汎スラヴ主義はなぜ生まれたのだろうか?
はじめに
欧州には南欧のラテン系の民族、北欧・中欧のゲルマン系の民族、東欧のスラヴ系の民族と大きく分けられる。歴史時代の中で最初に起こった世界大戦は、これを背景としたヨーロッパの分極化が崩壊したことが一つに挙げられる。最初の分極化が始まったのは395年のローマ帝国の東西分裂からのことである。その頃にキリスト教の宗派が公会議によっていくつか分かれるようになっていったが、東欧では、451年のカルケドン公会議にて異端とされた単性論者が多数派として残ったため、正教会が成立していった。そのため1054年にカトリックと正教会は相互に破門し、西欧と東欧という分極化が始まった。また、南方からのイスラームの進撃や、東方からのモンゴル帝国の進撃に飲み込まれたため東欧は長い間他国への支配を受けており、19世紀に独立運動が活発化していった。当時セルビアや、ギリシャ、ロシアが持っていた野心。それが汎スラヴ主義である。
さて、汎スラヴ主義については汎ゲルマン主義と比べると歴史的に残された記述は少ない。歴史の教科書に特に記載されている事項は近代のバルカン半島情勢からの情報であるが、実は冷戦期にもその残滓は残されている。今回は汎スラヴ主義の始まった起源と、その経過についてを考察していこうと思う。
スラヴ民族の歴史
欧州にスラヴ民族が移動してきたのは、6世紀のことである。先史時代、スラヴ民族はスキタイという遊牧民の中で活動していた。やがてシベリアが寒冷化すると、移動が活発化するようになった。その中でスラヴ民族は7世紀にかけてバルカン半島にも移動していき、東スラヴ人(ロシア、ウクライナ、ベラルーシ)と西スラヴ人(ポーランド、チェコ、スロヴァキア)、南スラヴ人(クロアチア、ブルガリア、セルビア)などに分極化されていった。その中で西スラヴ人は、神聖ローマ帝国を始めとするゲルマン民族の国の影響を受け、カトリックを信仰するようになるのに対し、東スラヴ人はノルマン人との民族交流を経て、ノヴゴロド国や、キエフ・ルーシという国を建国し、ビザンツ帝国のギリシャ正教会の影響を受けて以後発展していくようになる。7世紀には、ブルガール人がキエフ・ルーシの対立を行いつつも移動をし、ブルガリア王国を建国することに成功した。9世紀に入るとウラル山脈中南部からマジャール人が移動し、ハンガリー王国を建国した。
しかしスラヴ民族は南からのオスマン帝国の襲来、東からのモンゴル帝国(キプチャク・ハン国)の襲来から異民族統治が行われ、独自の国家を持つことは長い間叶わなかった。一方西スラヴ人は、キリスト教を受容し、960年頃にポーランドという国を建国。神聖ローマ帝国とともにモンゴル帝国を追い払うことに成功し、神聖ローマ帝国の東方遠征により北にドイツ騎士団国が建国するも、どんどんその力は強大化していった。近世になると東スラヴ民族も、侵略を免れたノヴゴロド公のアレクサンドル・ネフスキーを中心に、ウラジーミルから反乱を起こしてタタールの軛から脱し、モスクワ大公国及びロシア・ツァーリ国を建国することに成功し、イヴァン4世(雷帝)はコサック隊を集め、東方への版図拡大を目論むようになり、イェルマークを中心にシベリアへと進出するようになっていった。やがて、ポーランドや北欧との戦争にも勝利し、ロシア帝国を建国し、世界第二位の帝国として君臨することに成功した。
汎スラヴ主義の台頭
一方で、南スラヴ・西スラヴ民族は各地で独立運動を掲げ始めた。
汎スラヴ主義の先駆けは当時のハンガリー北部のスラブ人の多い地域であったスロヴァキアにおけるパヴェル・ヨゼフ・シャファーリク(1795-1861)やヤーン・コラール(1793-1852)の運動であった。彼らは「汎スラヴ主義の父」とも呼ばれる。しかしながらスロバキアで汎スラヴ主義が発展することはなかった。これはスロバキアでの汎スラヴ主義が、文化においても人口規模においても優位に立つ西の隣国、チェコおよびチェコ人への同化に繋がりかねない(チェコスロヴァキア主義)という懸念があったことが原因である。ハプスブルク帝国内の南スラヴ人における汎スラヴ主義は、1830年代のクロアチアからイリュリア運動から始まった。南スラヴ人の言語(文化)の統一、および政治的統一をも目指す思想である。背景としては、前述したスロヴァキアにおける反乱運動が原因だった。なお、イリュリアの人々は南スラヴ人とは関係がなかった。このためイリュリア運動自体は、1840年代後半に下火となるが、その後のユーゴスラビア建国へと引き継がれた。
