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涙の五月雨日記(工事中)1/6(月) 大島康彰
なんだかんだいって、虚無ってばかりではない。漫画を読んでいるから。
今朝は『ワンピース』(尾田栄一郎作 ジャンプコミックス)の108巻と109巻の途中まで読んだところで、出勤の時間がきた。
みなさんご存知かわからないけれど、この世には『ワンピース』という漫画がある。若い海賊が、仲間を集めて、宝を探す旅を続けるという話だが、これがめちゃくちゃ変な漫画なのだ。
まず、登場人物の数が異常に多い。登場人物に奇形が多い。(たのしい)また動物が人間のような行動をする。(特に各話ごとの扉絵ではその傾向が顕著である)また獣人や魚人、人魚、でかい人間、小さい人間、羽の生えた人間、ゾンビ、骸骨、人造人間、ロボットなどが出てくる。
少年漫画やライトノベルでは登場人物同士がよく争い、かつその争いはスラップ訴訟だとか、証人をいっぱい集めるとか、権威ある人の支持を取り付けるとか、そういうことではなくて、主に肉体的な暴力による覇権の奪い合い、みたいな形を取ることが多い。これはある種の映画などに似る。
殴打したり、傷を負わせることで、相手の気絶を誘ったり、行動不能にする、ときには殺し合う、ために、どのような暴力を駆使するかということが肝だったりするのだけれど、この暴力の装置に関しては、他の作品と差別化するためか、SF的な、あるいはファンタジックな設定だとか、ガジェットが登場することが多い。このワンピースにおいては、まず「悪魔の実」というガジェットが登場する。このガジェットが、この漫画における登場人物の奇形化に一役を買っている。
「悪魔の実」というアイテムを摂取すると、(おそらく)一生体質が変化する。主人公のモンキー・D・ルフィはゴムゴムの実というものを昔食べたので、全身がゴムのように伸びちぢみするゴム人間である。
ゴム以外にも実はたくさんある。
体をバラバラにできる人間(みんなバラバラにされうるけど、この人の場合バラバラになっても生きてる)、炎や氷や雷になれる人間、鉄や蝋燭などに変身する人間、動物に変身する人間、人間に変身する動物、死んで骨だけになっても生きてる人間などなどなどが現れる。
ところで、この世界での美男美女、として扱われる人間の顔がどれも似通っていて、体型、とくに女性の体型はすべて似ている(定型的)のに対し、いわゆる定型外の風貌を持たされている登場人物の顔や体の形はかなり奇妙なものである。そして、それは悪魔の実とは関係ないことも多い。
ややこしいのは、この悪魔の実を使うまでもなく、奇形的な人物がいて、その人物が悪魔の実を使うことで、さらに奇形化したりもするのである。奇形が奇形すると正転して普通になるのかと思いきや、奇形のままだ。もはやそんなものは奇形でもなんでもないのかもしれない。
つまり、デフォルトが奇形なので、奇形などない、つまり、この漫画の登場人物はみんな奇形だから、奇形がゲシュタルト崩壊気味、崩壊っていうか、こわい、のは、おそらく、容姿については、わりかし、現実的に、読者から人気のでるような容姿を選択されているメイン登場人物がいて、そのメイン登場人物に比べての奇形ということかもしれない。
そう思うと、かなりルッキズムの具現化みたいで悪魔的だが、ワンピースに登場する奇形の人物は、妙に情熱的に描かれているような気もしなくない。
(ところで、どれだけ写実的な絵で描かれたキャラクターであろうと、絵である以上我々の住む世界からしたら、奇形であり、そもそも漫画というものに出てくる登場人物は、風景は、すべからく現実と比べれば奇形である。)
