桂小五郎青雲伝 ―炊煙と楠― 第九章 額の傷は、名誉の傷か
火山 竜一
第九章 額の傷は、名誉の傷か
小五郎が十二歳になり、涼しくなり始めた秋のことであった。
小五郎は仲間達と海や川で遊ぶだけでは、物足りなくなってきた。
もっと面白いことはないか。
もう普通の遊びでは、満足できない。
――そうだ、大人たちをからかってやろう。大きな玩具だ。
小五郎は仲間たちを誘った。
皆怖がって、小五郎には誰もついてこない。
小五郎は、かえって一人のほうが大胆なことが出来ると、単独で漁師や船頭に様々な仕掛けをすることにした。
漁師が干したケンサキイカをまとめて盗んでは、松の木の天辺に吊るした。大人の体格では登れないところにぶら下げた。
漁師たちが見上げているのを、小五郎は茂みの奥から笑いを堪えて覗いていた。
魚網に穴を空けたこともあった。
これはだいぶ怒らせてしまった。
犯人は誰かと、漁師たちの警戒は強まった。見張りをつけたり、定期的に見回りをしたりしている。
犯人捜しを始めている。
小五郎は危ないと思って、今度は松本川の渡し舟を狙うようになった。
船着き場から艫(とも)綱(づな)を解いて渡し舟を放つ。
櫂(かい)を外しては、川面に流したりした。
小五郎は川に潜んで、船頭を待つ。船頭が船着き場から舟に乗ろうとする。船頭が片足を船に下ろして、またいだところで、そっと船体を船着き場から離す。
船頭は股裂きになった。
叫びながら、空を掴むように手を大きく振って、川に落っこちた。
派手な水飛沫が上がる。
小五郎は哄笑すると、すぐにまた川に潜る。
こんなことを繰り返しているうちに、船頭たちも用心深くなった。
船頭は船着き場で、周りを見回してから、竿で川底を探っては船に乗るようになった。
このころになると、どういうわけか、一人の大柄で屈強な、頬が赤らみ丸々とした男がよく悪戯に引っかかった。
この大柄な男は、何度も川に落ちた。
顔だけは童子のようで、いかにも人がよさそうだった。
川に落ちるだけでなく、船に乗った後も、小五郎が舟を揺するだけで舟の底にひっくり返った。
櫂や竿を流してしまったときは、大きな声を上げて泣いたこともあった。
妙なことだが、この船頭は小五郎の同じ策によく引っかかった。
――間抜けな船頭め。いい、かもだ。
小五郎は体のでかい船頭をすっかりなめていた。
小五郎はこの船頭一人に的を絞った。
川の流れが穏やかな良く晴れた日、その船頭が櫂を川に下ろすと、川の中で小五郎が櫂にしがみついた。
川と船との間で、櫂の引っ張り合いが始まった。
小五郎のからかう声が、川面に弾(はず)んだ。
いつもなら、これで船頭は水面に転げ落ちるはずだった。
ところが、どうしたことか今日はびくともしない。
無表情な船頭の顔が、怒りのために鬼のように赤くなった。
船頭は左手一本で小五郎と引き合いながら、右手で船底からもう一本の櫂を軽々と引っ張り出した。
船頭は櫂を頭上高く振り上げた。
大空に突き上げた櫂を、小五郎は目を吊り上げて見上げた。
櫂は小五郎の脳天に打ち下ろされた。
小五郎は川に下ろした櫂を引き合っているため、振り下ろす櫂をかわせない。
小五郎は一瞬首を縮めたが間に合わなかった。
鈍い音ともに、激しい痛みが走った。
目の前に火花が散った。
小五郎は一瞬気を失い、川底に沈んだ。
やっと本能だけで、離れた水面に浮き上がった。
船頭が仁王立ちになって、小五郎を見下ろしている。
小五郎はようやく気が付いた。
―― 俺の方がだまされたんだ。
ようやく合点がいった。
この船頭は、今までは、わざと小五郎の悪戯にひっかかったのだ。
小五郎の関心を、この船頭一身に向けさせる。船頭は小五郎の油断を誘い、反撃の機会を伺っていたというわけだ。
