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攝津幸彦選集を読む⑤

第七句集「『鹿々集』抄」は1996年発行、第八句集「『四五一句』抄」は1997年発行。「鹿々集」発行ののち、10月13日に攝津幸彦この世から去ってしまいます。
第八句集「四五一句」は、攝津幸彦の死後に発行された句集であるものの、掲載する句やあとがきに至るまで、生前から攝津が周到に用意されたとあり、実質攝津自身が編んだ句集となっています。

以下に、心に残った句を挙げます。

「鹿々集」抄
 食ふ部屋と寝る部屋ひとつ沙羅の花
 かたつむりあつまる陛下なみだぐむ
 鹿々と日月火水木金土  
 花嫁の大きな影の明治かな
 チェルノブイリの無口の人と卵食ふ
 花眼にて虚子全句集もて余す
 ぶらぶらを春の河まで棄てにゆく
 鐘楼の如く静かに昼御飯
 アジア昏れ箪笥長持どの子も欲しい
 平成も昭和も嫌ひ韮・蒜
「四五一句」抄
 芭蕉庵桃青机下にバナナバナナ
 寒雷のひとつしばらくして無数
 江戸の空東京の空秋刀魚買ふ
 春二番成瀬巳喜男のチンドン屋
 旬の手を振りあふ都バス運転手
 芋煮たの秋刀魚焼いたの人死ぬの
 捺印すわが春景の全面に
 ビーフカリーは最も淋しい朱夏である
 前衛に甘草の目のひとならび
 桜餅ひとつの次のふたつかな

「『四五一集』抄」は、攝津の代表句としてよく挙げられる、

履歴書に遺す帝国酸素かな
蝉時雨もはや戦前かも知れぬ
春ショール春の波止場に来て帰る

の句も掲載されています。

前回の感想でも述べたのですが、攝津幸彦の句が後半になるほど、より俳諧に近くなるなと思ったのですが、この2つの句集もそのように感じました。
最後の句集となった「四五一集」は、紙が燃えだす温度の451℃であることから、俳句と広告(雑誌)に生きた攝津らしいタイトルの付け方であると同時に、高濱虚子五句集(それぞれ、「五百集」「六百五十集」など、句集に収録された句数がタイトルになっている)を想像させて、虚子へのなんらかの影響、もしくはオマージュといったものを攝津は考えていたのではないかと想像させます。

わかりやすいところで言えば、

前衛に甘草の目のひとならび
桜餅ひとつの次のふたつかな

上記のそれぞれの句は、

甘草の芽のとびとびのひとならび(高野素十)
三つ食へば葉三片や桜餅(高濱虚子)

の二句をやはり思い浮かべます。「攝津幸彦を読む①」で参照した1994年のインタビューの中で、攝津は「流れ行く大根の葉の早さかな」「川を見るバナナの皮は手より落ち」などの虚子の句を挙げたうえで、「非常になんでもない句、しかし俳句然としてそこにある句、原初に帰る句、そういう一句を書きたい」と述べていて、そういった姿勢がこのいたビュー後の二句集にはより現れていると感じました。

初期の句集あたりにくらべると、「非常になんでもない句」という部分に重点が置かれていて、全体的に読みやすいと思ったのですが、読み方によって意味が重層的になるもの、また日本語の表現を活かした句がいろいろありました。

例えば、

履歴書に遺す帝国酸素かな

の句は、「帝国酸素」という文字列の内包する強さや質感の巧みさとともに、「履歴書に遺す/帝国酸素かな」「履歴書に遺す帝国/酸素かな」とも読めて、それぞれの読み方で違った質感に。(さらにいえば、「帝国酸素」という実在の会社があることも、さらなる解釈に拡がっていきます。)

また、

芋煮たの秋刀魚焼いたの人死ぬの

は、「の」の使い方が面白い。
どの「の」も、「~したもの」の省略形の「の」とも解釈でき、また終助詞の「の」でもあるようにも、機能している。
さらに、終助詞の「の」は、イントネーションによって、和らいだ断定にも疑問にも解釈できるので、それぞれの「の」に3通りの解釈があり、合計27通りの解釈が発生する事態に。こういう一音のあり方のテクニックは、初期の作品でもよく見られていたのですが、この作品ではその純度が高いと感じました。

と、あげていくと切りがないのですが、攝津自身が広告の仕事に携わっていたこともあり、言葉ひとつひとつに対する、文字一つ一つに対する尖りがよく見えてきます。特に、今回挙げたような、後半の句集では、俳句の中に揉まれていく攝津自身も見えてきて、季語の質感も、前半のもつそれとはかなり異なっていると感じました。攝津は「俳句を書く」と表現しているところも、攝津らしい。

攝津幸彦作品は、「なんだかわからないけどわかる」という感想になる句が多いなと感じていたのですが、この「攝津幸彦選集を読む」を通して、原初的な言葉がもつ力、文字列としての純度がそうさせているのかもと思った次第です。

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