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高濱虚子五句集を読む③

第三句集「六百句」は、昭和16年(1941)~昭和20年(1945)の句をまとめた句集。昭和21年(1946)年発行。序文に、「ホトトギス」600号を記念して発行されたとあります。

以下、感銘を受けた句を挙げていきます。

昭和十六年(1941)
 牛も馬も人も橋下に野の夕立
 夕闇の迷ひ来にけり吊忍
 秋風に噴水の色なかりけり
 冬の空少し濁りしかと思ふ
 戸の隙におでんの湯気の曲り消え
昭和十七年(1942)
 たんぽぽの黄が目に残り障子に黄
 黴の中わがつく息もかびて行く
 活溌にがたぴしとおいふ音すずし
 秋灯の下に額を集めけり
 又例の寄せ鍋にてもいたすべし
昭和十八年(1943)
 
都鳥飛んで一字を画きけり
 今日ここの花の盛りを記憶せよ 
 スリッパを越えかねてゐる子猫かな
 隣り合ふ実梅の如くありし事
 冬空を見ず衆生を視大仏
昭和十九年(1944)
 
芽吹く木々おの/\韻を異にして
 蒼海の色尚在す目刺かな
 よき蚕ゆへ正しき繭を作りたる
 此頃はほぼ其頃の萩と月
 一塊の冬の朝日の山家かな
昭和二十年(1945)
 
書読むは無為の一つや置炬燵
 目薄くなりて故郷の梅に住む
 紙魚のあとひさしのひの字しの字かな
 秋蝉も泣き蓑虫も泣くのみぞ
 枯菊の色をたづねて虻来たる

この句集では、以下のようなよく知られた句も収録されています。

水打てば夏蝶そこに生まれけり
大根を水くしやくしやにして洗ふ
向日葵が好きで狂ひて死にし画家

1941-45年にかけての句集ということで、全体のトーンとして、賑やかな句を詠んではいけないというような風潮があると感じました。(それでも戦時下において、これだけの句会をしていたことは少し驚き。)第ニ句集にあった、戦勝句が全く収録されていないのは、終戦直後の句集とあって、GHQなどの眼を気にしていたということだろうか。戦後直後に本を出版できた虚子の社会的な立場も考えさせられました。
第二句集のときにも感じたのですが、季語を借りて今の社会を読んでいるような句(深読みできそうな句)が多数あり、このあたりの読み解きも興味深く、同時に、そのように読み解かないといけないような構成にもなっていて、素直な句群として読みづらさも感じました。

此頃はほぼ其頃の萩と月

今回、私が一番気になった句。小諸に疎開した直後の句の一つ。
指示語の「この」と「その」が効果的に使われていると感じていて、萩(近景)と月(遠景)という、いわゆる季重なりとなっているが、秋の空気感全体を示したものになっていて、指示語の表すものとして、具体性が現れているなと。
「其頃」が、もはや過去の、もう戻ることが出来ない、記憶の中にあり、此頃=此岸(今生きている世界)をさらに印象づけさせるような句になっていて、秋の「萩と月」の美しさ、寂しさ(そして、月の満ち欠けという、破壊と再生)という意味もあって、より普遍性があると感じました。

牛も馬も人も橋下に野の夕立 

橋の下にいろんな生き物が犇めきあっている様子がみえて、田舎の夕立の景として立ち上がってくるのがおよかった。(そして、その後空襲などで防空壕に身を寄せる景もほのかに想像させてしまう。)

戸の隙におでんの湯気の曲り消え

戸が完全にしまってないことから、人が出入りしたを感じさせ、おでんが美味しそうに煮えている様子も伝わってくる。おでんが窓辺で煮られている感じも、おでんらしさがある。他の鍋物はもっと座敷などで食べると思うので。ガラス戸もおでんの湯気で曇ってる感じもみえます。
この句集のなかでは、裏の意味があまり感じなくて、ほっと息ができる句でした。

句集という位置づけのほか、歴史書としての句集という意味でも、考察の意義に満ちた一冊になっていると感じました。(つづく)


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