウスツキ将軍のとった思い切った機動作戦が成功してポーランド軍が赤軍の背後に回ると、ワルシャワ近郊のソ連の大軍は逆にポーランド軍に包囲殲滅されかねない状態となった。これにたじろいだトゥハチェフスキーは全軍に撤退を指示。結果的にポーランド軍は赤軍を押し返すことに成功し、「ヴィスワ川の奇跡」と呼ばれた。この戦争は翌年に停戦した。この戦いでソ連各地にいたポーランド人が迫害の危機に陥り、子どもたちだけは母国へ戻したいとウラジオストクのポーランド人により「ポーランド救済委員会」が設立された。1919年にポーランドと国交を結んだばかりだった日本は、人道的な見地から救済に乗り出した。同時期に、シベリアやソ連にいたユダヤ系ポーランド人により「ユダヤ人児童・孤児の救済」は全世界に向けて救援援護を発信していた。ソ連の占領下では、100万人以上がシベリアや中央アジアに強制移住させられた。1922年に国家元首職を引退したピウスツキは、その後の政界の腐敗を憂い、1926年にクーデターを起こして政権を奪取した。ピウスツキはポーランド国民の圧倒的支持のもと、開発独裁を主導した。この時期にポーランドの経済は急速に発展し、国力が強化された。国民のカリスマであったピウスツキが1935年に死亡すると、ユゼフ・ベックを中心としたピウスツキの部下たちが集団指導体制で政権を運営したが、内政・外交で失敗を繰り返し、その点をナチス・ドイツとソビエト連邦につけ込まれるようになった
 第二次世界大戦末期、ポーランド亡命政府はロンドンを拠点としていたもののスターリングラードの戦い敗戦以降ドイツの劣勢情勢を見て、反独レジスタンスによるワルシャワ蜂起が発生。しかし蜂起は失敗に終わり、終戦後ソ連によるポーランド人民共和国として東側陣営の中で団結することとなった。崩壊後に現在のポーランド共和国となった。

ポーランドが分割された理由

 ポーランド・リトアニア連合王国の政治体制は、法と貴族階級(シュラフタ)によって支配される立法府(セイム)が王権を著しく制限するという特異な性質を備えていたため、しばしば貴族共和国ないし黄金の自由とも呼ばれる。この政治システムは、現代的な概念を当てはめれば民主制、立憲君主制、連邦制の先駆と言える。二つの構成国は公的には平等な関係にあったが、実際にはポーランドがリトアニアの支配国であった。しかし、これについてはポーランド民族がリトアニア民族を支配したというような現代的な民族主義の解釈をするべきではなく、多民族のポーランド王国の立法・行政・司法の決定事項が同じく多民族のリトアニア共和国のそれらに対して優位であり、万が一両者の決定が対立した時にはポーランド王国の決定が優先された、という制度的な意味である。ポーランド国王がリトアニア大公を兼位しており、共和国は両国を中心にコモンウェルスの体制を形成していた。共和国の人口構成は民族的、宗教的な多様性がきわめて顕著であり、時期によって程度の差はあるものの、同時代にあって異例といえる宗教的寛容が実現していた。しかし1700年の大北方時代を始めとする大規模な戦争の時代に入ると長らくの戦争で不安定になり、国内では貴族が議会で自由拒否権を行使した権力争いに終始し、また国王の選出をめぐっては、長らく戦争や動乱の続いていた周辺のロシア、プロイセン、オーストリア、フランスなどの有力国が介入した。特にエカチェリーナ2世はポーランドの領土に進出をしたかった。この様子を見たフリードリヒ2世はオーストリア、ロシアと共にポーランドを分割した。ポーランドも長らくの戦争で国力・軍事力・経済力が衰退していたため抵抗することができなかった
 一方、第一次世界大戦後のポーランドは、ドイツとの間で自由都市ダンツィヒとポーランド回廊をめぐる領土問題が発生していた。またドイツは再軍備宣言、ソ連は五カ年計画で軍備を増強しているのに対し、ポーランドは軍備強化を行っていなかった。軍事的・経済的・政治的にも劣っていたポーランドはまたもや対抗することもできずに分割されてしまったのである。
 ではこの一連の動きで、ポーランドはどうすれば分割されなかったのかを考察して動きを概観していく。

第一次ポーランド分割を回避した世界線

プロイセンとの関係を強化した世界

 回避できる鍵となった出来事にはオーストリア継承戦争、七年戦争がある。そこでプロイセン側への支援を行えば、ロシアやオーストリアとの関係悪化は起こっても、プロイセンの勝利は決定的なものになるため、三ヶ国による分割は起こらない可能性が高い。また史実どおりであれば、この後にナポレオンが台頭してくることになるため、フランス市民革命の間に軍備を拡張し、オーストリアやロシアと同盟を組んでフランスに対抗すれば、第一次世界大戦前までは分割されずに済むだろう。しかし、第一次世界大戦は帝国主義という考え方が始まっているため、ロシアやプロイセンによる分割が起こる可能性がある。ここでゲルマン主義に傾くか、スラヴ主義に傾くかによってもポーランドの流れは変わるかもしれない。

ポーランドが両国に劣ることのない軍事力がある世界

 ポーランドが分割された要因には国力・軍事力などの低下による内政干渉が原因であると解いた。ならば大北方戦争で中立の立場を唱えて、軍備を拡張し、国力を再び高めることはできるはずだ。また英国とも外交を展開すればまた流れは変わっていくのかもしれない。

ポーランド侵攻を回避した世界

東欧との同盟を結ぶ

 ポーランドが主体となってチェコスロバキアやハンガリー、オーストリアなどのナチス・ドイツに対抗する包囲網を形成すれば、それだけでナチス・ドイツに対して立ち向かえる可能性が高い。特にチェコスロバキアの工業力はこの頃に高くなっており、ナチス・ドイツの軍事力の大半はズデーテン併合後からも躍進したと言われている。ミュンヘン会談では、英仏ともにドイツに対して慎重な立場を取っていた。ここでポーランドがチェコスロバキアと結んで英仏に対してドイツの危険性を告白すれば、その時点で連合国となって立ち向かうことができる可能性がある。しかしソ連への干渉があれば、東欧諸国はソ連に併合されてしまう恐れもあるため、先に不可侵条約を結ぶなどソ連との外交にも注目する必要があるだろう。

おわりに

 ポーランドが分割されるタイミングはいずれもポーランドの国力の低下やドイツ・ロシアの国力増加により発生したものと考えられる。ポーランドは歴史的に西欧との結びつきが大きいため、イギリスとの結託が出来れば、それだけで立ち向かえる可能性はある。しかし冷戦期においてソ連の勢力下に置かれ東欧という括りになったのもあって、ポーランドを中欧とくくるか東欧とくくるかは歴史的にもややこしい。ここでどちらかの陣営に所属すれば分割の流れを変えたり、または分割を起こさなくなるだろうと推測できる。


いいなと思ったら応援しよう!