ラース・フォン・トリアーの【黄金の心3部作】について
こんにちは。日和照です🌞
今回はラース・フォン・トリアー監督の映画『奇跡の海』『イディオッツ』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の3作品からなる【黄金の心3部作】について考察をしていきます。
※ 注意 ※
① 本記事には、映画『奇跡の海』『イディオッツ』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』、児童書『Guldhjertet』のネタバレを含みます。
② 本記事は筆者個人による1つの考察であり、その内容の正しさを保証するものではありません。
はじめに
同監督作品は『ハウス・ジャック・ビルト』のみ鑑賞したことがあり、今回紹介する3作目は初鑑賞になりました。
鬱映画・胸糞映画の名手として知られる監督ですが、この3作品はそういった映画ではないように思いました。
【黄金の心3部作】
黄金の心3部作とは、ラース・フォン・トリアーが幼少期に読んだ児童書『Guldhjertet(黄金の心)』が元となった映画3作品『奇跡の海』、『イディオッツ』、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の総称です。
児童書『Guldhjertet』は、貧しい少女が他人を助けるために食べ物や着ている服をすべて寄付することになるという話です。
純粋な精神(黄金の心)を持つ少女は、最後には理想のために殉教します。
この物語に影響を受けて生まれたのがラース・フォン・トリアーの【黄金の心3部作】というわけです。
で、ここから筆者の解釈・考察になります。
『Guldhjertet』の少女のような人間像は、はっきり言って異常です。現実味がありません。理想のためなら死をも厭わないというのは、ネジがいくらか外れていないと出来ない芸当です。
トリアーも同じようなことを感じていたのではないでしょうか。他の作品を観てもわかるように、彼はおとぎ話を作りたいわけではありません。現実味を感じさせる物語を作っているのです。
では、『Guldhjertet』の少女のような「黄金の心」とは何か。トリアーの出した答えは、「精神的あるいは知的に何かが欠落した状態の人だけが持つ、度を超えた理想への探求心」です。
「精神的あるいは知的に何かが欠落した状態(=黄金の心状態)」であるなら、現実社会の中で、1人の大人が、理想のための全てをなげうつような、はたから見ると無謀な振る舞いをしていても違和感なく描けると考えたのでしょう。
そして、黄金の心状態の人は、実年齢に対して精神年齢が未熟である場合が多いです。この3部作の主人公は全て大人の女性ですが、心は未だに少女のまま。『Guldhjertet』の少女の実年齢と、3部作の主人公の精神年齢は同じくらいかもしれません。
『奇跡の海』のベスは、精神病院に入院していた過去があること、結婚式途中に性行為を求めてしまうこと、ヤンと離れることが受け入れられなくて親と別れる子供のように泣き喚くこと、神の声を自分で作ってしまっていること、度々ヒステリーを起こすことなどから、知的な遅れや精神の欠落を思わせます。まるで、まだ自分の感情を自分で咀嚼できないので感情が暴発してしまう幼子のようです。
『イディオッツ』のカレンは、子供の死をきっかけに精神のどこかが欠落してしまったように思われます。イディオッツと出会い、愚者の模倣に安堵を感じていますが、これは現実逃避の延長線に過ぎません。まともな精神状態であれば忌避する行動ですが、精神の欠落によってこの判断ができていません。最後には、逃避していた家族という現実に愚者の行為を持ち込むことで、彼女は世界の捉え方を逆転させてしまうまでに至りました。精神的に何か大きなものを失った音がするラストです。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のセルマは、彼女を取り巻く多くのストレスから正常な判断ができていません。文字通りでも慣用句としても視野が狭くなっています。事件以前から息子さえ助かれば良いという考えに傾倒し、視力の悪い自分がコミュニティに与える悪影響を度外視してしまっています。危険もある工場でミュージカルの空想に耽ることも多いです。視野狭窄によって、危険・リスクに対する感性が欠落しています。また、自分の考えが絶対的に正しいものであることを微塵も疑っていません。
主人公3人とも、何かが欠けています。
ただし、トリアーは黄金の心状態を醜いものとして描いてはいないことには注意が必要です。黄金の心は純粋さの極致のようなものであり、黄金の心状態を蝕んでしまう社会の毒性こそが恐れるべきものであると示しています。
『奇跡の海』では、排他的で閉鎖的な村社会、絶対的であるが言葉だけで洗脳装置と変わらない宗教、性の暴力性がベスを蝕み、『イディオッツ』では、偽善、愚者を内心で嘲笑ってしまう人間性、貧困、子供との死別、抑圧された家庭環境がカレンを蝕み、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』では、貧困、ビルの虚栄心、リンダの傲慢さ、移民に対する偏見、冤罪がセルマを蝕みました。
それでも、彼女たちは理想への探求をやめません。命をとした不貞行為、社会の目をまるで気にしない愚者の模倣、冤罪による自分の死刑の受け入れ。度を超えた行動ですが、理想へ向けて実行するのです。最後には、肉体的・精神的・社会的な死が待っていたとしても。
まとめると……
【黄金の心3部作】というのは、「精神的あるいは知的に何かが欠落した状態」の主人公が、「社会の毒性」に当てられながら「度を超えた理想への探求心」を抱いてしまったがために殉教する物語と言えます。
以上を踏まえて【黄金の心3部作】は鬱映画・胸糞映画ではないと考えている理由があります。それは、理想を達成しているからです。主人公の何かが欠落していても、社会の毒性が強くても、最終的に彼女たちの目的は達成されているのです。
ベスはヤンが回復すること、カレンは子供との死別の悲しみから逃れること、セルマは息子が治療を受けること。それぞれの求めていた結果が最後にはもたらされました。
「主人公が困難を乗り越えて目的を達成する」というよくあるプロットをラース・フォン・トリアー流に描くとこうなっただけなのでしょう。
『奇跡の海』
『奇跡の海』(1996)
『イディオッツ』
『イディオッツ』(1998)
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000)
さいごに
普段は月毎に鑑賞した映画の感想noteを書いています。今後はたまに今回のような深掘り記事も書く予定です。ぜひチェックしてくださいね!
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