(しかしながら、写実的じゃない奇形、あるいは写実的な奇形、がもたらす恍惚というものはあり、きっとそれは昔の日本においては浮世絵や、鳥獣人物戯画を見ている時の恍惚、ムキムキでテカテカしたアメコミを見ている時の恍惚、ノーマン・ロックウェルやエドワード・ホッパーの描くアメリカンを見る恍惚、のみならず、佐々木マキ、和田誠らの癖のある絵の恍惚、などもあって、やっぱり、写実に対するオルタナティヴがあるということはいい。)
例えばこの『ワンピース』にしばしば登場する大きな機械や怪獣の姿も、子供が考えた斬新なデザイン、みたいなものを、熟練の画力と手癖で完成度高く仕上げており、それは必要に応じてそうしたというより、「絵を描く喜び」の発露ではないかと思わせる。この漫画家は奇形的な人物に対しても、怪獣やメカを書く喜びみたいなものを適用している気がする。いっぽうで美男美女、というか主に美女もまた一種の奇形じみていて、現実の人間に対し、頭身の高さや、足の細さなどに特徴がある。また目や輪郭の丸さも特徴的だ。そして、その画一性もまた奇形的だ。
画一的な美男美女が登場するというのは、漫画の世界だけの話ではない。我々が現実世界で接する広告や映像表現などもそうだ。(しかしながら、画一的な美男美女などというものは、現実的には存在しない。似ていても違う顔で、似ていると思うのは、似ていると思う人の脳内でのことだ。つまり規範が画一的で、人間の顔の捉え方というものが画一的である)
(ゆえに漫画の登場人物の顔がぜんぶ似通っていようが、それは致し方ないところもある((書いている人の認識している人間の顔しか描けない))、それでいいのかもしれない。というか漫画の絵は記号でも成立する、という考えもある。成立するからと言って、そこをあれこれ凝りたいというのが趣味であると思うのだが)
また、集合体恐怖症の人だったら怖い、と思うくらい、単行本のカバー絵や扉絵などには多くの人物、動物、事物が描かれる。あれは一体なんなんだろう? 1枚の絵の中に、できるだけ、ギチギチに詰め込む。まるで空白という発想がないように。ボッシュの『快楽の園』という有名な絵があるが、アレみたいであり、あの感じ、一枚の紙、あるいはキャンバスの中に、なるべくアイデアを全て詰め込もうとする感じは、やはり子供の頃、授業中、時間を潰すために、一枚のプリントの裏をなるべく長く楽しむために、たくさんのキャラクターなどを、こまかくこまかく書き込んだあれに似ている。
(そしてその絵はその時点の自分にとって理想的な世界を描いていたような気がする)
あれはなんなんだろう、と思いながら、もうすでに一つものを思い出している。鳥山明だ。鳥山明の絵、それもたしか、ジャンプ編集長だった鳥嶋和彦が「最盛期」と称していた90年代半ばごろ、ゲーム、『クロノトリガー』の挿入絵などは本当に魅力的だ。誰かの家でルッカがロボをばらしている絵((オーバーホール?))や、野営している絵。魔王と戦っている絵など、どれを見てもクラクラして、この絵の中の世界に行きたいと思わせる。
ラッセンが以上に生物が過密な熱帯地域の海を描くように、理想郷的なものを、尾田栄一郎は扉絵で描いているのかもしれない。
いっぽうグロテスクである。
例えば作中で「海王類」と呼ばれる海に生きる大型生物群がある。その多くは地上で生活する哺乳類や鳥類の風貌そのままにヒレなどがついて海の生き物とされているのだが、これはかつて悪魔などの姿が想像で描かれた絵と同様にキメラティックであり、直球でグロテスクである。
絵だけではなく、話も変である。
『ガリバー旅行記』や『星の王子さま』の前編の星を巡るパートのように、それぞれにキャラが立った環境や住人を持つ島を巡る話なのだが(最近ではいろんな島の住人が一堂に会するパターンも多いが)どこへ行っても奇矯な登場人物(動物含め)が現れ、奇妙な口癖や、奇妙なギャグ、などを開陳するので、話がまっすぐに進まない。なぜかカルチャーショックはほぼ起きないのだが(起きてもすぐ解決する)主人公に、そして読者に変わったものを、次々と見せる、ということに終始している時がある。
