見出し画像

未来形の小説|12月20日(金)奈良原生織


朝は塩パン、昼はいつものレトルトカレー。
塩パンは名前に似合わず油分がすごいのでコーヒーで中和しながら食べた。


年内最後の仕事の山場が今日終わるはずだったのだが、直前に火曜まで延期となった。拍子抜けしてその後の業務に身が入らないまま、なんとか今週ここまでやると決めてたところまではやりきる。終わったのが19時半。でも本当なら仕事は17時頃までに終えて延滞しているDVDを返しにいけてるはずだった。

うちにはテレビがない。映画を大画面で見たいときはFireTVstickをプロジェクターに刺して、家の中ではまだしも白い方である生成色の壁に投影していたのだが、契約してるサブスクに入ってこない映画もたまには見たい、具体的には「モアナと伝説の海(2017)」が見たい、というので去年とある用でDVDを焼くために買った外付けのドライブ(というのかな?)をプロジェクターに繋いでみたがうんともすんとも言わなかった。

調べてみたらそのドライブはDVDにデータを書き込むことはできるが読み取る機能はないそうだった。またプロジェクターのほうも映像をただでかく写すことはできるがやはりデータを映像として再構築する力はないとかで、両者の間にPCを挟めばその、データから映像へというデジタルな感じの変換処理ができそうだったが、私のウィンドウズPC(厳密には会社の貸与PCだけど)にはそのための再生ソフトがインストールされていない。昔は標準装備されてた気がするウィンドウズメディアプレイヤーは、私が歳を重ねるにつれて無難な色の服しか着なくなったように筐体のはみだし物としてパージされ、というかそんなことをいえば昔持ってたノートPC(大学入学時に買ったはいいがほとんどワープロみたいな使われ方しかされないまま壊れたPC)にはディスクを読み取るための受け皿だってついていた。それで先月末、ヨドバシで店員さんに聞きながら再生もできる外付けドライブを買った。二万した。

「モアナと伝説の海」はすぐに見たが、海つながりで同時に借りた「海がきこえる(1993)」はまだ見ていない。旧作14泊150円で借りたその二本は今も机の上にある。多分返却期限は過ぎているのだが、レンタルビデオ店は川を越えた先にあってちょっと遠い。しかも川をわたる橋は駅に通じる道とは真反対なのでどこかへ出かけるついでに返すということもできず、DVD二本を返すためだけに寒風吹きすさぶ橋を越える気にもならなくて、というかシンプルにその時間がとれず、今日なら仕事終わった後返せるかも!と思っていた頼みの本日は、夕飯食べて風呂に入ったら終わりの時間になっている。

会社から帰った妻と駅で待ち合わせて、夕飯はルミネのさぼてん。ヒレカツ美味しくて涙でそう。いやほんとに。しかもお会計300円につき一個スタンプが押してもらえる。22個たまると500円引きのクーポンになる。ありがたいが、なんで22個?とは思う。

明日は出来上がった指輪を表参道までとりにいく。その用事はきっとすぐ終わるから、せっかくなので都内でほかに行きたい場所はないかと考えると田町の蟻鱒鳶ルと恵比寿の写真美術館(アレック・ソス展がやっているのと、別の階でやっている日本人写真家の展示も気になる)が挙がる。全部を都合良くまわるためにグーグルマップで三箇所をピン留めしたら縦長の三角形になった。指輪の受け取りは13時、蟻鱒鳶ルは日が出てる時間にみる、美術館の閉館にも充分間に合うようにいくとして、表参道→田町→恵比寿の順が都合がいいと思われた。

昼に楽天で注文した凧が発送されたというメールが届いている。
本当は竹の骨組みに和紙が張られたいかにもな和凧が望ましかった。でも帰省時に電車で持ってくのが大変そうなのと(折り畳めないので)、ネット上では飾る用なのかちゃんと揚がる凧なのかが判別しかねたので、絶対に揚がる、揚がって揚がって仕方がないと口コミに書いてあるナイロン製のカラフルな凧を注文した。

ここではなにをするのも自由なので、翌日以降のことも平気で書く。

土曜日、東京から帰ったあと夜に「海がきこえる」を見て、日曜日にDVDを返した。延滞料金は約7000円だった。支払う。そのままだと単に7000円ほど失った人になる可能性があったため、県道を挟んで斜め向かいの回転寿司チェーンで15皿くらい食べる。美味しかった。結果、9000円ほど払って寿司を食べた人として前向きに生きていくことができた。
この前上司が回転寿司屋で働きたいと言っていたのを思い出す。
落ち葉が危ない。風で巻き上げられ、通行人の顔にぶつかりそうになっている。

