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阿部青鞋俳句全集を読む③-1

第三句集「火門集」は、昭和43年発行。「阿部青鞋集」に掲載の句が、「火門集」にも多く掲載されているということで、暁光堂俳句文庫の編集では、「阿部青鞋集抄」として一部のみ掲載されています。

序文に、

序曲
寄せてこちたき言の葉を
こゝろ任せにかくくべて
わが見むものは、焔のみ

「火門集」 

とあり、これを念頭に置きながら、感銘句をあげます。「火門集」は、分量が多いので、今回は「胡桃」「柱頭」の二作より取り上げます。

胡桃
その1
 ふることになってからふる牡丹雪
 寒鯉やくちをむすんでひげ二つ
 日の丸のある家だから出しておく
 おやゆびとひとさしゆびでつまむ涙
 砂浜が次郎次郎と呼ばれけり
その2
 赤ん坊ばかりあつまりいる悪夢
 感動のけむりをあぐるトースター
 少年が少女に砂を嗅がしむる
 爪のびて多くのことを考える
 かたつむりいびきを立ててねむりけり
 一生の白いかもめが飛んでくる
 しかじかと貨物列車が通りゆく
 皿嗅げば皿のにおいがするばかり
柱頭
その1
 キリストの顔に似ている時計かな
 愛すべきこのびしょぬれの火事の跡
 釣人のうしろ鶯きやーと鳴く
 短きを必要として鉄橋あり
 人間を撲つ音だけが書いてある
 生きてたゞ母音をのこす子音かな
 唇を貨車からそとへ運びだす
 半円をかきおそろしくなりぬ
その2
 荒涼と珈琲がつくくちびるに
 貝が死ぬもうしばらくの音楽よ
 戦車きてぴかりぴかりと光りけり
 長指になってどんどん独立する
 柱頭がしずかに狂う美術館
 海のなかへ電車がはいるまでねむる
 永遠はコンクリートを混ぜる音か
 流れつくこんぶに何が書いてあるか
 恋しげに鼻血は出でてきたりけり

「阿部青鞋俳句全集」 暁光堂俳句文庫

阿部青鞋の代表句、

半円をかきおそろしくなりぬ
永遠はコンクリートを混ぜる音か

はここに収録されていたのですね。この連作を通して、「半円を」のような句は、この句以外にでてこなくて、かなり異質にみえるのですが、これだけの句群に挟まれていると、その違和感すらも調和する気持ちを覚えました。

今回の句集は新かなで書かれているのですが、拗音や促音の小さい文字が挿入あされることで、第一句集、第二句集の軽やかさがさらに跳躍したように感じました。

これらの句群を通して改めて感じるのは、ひらがなの多さ。先ほどの「半円を」もそうですが、「おやゆびと」「赤ん坊ばかり」「荒涼と」「流れつく」あたりの句は、本来ならば漢字でかける用語もひらがなを意図的に選択していて、どの部分に漢字を残すか、ということをかなり意識されているなと感じました。
ひらがながたくさん出てくることによって、普段の漢字の世界では見えない、空想的で、寓話的な世界観が表出されていて、それが阿部青鞋の不思議な措辞と共鳴していると感じました。
ひらがなの多さについては、阿部青鞋が古俳諧を研究していたとあり、その事が少なからず影響しているのではないかと。このあたりの比較も今後していけたらと思っています。

また、ひらがなが多くて、不思議な句をつくる俳人といえば、もうひとりの阿部、阿部完市(あべ・かんいち)が思い浮かびました。阿部青鞋と阿部完市ではどのような違いが在るのか、改めて気になりました。こちらもできれば比較していきたいですねえ…(技量問題あり過ぎですが)

いたりやのふいれんつえとおしとんぼ釣り
すきとおるそこは太鼓をたたいてとおる
ねぱーるはとても祭で花むしろ
たすけてほしいのです洋梨くるりくるり
ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん

現代俳句協会データベース「阿部完市」

そして、第一句集、第二句集と比較して気になったのは、季語の少なさ。季語はないのですが、前後にある季語の句から、季節の質感を感じる句が多いなと感じました。
例えば、「半円を」は秋の季語の並びに、「柱頭の」は夏の季語の並びに、「永遠は」は夏と秋の季語に挟まれて、など、前後の句によって、季節が表出していくところも、とても興味深く思いました。



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