それは「話」という曖昧な単位よりも、漫画を構成する「コマ」という単位の内容がシュールな言動やギャグで満たされ、コマを閲覧するわたしたちはその咀嚼に多くの時間を取られる。それはあまり通常のエンターテイメント、物語の進行を追っている時と違う感触がある。(これは私の感覚である。あれこそがエンタメだ、という意見があることには反対しない)結果、読み終えた後の感想として、全体がどうであったかは確とせず、仮に読み返して適当なコマを見返せば、そこにはシュールと言っても差し支えのないギャグ(この世にはない生きものや、口癖などをベースにしたりする。一方で、恋愛、憎しみ、賞賛、などの感情はかなりストレートに描かれる。そして、その多くは説明がない。)か、シュールと言っても差し支えのないムーヴメントを見る。(登場人物が一斉に同じリアクションを取ったり、バズビー・バークレイが演出するミュージカル映画のようなマスゲーム、幾何学的な陣形を取ったり、サーカスのようにアクロバティックな芸を披露したりする)あれはいったいなんなんだろう? 戦闘シーンも隠し芸大会じみており、誰にどれだけダメージが入っているかはわからず、勝敗が決定する因子もあまりよくわからない。(なぜさっきの技を食らったこいつは立っていて、この技を食らったらダウンしたのか。)
とにかく『ワンピース』を読むというのは独特の時間であり、通常の漫画よりも面白いとか面白くないとかを感じない。極々個人の感想に過ぎないが、引きがないのに読んでいる不思議。
いっぽうで、大まかに、何かくっきりした物語はあるのだが、繰り返されることによる倦怠がある。
これはディスりたい欲ではない。やはり特殊性への言及欲だ。
ワンピースは同じような展開を繰り返している。過去で世話してくれた人が死ぬ。現在で世話されていた人が泣く。ルフィが人を殴る。
この繰り返し方がちょっと只事ではないと思う。
私のように物心ついた時に読んだジャンプでドン・クリークとルフィが戦っていた人間にとっては、なんでまだ続いているのかわからない。
でもそれが長寿作品というものなのだろうか?
初めはアーロンだった。アーロンの話(アーロンが虐げて、犠牲者が出て、アーロンに囚われた人をルフィが解放する)はいいなぁと思っていた。
30年近くが経ったわけだが、今の子供はくまの話(くまが子供を助けるために囚われて、子供はくまのことに囚われていて、解放を待っている状態)で泣くのだろうか。泣くのだろう。だって俺も泣いた(爆)
((爆)?????)
くまかわいいしね。くま善良だし。
ある日、ワンピースが好きだった友人が言った。
「最近ワンピースがずっと同じ話を繰り返してるって思って、すごくぞっとしたんです。」
その友人が例に出していたのはスモーカー大佐の初登場時、大佐の足にぶつかった小さな女の子が、強面に大佐にビビってると、「すまねぇな、俺の足がアイスを食っちまった」的なことを言って、金を渡して、(ここは記憶が曖昧)もっと大きなアイスを買ってはしゃぐ女の子、みたいな場面だった。
この強面で悪そうな奴が実は善良、みたいな表現が繰り返されているというのだ。正直おれは、どこにその繰り返しが見出せたのか全くわからないけれど「昔は素直に感動していたのに、今も同じことをしていると思ってゾッとした」という話はとても印象に残っている。
ワンピースは変だ。なにせおれはワンピースの終わり方が全く気にならない。どう終わるのか気にせず読む。どう終わったって関係ないのに読む。まるで人生みたいだ。