小五郎は水面から顔を出して、船頭に不敵にも、にやりと笑った。
髪が顔にべったりと張り付いている。
小五郎は河童のような顔になった。
「今度は、だまされねえぞ。十倍にして、返してやる」
小五郎は強がってはいたが、気力はすっかり萎(な)えていた。
小五郎は船頭に背を向けると岸に向かう。
後ろで船頭の声が聞こえた。
「おう、何度でも相手をしてやる。今度は止めを刺してやる。命がいらねえなら、かかってきな。次は手加減しねえぞ」
船頭は小五郎を見下ろした。
「こっちは、生活がかかってるんだ。女房も子供もいるんだよ」
小五郎には振り返る元気はなかった。
茂みに入ると、隠していた単衣を引き出して羽織った。
額から顎に滴る血は、止まらない。
小五郎の単衣は、胸元から真っ赤に染まっていく。
帰り道、小五郎は、ふらつきながら裏の水路に沿って歩いた。
ぴしょ濡れの単衣は、半分は真っ赤になった。
右手で額を押さえる。
血の雫が指の間から滴り落ちる。
意識が時として遠くなり、激痛はひどくなる一方だった。
この姿では目立ちすぎる。たぶん表通りに出れば、大騒ぎになるであろう。
遠回りに菊ケ浜の松林を行くと仲間たちに見つかる。ほれみたことかと笑われて、指をさしてからかわれるだけだ。
水路に沿って畑や家の裏を行けば、萩を横断して家の近くにいける。
――和田家に帰れば、父上から怒鳴られる。桂家に帰っても、弥之助が父上と文譲兄を呼ぶにきまっている。
小五郎の頭は目まぐるしく回転する。
――なんとか友藏を呼び出して、兄上だけ外に連れてきてもらおう。転んだことにすればいい。円政寺の境内で、兄上に包帯を巻いてもらって、夜にそっとどっちかの家に戻ろう。
小五郎は怪我を軽く考えていた。
江戸屋横丁に入った時、予期せぬ事態が起こった。
佐伯家の門前を掃除していた奉公人と、目が合ってしまった。
――なんで、こんなとこに、いるんだよう。
奉公人は。目を丸くして、箒(ほうき)を放り出して叫んだ。
「だ、旦那様あ、大変です。えらいことになりましたあ」
佐伯丹下が、「なんだ、なんだ」と門から走り出てきた。
小五郎に気がついて駆け寄った。
「小五郎、どうした。……血だらけではなか」
小五郎は佐伯に捕まってしまった。
「ちょっと、転んだだけだよお」
佐伯は小五郎の胸ぐらをつかんだ。
小五郎の足が、宙に浮いた。
「嘘だ。はっきりいえ。誰にやられた」
佐伯は首を右に左に傾けて、小五郎の額の傷口を調べ始めた。
小五郎は必死にもがいた。
「岩場で足を滑らせただけだい。こんなの痛くねえや。かすっただけだよ」「嘘だ。白状せよ。ははあ、わかった。漁師か船頭に、やられたのであろう」
小五郎は驚いた。
「違う、違う。尖った岩に当たったんだい」
「傷口がきれいに縦に割れている。木刀を打ち込まれたようだ。傷は正直だな。そうか、櫓(ろ)か櫂(かい)だろ。わかった、櫂で叩かれたんじゃ」
佐伯の声は自信たっぷりであった。
「お前は、漁師や船頭に悪さをしているであろう。わしのところに、それとなく訴える者がいた。一人や二人ではない。『和田家の御曹司を何とかしてくれ』とな」
佐伯は小五郎を引っ張り、和田家の門前で大声をあげて昌景とお清を呼んだ。佐伯の声が、江戸屋横丁に響き渡った。
「やめて、やめて」
必死に小五郎は抵抗した。
小五郎を捕まえた佐伯の腕はびくともしない。
和田家から、昌景やお清どころが、全員が走り出てきた。
お清が口に手を当て悲鳴をあげた。
桂家から弥之助が走り出た。
お治や卯一郎が、けたたましく泣き出した。
道行く人も立ち止まり、周りから覗き込んでいる。
