波多野爽波俳句全集を読む②
第二句集「湯呑」(1981年、現代俳句協会)
第二句集は、第一句集以降の26年間の句から、300句近く掲載。三島由紀夫が角川「俳句」に寄稿した文章「波多野爽波・人と文章」(1968年11月)と草間時彦による解題付き。編年体で構成されています。
前回同様に、年代とともに感銘を受けた句を挙げます。
1954年から1981年の出来事を巻末の年表とともにまとめます。
1957年 「山火」(福田蓼汀主宰)、「菜殻火」(野見山朱鳥主宰)、「年輪」(橋本鶏二主宰)、と四誌連合会発足。四誌連合会賞の選者に中村草田男を招聘
1959年 高濱虚子死去
1962年 関西現代俳句協会発足。地区委員として、堀葦男、鈴木六林男、赤尾兜子、島津亮、橋閒石、丘本風彦、八木三日女とともに名を連ねる。
1965年 四誌連合会解散
1968年 角川「俳句」に三島由紀夫が「波多野爽波・人と文章」を掲載
1970年 三島由紀夫市ヶ谷にて割腹自殺
第一句集から第二句集までの間、かなり空いたことについては言及はされていなかったのですが、三島由紀夫に作品を見ていただいているという意識で作句をしているということだったので、三島の衝撃的な死も少なからず影響しているのかなと少し感じました。また、第三句集の巻末によれば、”仕事と「青」の両立で心身ともに悪戦苦闘の連続であった”とあるので、このあたりも句集の編纂に大きく影響していたのではないかとも感じました。
句群を通して、言い切ることとの厭わなさは、第一句集から通じてあり、とくに詩情があるという意識や、この部分は写生しないだろうという部分の意識よりも、ぱっと書き取るというような意識が強く働いているのだと思いました。例えば、「石榴みな」「左義長の」あたり。
今回の句集では、上記の句の中から、ぱっと書き写した世界から拡がる景色の深みが気になりました。
「本あけて」「青柿の」「青天の」あたりに垣間見える、写生と主観の相混ざった感覚。
また、「紫陽花の」「水洟や」といった、おそらく偶然そういう状況が存在しただろうという場面を切り取ることで、発生する不穏さやモダニズムのようなもの。これらの句は、ホトトギスの大先輩である
における、客観写生を想起させます。
こういった「詩情」(たぶん波多野爽波はそう思ってないだろうと思いますが)を自分は大事にしたいなと思いました。(つづく)
追記
同じく波多野爽波俳句全集を読んでらっしゃる、ちーかまさんのブログは、下記のリンクからご参照ください。波多野爽波の句のまた違う魅力が伝わると思います。
参照
「波多野爽波俳句全集」、暁光堂俳句文庫 2022
波多野爽波https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E7%88%BD%E6%B3%A2 2024.07.17 時点
高濱虚子https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%B5%9C%E8%99%9A%E5%AD%90
2024.07.17 時点