(1/11夜、『宝石の国』((市川春子作 アフターヌーンKC))12巻を読み終える。面白い。10巻、11巻と読み終えるたびに「……面白い」とため息つきつき、つき終えると0.5秒くらいで続巻を手に取った。宝石たちや海に住むウミウシのような生き物、月の住人たち、などの出てくるキャラクターの絵が皆かわいらしいだけではなく、SF的なストーリーが面白い。人類が滅んだ後にいる生き物数種類の話で、それぞれのキャラクターの立場や思惑が交差しながら、いったいどうなるのか気になる。明確な悪役がいないし。よくあるストーリーだと、どうせ最後はいい方が勝って、ぜんぶうまくまとまるんでしょ、と思えて、そんなに惹き込まれないが、12巻の最後はとても不穏で、((でも完全にハッピーエンドなのかもしれない))物語がどうなるのか気になる。
((わたしは、この、物語がどうなるか気になる、という馬鹿馬鹿しい状況がたまらく好きだ。好きじゃなくなったとしても、その良さを信じている。わたしがそれを感じられなくても、世界中の誰かがそう感じていると思う。初めから全部嘘なのに、その嘘を取り上げられて悲しかったり、その嘘の如何で全てが台無しになったり、もう何も怖くないように気持ちになれる。なると思う。自分はその気持ちを忘れても、常に誰かは。かつて二階堂奥歯は「物語をまもるものでありたい」と言った。私はその言葉をダサいなと数年後には思ったし、その言葉だけでは何も受け取ることができないように思っていたけれど、実際は受け取っているし、よく商店街などをテクテク歩く時にこの言葉について考える。物語は、べつに守らなくても、ある、、、、し、、、、それを好きな人がいっぱいいるし、おれの出る幕などなくても、そう、ただあるとしか言えない。たぶん宇宙にもある。知的生命体である以上、物語からは逃れられないような気がしているが、でも、人間とは全く違う精神構造の知的生命体を、人間は知的生命体だと認められるのか? みたいなことについて考えるのは、まったくの物語ですか? いいえ違います。ただ考えてるだけだ。考えるだけでもう物語がある。そのようにできている。物語に希望を持ち、胸(ハート)に火をつけて、雨の日も風の日も光の日も闊歩している。
でも守るってなんだろう? 脅かされているのか? されうるのか、俺にはまだ見えてない邪悪が? いや別に邪悪とは限らないか、、、誰が? なんのために。などと書くと二階堂奥歯を茶化しているようだが、それは違う。わかるから。わかるよ。青臭って思うけど。すごくわかる。まもりたいのだろう。))
閑話休題(それはさておき)
『宝石の国』はTSUTAYAで借りられるのが、今のところ12巻までなので、最終巻となる13巻は買っちゃおうかな。
とかも思いつつ、
今すぐ全巻揃えたい、などとはあまり思わない。というのは、この漫画アーティスティックに見えて実にエンタメで、とりあえず、話がどうなるのか気になる、という興味でページをめくってきたので、たぶん、最後まで読み終えて、ため息をつけば、途端に本が消えてしまっても、しばらくは平気だからだ。
というのと、
話の展開に、再読を気重にさせる何かがある。悲しすぎる、というよりかは、長い時間を((石という特性とかけられていると思う))過ごす、という逆カタルシス((というか、カタルシスを貯めてる時間か))があって、せっかく解消((するのだろうか、まだ最終巻未読))したそれを再び、待つのが辛い。
のかもしれない。
((しかし、読み終えた瞬間、本が溶けて消え、風に吹かれて消えても構わないとは思わない。
すべて忘れた頃に再読したい作品だし、素晴らしい絵だし。))
今気づいたが、カタルシスとはそういうところがある。涙を流したら、涙を流す前にすぐは帰りたくないよね、よかったねと笑えるようになれば、笑えるようになる前にすぐは帰りたくないよね。)
ということで『ワンピース』になんでこんなにこだわっているかというと、
以前、職場で『ワンピース』の話になった時に、「ああ、あの変な漫画でしょ」的なことを言ったら「……え?」的なリアクションが起きた、そこで上に書いたようなことをザックバランに説明したのだが、通じていたのか心もとない。でも、ワンピースは変な漫画なんだよ?