1848年革命の中でオーストリアやオスマン帝国からの独立を掲げ、6月にプラハにて第一回汎スラヴ会議が行われた。この会議は主にフランクフルト国民議会の参加を拒否したチェコ人により構成され、反オーストリア・反ロシアの強いものだった。この会議で青・白・赤の三色旗を汎スラヴの色として汎スラヴ主義が結成された。しかし、影響力を発揮することなく終幕した。なおポーランドは当時ロシア帝国統治下で国民国家を有しておらず、旧ポーランド・リトアニア共和国の多民族主義(多文化主義)を是とする思想もあり、会議には参加しなかった。
19世紀半ば頃、露土戦争に伴い南スラヴ民族の国(セルビア・ブルガリア・ギリシャ・モンテネグロなど)は完全な独立を果たし、対オスマン帝国の同盟であるバルカン同盟を結成し、第一次バルカン戦争を起こした。勝利後、講和会議での獲得領土で争いが生じ、第二次バルカン戦争が起きた。これをきっかけに汎スラヴ主義陣営はブルガリアに対して失望した一方、この動きを見たロシア帝国は、汎スラヴ主義を唱えるようになり、ビスマルクの提唱した三帝同盟を脱退し、バルカン半島においてギリシア正教会の信仰を同じくするスラヴ諸民族の連帯としてバルカン同盟に参加した。それと同時にロシア帝国はフランス・英国といった国と三国協商を結ぶに至った。
汎スラヴ主義から見た第一次世界大戦
汎スラヴ主義の影響を如実に受けたセルビア国内では、1872年頃に大セルビア主義という言葉が社会主義者スヴェトザル・マルコヴィッチにより使用されたが、この言葉はセルビアの領土拡大と周辺民族の衝突から生じるセルビアの野蛮さに対して使う批判用語であった。しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナ出身のセルビア人の知識人イェフト・デディイェルは、セルビアと、セルビアに隣接し類縁関係にあるスラヴ人国家であるモンテネグロが、統一されたセルビア国家の核となり(その領域はユーゴスラビアよりも広い)、そしてそれはデディイェルの意見によれば、全てのセルビア人の統合とともに、スラヴ民族的、あるいは宗教的背景を同じくする他の民族をも統一する核となる大セルビア主義を考えた。ここに至るまで、この概念の立場は学術的な議論の枠を出ることはなかった。そしてセルビアのクーデターを目論む者や大セルビア主義者を中心に1911年にセルビアで秘密組織である「黒手組(ツルナ・ルカ)」を結成した。この組織は1913年のバルカン戦争や翌年のフェルディナンド夫婦の暗殺が起きたサラエボ事件に関与することとなった。セルビア政府はセルビア裁判では黒手組に対して懲役を下したものの、オーストリアに対しては「この問題はセルビア政府とは無関係であり、これまでの所いかなる措置も実施されていない」と回答したため、オーストリア側はこれに対して最後通牒を突きつけ、これを拒否したことからオーストリアはセルビアに宣戦布告。この動きを見たロシア帝国も、ドイツやオーストリアに宣戦布告、ドイツは領土拡大のためフランス・ロシアの二方面に宣戦布告し、人類史初の世界大戦となる第一次世界大戦が開戦することとなった。
オーストリアに対しセルビアは防戦一方で、ある程度の成果を収めたが、さらなるドイツやブルガリアの進撃で押され、アルバニア・モンテネグロの山間部に張っていた戦線を放棄せざるをえなくなった。8月16日、セルビアは戦後のボスニア・ヘルツェゴビナ、東スラボニア、ダルマチアなどの取得を協商国と約した。コルフで軍勢を回復し、セルビアはテッサロニキでの対ブルガリア戦線に兵力を移動。協商国(英仏日)はもちろんのこと、領土問題に対して争っていたイタリアも英国の仲介で参戦し、後にアメリカ合衆国の参戦から支援を受けるようになった。セルビア軍の犠牲者は126万4,000人に上った。当時のセルビア王国の人口は約450万人で、この戦争により全人口の28%、男子人口の58%をも失ったが、セルビアが奮闘した結果協商国を勝利に導き、戦後はヴェルサイユ体制ができあがっていくことになり、1918年11月29日のモンテネグロ国民議会にてユーゴスラビア王国の建国を正式に決定した。