昨日のきたのさんの日記が面白かった。古賀及子さんの言葉を引用する形で「日記を書くことを自分に秘密にする」という話。
どんな体裁の文章も自己規定の上に成り立っていて、それは保護でもあり、同時に逃れがたい鎖でもある。


たとえば日記。
そこでは書く私と書かれる私が同じであるため、日記に書かれる前提で過ごすことになる私の「日常」は変容をこうむる。言い換えれば日記においては、フィクションの「日常」をあくまで本当のことみたいに書くことが許容されている。それが日記という形式の面白さであり、限界でもあるのだが、古賀及子さんの方法論はそこからの逸脱を試みる。

たとえば小説。
どっかで読んだのか、誰かが言ったのを聞いたのか忘れたが、小説の文章は原理的に過去形である。文法的には現在形で書かれていたとしても、過去形であるかのように読めてしまう。すでに過ぎ去ったものへの郷愁が小説を駆動する、と一般的にはそう言える。
けれども金子玲介『死んだ山田と教室』は違った。
著者は私の高校の先輩で、十年以上昔になるが、作品の舞台となった埼玉県の私立高校に私も通っていた。だから細部にわたる高校の描写は私のノスタルジアを痛いほど刺激するのだが、徹底して現在形で書かれた文章は、眼前の出来事を安易に郷愁の対象にはさせてくれない。というか、めくるめく繰り出されるギャグや気まずさや怒りの発露に振り回されて、そんな暇はなかった。その文体は小説というよりも戯曲を読む感覚に近かった。まず文章が書かれてから、景色がたちあがり、人物がうごき、しゃべり出すような。ふつうの小説とは時間軸が逆転しているのだ。
驚くべきことに金子玲介は2024年のくちに『山田』を含めて小説三部作を発表している。三作目の『死んだ木村を上演』はズバリ演劇ものだった。登場人物たちが作中で過去の自分を演じながら八年前に起きた木村の死の真相に迫るという構造で、テーマも相まって『山田』で感じた脚本らしさはさらに押し進められ、ほとんど演劇を見ているように読み終えた。
月曜日、著者本人に会う機会が会ったためその話をしたところ、現在形でありがながらも戯曲というのは原理的に未来形なんだ、と教えてくれた。近い将来の上演を企図して書かれていると言う意味で、戯曲は未来を書いている。たしかにそうか。
一般的な小説とは時間の矢印が反対を向いている。だから『木村』の最後はああでも成立するのだと思った。『山田』においては最終章前半で視点人物が一人に固定されるとともに過去形が多用されたあと、山田が再登場してふたたび時間が前を向く。そのまま突っ切るラストは静謐な希望にみちている。
このような書かれ方の小説たちが存在することは、他のすべての小説にとっていいことだ、と私は思った。


 遠くの空に浮かぶ仄かな赤色を、三人黙って見つめる。
〈そっか〉
 山田の声がする。
〈俺もう、夕焼けって見れねぇのか〉
 耳が痛むような、長い沈黙が下りる。
 久保も別府も吉岡も、暮れゆく夕空をただ見つめる。
〈ごめん〉
 一秒が経つごとに、空が赤みを増していく。
〈なんか冷めること言っちゃったわ、ごめんな〉
「山田、空が赤いよ。燃えてるみたい」眼鏡に赤い輪を反射させながら、別府が声を上げる。「なんかさ、空の上のほうはまだ青いんだ。晴れてて。下の方に行くにつれて、だんだん青が薄くなって、若干白っぽくなって、うっすら赤く変わってるよ」一息でしゃべってから、ひゅっと息を吸い「こうやってしゃべってる間にも、空の色が少しずつ、ほんとうに少しずつ変わっていくのが分かるよ」

金子玲介『死んだ山田と教室』

奈良原生織
横浜市在住。先日10年ぶりにお好み焼きを食べ、15年ぶりにもんじゃ焼きも食べた。


【「火を焚くZINE vol.1」発売予定】
◆2025年1月19日(日)文学フリマ京都9 @京都市勧業館みやこめっせ1F
BOOTHでのオンライン販売を開始しました! 電子書籍版もあります。

◆お取り扱い書店一覧
〈東京〉
機械書房(水道橋)
書肆書斎(梅ヶ丘)
古書防波堤(吉祥寺)
百年(吉祥寺)
〈茨城〉
生存書房(土浦)

いいなと思ったら応援しよう!