ここまで述べてきたように、変なのだが、少年漫画誌で1番の発行部数を誇るという少年ジャンプという連載枠激戦区で長らく看板として扱われている、という事実こそ、考えてみれば一番変だ。何か夢のように奇妙でさえある。
こんな変な、奇形的なものを子供のうちから読んでいる人が多いとすれば、国単位で、集団を構成する人間の刷り込みというか、心理や嗜好に影響を与えているかと思うと結構空恐ろしい気もするが、そんなことを言っても仕方がないことだ。それぞれの国に、それぞれの国ごとのそういうものがあるのかもしれない。
しかし、そんなことを言っても仕方がない、といっても、その影響が自分にとって嫌なものだったとしたら、何か言うべきなのかもしれない。
永井豪の『ハレンチ学園』の影響で、スカートめくりが流行ったのだとしたら、けっこうそれはやなことであるように思える。
しかしながら、おれたちの世界には、さまざまなものがあって欲しい気もする。子供が触れていいものと、触れてはいけないものをゾーニングするという考え方はあって、これはアリなのかもしれないが、私自身はあまりゾーニングされていなくて、変なものをたくさん読んできて、今の私である。(漫画だと『ベルセルク』とか)しかしゾーニングのなかでは「少年向け」とされているであろう『週刊少年ジャンプ』のなかに、『ハンター・ハンター』のように強烈な死体損壊の描写を許容したり、ジャンプ編集部はいったい子供をなんだと思っているのか「面白ければなんでもいい」「子供を舐めてはいけない」「やつらを面白がらせるには???」とか、まじで思ってそうで、まじで攻めてる。そうでなくてはジャンプじゃない、とか思ってそうだとか勝手に思う。さらに妄想で思い続けるけれど、それって、これまでの先達のあれこれの積み重ねだと思う。ニッポンのMANGAの。『ガロ』などを持ち出すべくもなく、例えば、手塚治虫の漫画、グロも猟奇も生首もセックスもレイプも狂気もなんでもありの物語が、宝塚などから影響を受けたという、華やかで可愛らしい絵で描かれた、という威力による後遺症、言ってみれば日本のMANGAに与えた影響。HENTAI性。
なぁんておっきな話はやめよう。日本のとか、批評じゃないし日記だし。僕の話だ。なぁんだ僕が変態だという話か。ちぇ。
それが変態と言うべきことかはわからないが、例えば、のちに手塚には動物性愛の傾向があったのでは、という言説も出るほど、なめまかしく描かれる動物の描写には、かなりのパワーがある。(例えば海のトリトンに出てくる献身的な白いイルカの可愛さ。目が人間すぎる。)そしてそうした動物たちのたどる運命も、少し捻じ曲がっている。
例えば、『ユニコ』に出てくる可愛い生き物たちがユニコに向ける欲望、初期作にしばしば出てくる。共に宇宙を旅したうさぎ人間(ある話でラスト主人公の少年を助けるために焼死する展開は衝撃的だったが、奇形のものはいつまでも居てはいけない、物語で役割を終えると消える、というのは、今思うととてもさびしくてものたりなくてはらただしいことだけど、妙に座りがはよかった。少年の一夏の冒険的な)うさぎの焼死といえばブッダのあのシーン、他の動物たちのように釈迦に献上できるものが見つからず、穴を掘ったり、あれこれ探したけれど見つからず、とうとう覚悟を決めて、自分で火の中に飛び込んで、供物する。という部分のウサギの可愛い可哀想っぷりも印象深い。
『火の鳥』に出てくる不定形の動物ムーピーと人間の夢を通じた交流(たぶんセックス)とか、人外の生き物との恋、その人外は夢を見せることができて、夢の中では好きな姿に変身できるけど、それは本当の姿じゃない。本当の姿はもこもこした不定形の不気味な何かだ。「お前は騙されている」「けれど、愛おしい」みたいな倒錯はかなり段階を飛ばしている気がする。
顔といえば、手塚治虫こそ、記号的に同じ顔を使いまわしていた。有名なスター・システムだ。同じ顔のキャラクターが、映画や演劇のごとく、数々の物語で違う役を演じる。
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工事中。
プロフィールも後日。
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(メモ)
山尾悠子『歪み真珠』(ちくま文庫)から「マスクとベルガマスク」の引用(さっき探したけど、本が見つからない、、、、)
高野文子『お友達』(筑摩書房)の劇のシーン引用。
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