切迫感や焦燥感は暗さの中にあるわけではない|11月11日(月) すしメロディ
さっき、岡村和義という岡村靖幸と斉藤和義のユニットの少年ジャンボリーという曲を聴いて、自分が死にたいときもこんな感じだな!とおもった。
眠れないけど活動もできなくて、目を開けたまま、熱が身体中に満ちて切迫感と焦燥感がエネルギーを使い果たして行く。「ねむるときにはあまりいろいろ考えないことだね」と主治医は言っていたがそうできたらどれだけよかったことか。そもそも、わたしは眠れないあいだずっとなにかを考えてるわけではなくて、ひたすらになにかに駆り立てられているのだ。駆り立てられ方のひとつのバリエーションとして思考が巡ることもあるし、無音のなかで目が冴え渡ることもあるし、身体がこわばることもある。そのことをわたしが上手に主治医に伝えられたらよかったのかもしれないが、これまでの相談がいなされてきた(とわたしは思った)経験から、主治医はもっとも身近な世間であって、診察という場はわたしの話を聞く場ではなく、わたしの経過を一方的に客体として観察し処方箋を書く場なのだろうと納得してしまってもいる部分もあった。わたしにできることは観察対象として観察者に判断材料になりそうなものを提供するだけで、診察室に実際に足を運んでいるのも材料を提供するためだけ。材料はこちらからはわからない観察者の推論約30秒を通じて処方箋になって出てくる。お話がしたいならカウンセリング(クライアント多数につき現在予約停止中)でどうぞ、ということなのだろう。しかし、眠れないことの文句をウダウダ書いたが、少年ジャンボリーはそういうテイストの曲ではない。というか、わたしは文字にするとどうしてもウダウダになってしまうが、目の冴えるような駆り立てはときとして苛烈で、ときとして激しく輝く。大きくなると人はそれを不安と呼ぶが、この輝きはわたしが小さかったころ、布団の中で突如として好奇心に駆られて、ゴムの樹が加工されてわたしの母のヘアゴムになるまでの過程をああでもないこうでもないと考えたていたころの輝きと同じ場所からやってきたものだ。