しかしロシア帝国では、ブルシーロフ攻勢ではオーストリア軍に対して優勢であったものの、軍の近代化の面で一歩先を行くドイツ軍に対し、タンネンベルクの戦いなどを筆頭に次第に圧迫されていった。そんな中で戦争による経済疲弊も大きくなっていき、1917年の3月8日、ペトログラードにて二月革命が発生した。この市民革命によりニコライ2世は退位に追い込まれ、ロマノフ朝が幕を閉じることになり、アレクサンドル・ケレンスキーによるロシア臨時政府が成立し、ロシアはボリシェヴィキと共に並ぶ二重統治となったものの、ウラジーミル・レーニンは「ソビエト権力の樹立」を目標とする「四月テーゼ」を発表した。そしてラーヴル・コルニーロフ将軍が反乱を起こしたことで、メンシェヴィキの求心力が低下し、ボリシェヴィキが勢力拡大し、これを恐れた臨時政府はボリシェヴィキと対立することを決意した(ロシア内戦)。英国・フランス・日本・ポーランドは革命の波が広がることを恐れ、極東・シベリアから中心に臨時政府軍を支持することとなった。相次ぐ革命への干渉に対し、ボリシェヴィキも外交攻勢をかけ、1919年3月には第三インターナショナル(コミンテルン)を結成して各国の共産党を糾合した。結果的にこの内戦はボリシェヴィキ側が勝利をあげ、1917年11月7日、十月革命を成功することとなり、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦が建国し、世界初の社会主義国家が誕生した。なお、中央同盟国とは十月革命成立後、同年の和平交渉により停戦することとなった。
汎スラヴ主義の残滓
汎スラヴ主義の運動はその後も絶えずに続いていった。第一次世界大戦中、チェコとスロバキアでは、チェコスロヴァキア軍団を結成して東部戦線で連合国側に立って戦った(ロシア革命後その去就が問題となり干渉戦争、シベリア出兵の要因となる)。
1918年にオーストリアが崩壊すると、チェコスロヴァキアの建国が実現した。しかしミュンヘン会談によりナチス・ドイツに併合された。同じくポーランドも独ソ不可侵条約により両国に併合されるものの、独ソ戦以降ロンドンやポーランド国内の反独・反ソレジスタンス運動が過激化していき、ポーランドで蜂起した。その後ポーランドは冷戦陣営にてソ連や東ドイツと共に東側に属することとなった。またその一方で冷戦終結後1993年、東欧民主化の結果としてチェコとスロバキアの連邦解体が決定した。
またユーゴスラビアは第二次世界大戦時、枢軸国に加盟したが、クーデターにより脱退し中立国となった。これを許さなかったナチス・ドイツが侵攻し(ユーゴスラビア侵攻)、クロアチア独立国、セルビア救国政府等々に分割・占領された。結局、枢軸国軍はパルチザンによって1945年には駆逐され、パルチザンの主導による共産主義のユーゴスラビア社会主義連邦共和国が建国された。しかし、1991年にスロベニアとクロアチアの独立宣言により内戦に陥り(ユーゴスラビア紛争)、2006年に全ての構成共和国が独立して消滅することとなった。
またソ連崩壊後のウクライナでは西側のNATOと東側のロシアの勢力が二分され、ウクライナはNATO側に接近。これを許さなかったロシアは「ウクライナ人とロシア人は単一民族だ」としてウクライナに対して侵攻を行った。この考えは汎スラブ主義が東スラブ世界において形を変えて出てきたものと推測される。
おわりに
このように現在でも絶えずに汎スラヴ主義による争いは発生している。汎スラヴ主義というのも国によって異なり、ポーランドによる汎スラヴ主義もあれば、ロシアによる汎スラヴ主義、ユーゴスラビア圏による汎スラヴ主義など色々なものがある。共通してるものは他の人種に対する対抗の念から生まれたものである。この考え方は現在においては消えつつあるもののロシア・ウクライナ戦争のように形を変える可能性がある。しかし冷戦期のソビエト連邦構成国はペレストロイカに至るまで国内による民族のアイデンティティは安定したものになっていた。つまり、この思想を安定化させるには「民族・国家間の歴史的対立の和解・促進」と「歴史的に中立な外交政策の採用」が必要なのではないかと考える。