表の御成道からも、人が入って来た。小五郎のまわりに、人だかりができた。
――来るなよお。頼むよう。
佐伯が昌景に小五郎の事情を告げた。佐伯の叩きつけるような早口に、小五郎の弁明の余地はなかった。
小五郎への昌景の怒りは、凄まじかった。
「愚か者め」
昌景が門前で小五郎の額に殴りかかると、文譲と友藏が必死になって押さえつけた。
友藏が叫んだ。
「旦那様。お待ちください。いけません。頭が割れてしまいます」
「かまうな」
昌景は怒声を上げた。
文譲は昌景の腹に抱きついては、振り回された。
「父上。ここは治療を。手遅れにならないうちに」
文譲の訴えを昌景は聞かない。
目をむき、小五郎を怒鳴り続けた。
「武士の顔を傷つけるとは、何事かあ」
文譲が昌景を必死になだめている。
友藏は小五郎を庇(かば)いながら、人ごみをすり抜ける。
門に入ると、横の玄関から小五郎を診察室に連れ込んだ。
外でお清が佐伯に甲高い声で礼を言っている。
声が震えていた。
お治と卯一郎の泣き声は、ひどくなる一方であった。
昌景の怒りは収まらず、診察室で、なおも小五郎を激しく叱責した。
昌景が鍼を手にして小五郎の傷口を縫おうとすると、右手が激しく痙攣し始めた。
小五郎は鍼で殺されると震えあがった。
「助けて、助けて」
小五郎は叫び続けた。
昌景は縫い針を置いて、震える右手を左手で押さえた。
息は乱れて苦し気だった。
昌景は文譲に、顎(あご)で小五郎を指して命じた。
「お前やれ。稽古じゃ。縫え」
文譲が縫い針を持って、小五郎の前に出た。
「はい、父上。小五郎、じっとせよ。手元が狂っても知らんぞ。私は不器用だ」
文譲は小五郎を脅かした。
友藏が小五郎を羽交い絞めにしている。
昌景は文譲の脇から小五郎を覗き込んだ。
「文譲、手加減無用。半端な縫い方をするな。ヘマをしたら、何度でもやりなおせ」
小五郎は弱々しく声を張り上げた。
「兄上。俺、動かないからね。暴れないからね。やりなおしなんて、ないよね」
文譲の声は冷たい。
「さあな、小五郎次第だよ。私は修行中の身。父上がやるより、うんと痛くなるかもしれぬが、あきらめな」
意地悪な文譲であった。
昌景は小五郎の哀願する声を握り潰すように、右手を開いたり閉じたりしている。
昌景の手の震えが止まらない。
昌景の顔は上気したままだった。剃り上げた脳天まで赤くなっている。
「文譲。今後は、できるだけお前に治療をまかす。いいな」
文譲は唇を噛みしめて、小五郎の額を縫っていく。
手際はよくない。
文譲は鍼に力を込めながら、困ったような顔をした。
「父上。何をおっしゃるのです。私はご覧の通り未熟者です」
小五郎があまりの痛さに泣き叫ぼうとしても、友藏のために身動きできない。
痛みで、呻(うめ)き声ばかりあげていた。
力任せに小五郎の額を縫う文譲の横で、昌景は寂しそうに窓を見た。
軒先に青い空が覗いていた。
「この傷は一生残るであろうな。お前は漁師や船頭、岡本先生にまで、随分迷惑をかけた。これからは明倫館に行け。明倫館に、兵学の若先生がいる。お前よりたった三つ歳上だ。すでに一家を成しておる。少しは先生の爪の垢でも煎じて飲め。今日は気付け薬はなしだ」
文譲は施術が一段落すると、深呼吸を一つした。
友藏がもう大丈夫と小五郎から手をはなし、手拭いで文譲の額の汗をぬぐった。
昌景は施術の出来具合を見届けると、さっさと診察室を出て行った。
文譲が疲れた顔で、小五郎に声をかけた。
「小五郎。よく耐えたな。大したもんだ」
返事はない。
小五郎は気を失っていた。
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