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教師吉田松陰の苦悩

 吉田松陰といえば、「松下村塾」ですね。
 ところが、吉田松陰の「松下村塾」の期間は晩年で短いのがよく知られています。
 その前の「藩校明倫館」時代は、教授見習いになった9歳の頃から23歳で脱藩するまです。この期間が「藩校明倫館」の大学の教授の時期です。
 ずっと長いわけですが、実態はあまり知られていないのではないでしょうか。
 この「藩校明倫館」時代の実績を分析してみましょう。
 教師吉田松陰が非常に苦しんでいたのではないかということが想像できます。 

1 生徒の出席は自由


 「藩校明倫館」は現代ほどの義務教育ではありません。生徒の出席は自由です。人気がないと生徒は来ません。
 4人の兵学師範の中では、吉田松陰は常に生徒の出席は最下位といってよい状態です。

2 出席人数


 19歳頃の記録までは、ほとんど、5人以下です。
 10代の頃の出席者の中には、家族や親類、先生など、生徒というより支援者も出席しています。
 22歳頃の記録には、20人前後になりましたが、他の先生はもっと多くて、中には50人前後の先生もいます。

3 人気のなかった原因


 ① 生徒は思春期です。
 反抗期でもあります。プライドも強い時期です。
 こんな時期に、年下か同じ程度の年齢の先生に、教わりたいでしょうか。
 ② 藩校の教室
 これこそ推測ですが、教室形態の一方的な授業が、若すぎる吉田松陰にとって、授業しづらかったのではないかと思います。
 権威がなく、貫禄はなかったでしょうから、生徒もついていけてなかったのかもしれません。
 ③ 生徒の経験なし
 吉田松陰自体が、叔父である玉木文之進にスパルタ教育を受けて、兵学を学んだ人です。
 藩校の生徒経験はありません。
 今でも時々、天才的な生徒が、幼いうちに飛び級で大学を卒業するのが話題となります。
 吉田松陰は飛び級でなく、いきなり大学の教授です。
 本人の才能もあるでしょうが、兵学の吉田家の跡継ぎとなって、藩校の教授を引き継いだのですから、本人にとっても「藩校明倫館」は初めてなわけです。
 生徒を経験せずに、いきなり先生というのは、想像以上に苦しかったことでしょう。
 ④ お手本の先生はいたか
 おそらく、いなかったのではないでしょうか。
 叔父の玉木文之進は、体罰型の教育方法をとっていました。「藩校明倫館」の先生方は、皆、大人です。吉田松陰との個性も違うことでしょう。
 吉田松陰にとって、すぐにマネできるような先生は、いなかったのではないでしょうか。

4 明倫館の経験は松下村塾に生かされたか


 結論として、松下村塾の授業形態は、「藩校明倫館」を反面教師として、異なる形態をとったのではないでしょうか。
 松下村塾の特徴を、大まかに列挙します。
① 狭い部屋
② 少人数制
③ 講義というより、生徒個人に合わせたマンツーマン教育
④ 上から教えるというより、生徒目線でいっしょに学ぼうという姿勢
⑤ 身分にこだわらない
⑥ 生徒の意思を尊重
⑦ 古い学問だけでなく、時代の先端の情報を学ぶ
⑧ 教師自身が知識だけでなく江戸で体験した生の情報を提供
⑨ 一緒に学校を造る。
⑩ 学んだことを行動へ
 などです。
 しかも、生徒は自身の意思で、私塾に学びたくて来ています。
 これらの有名な特徴は、「藩校明倫館」の逆ではないかと思います。

5 明倫館時代の苦悩


おそらく「藩校明倫館」時代は、吉田松陰は授業の前日は眠れなかっこともあるでしょう。明日生徒が来てくれるのか、不安で仕方がなかったのではないでしょうか。
 授業当日も、誰もいないか、一人二人しか生徒がいなかったら、どんな思いで教場に座っていたことでしょう。
 教師としての藩校時代の心情は、自分の調べた限りでは、よくわかりませんでした。
 ただ、出席者といったデータから、人間的な苦悩を推測した次第です。
 現代の塾、予備校、教育関係者には、実感できる部分ではないでしょうか。


 
 

 

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火山竜一  ( ひやま りゅういち )
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