阿部青鞋俳句全集を読む③-1
第三句集「火門集」は、昭和43年発行。「阿部青鞋集」に掲載の句が、「火門集」にも多く掲載されているということで、暁光堂俳句文庫の編集では、「阿部青鞋集抄」として一部のみ掲載されています。
序文に、
とあり、これを念頭に置きながら、感銘句をあげます。「火門集」は、分量が多いので、今回は「胡桃」「柱頭」の二作より取り上げます。
阿部青鞋の代表句、
はここに収録されていたのですね。この連作を通して、「半円を」のような句は、この句以外にでてこなくて、かなり異質にみえるのですが、これだけの句群に挟まれていると、その違和感すらも調和する気持ちを覚えました。
今回の句集は新かなで書かれているのですが、拗音や促音の小さい文字が挿入あされることで、第一句集、第二句集の軽やかさがさらに跳躍したように感じました。
これらの句群を通して改めて感じるのは、ひらがなの多さ。先ほどの「半円を」もそうですが、「おやゆびと」「赤ん坊ばかり」「荒涼と」「流れつく」あたりの句は、本来ならば漢字でかける用語もひらがなを意図的に選択していて、どの部分に漢字を残すか、ということをかなり意識されているなと感じました。
ひらがながたくさん出てくることによって、普段の漢字の世界では見えない、空想的で、寓話的な世界観が表出されていて、それが阿部青鞋の不思議な措辞と共鳴していると感じました。
ひらがなの多さについては、阿部青鞋が古俳諧を研究していたとあり、その事が少なからず影響しているのではないかと。このあたりの比較も今後していけたらと思っています。
また、ひらがなが多くて、不思議な句をつくる俳人といえば、もうひとりの阿部、阿部完市(あべ・かんいち)が思い浮かびました。阿部青鞋と阿部完市ではどのような違いが在るのか、改めて気になりました。こちらもできれば比較していきたいですねえ…(技量問題あり過ぎですが)
そして、第一句集、第二句集と比較して気になったのは、季語の少なさ。季語はないのですが、前後にある季語の句から、季節の質感を感じる句が多いなと感じました。
例えば、「半円を」は秋の季語の並びに、「柱頭の」は夏の季語の並びに、「永遠は」は夏と秋の季語に挟まれて、など、前後の句によって、季節が表出していくところも、とても興味深く思いました。
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