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攝津幸彦選集を読む①
第一句集「姉にアネモネ」は、1973年に出版。(この句集に収録されている一部の句は、第二句集にも収集されているという注意書きがあり)
感銘を受けた句を挙げます。
ことにはるかに傘差し開くアジアかな
姉にアネモネ一行一句の毛は成りぬ
愛は暗し太きほとけを流しをり
一毛や夢のあたりに浮く赤児
暗黒の黒まじるなり蜆汁
春巻きを揚げぬ暗黒冬を越へ
一月の弦楽一弦亡命せり
みづいろやつひに立たざる夢の肉
天秤の弱き姿勢や寒卵
六月の紙燃ゆ皇后研究会
暗闇くぐる赤き鼻緒をあらはにし
一読して、自由な措辞が並んでいるなと。特に季語に至っては、句集を読む限り、あまりでてこない。逆にその部分が浮かび上がってくると感じました。また、攝津幸彦自身が広告の仕事に携わっていたこともあり、いわゆる広告的な措辞のあり方のようなものも個人的には感じました。句集タイトルの「あね」の繰り返しもそうですが、句群を読むと同じ音や母音がリズミカルにでてくるようなところが印象的だなと。
この選集、実はかなり前に入手したものなのですが、改めて巻末のインタビューを読んでみたら、攝津幸彦の俳句観が語られていたので、その一部を引用したいと思います。
五七五の定型だけは守ろうという意識はあるが(中略)季語を、特に季感を大切にしようなんてことは全く思ったことはない。
「なんか変だな」ってことにしつこくこだわる。クエスチョンマークが三つくらい頭に浮かぶようなこと。
このインタビューをよんで、季語を全く意識していないことはびっくりしました。インタビューの中では「懐手」という言葉を季語と知らずに使っていたとあって、季語というよりも言葉の感覚として句を成立させようという意図があるのだと感じました。
季語は気にしないと発言されている一方で、高濱虚子の一方で、「流れゆく大根の葉の早さかな」「川を見るバナナの皮は手より落ち」といった句が大変好きと述べていて、俳句然とした、原初に帰るような句を書きたくてしょうがない、とも語っています。
これらの攝津幸彦の俳句観を念頭に置きながら、以後の句集を読んでいきたいと思います。(つづく)