見出し画像

ひつじぐも原作/かほく麻緒『濡羽の家の祟り婚 春の章 渇き』序章

『濡羽の家の祟り婚 春の章 渇き』は物語の主人公となって聴く物語仕立ての音声コンテンツです。CDや音声配信で購入できます。このnoteは11月10日に発売したノベライズ(小説版)の一部になります。



■序章

 岡山県の山村にある谷家の屋敷は、安政七年に建てられた邸宅で敷地面積はゆうに百坪以上、豪邸といえる広さがあった。外壁は渋墨塗りの黒一色で塗り固められており、その上屋敷は高い塀ですっぽりと囲まれているものだから異様な雰囲気があった。世間から隠れるようにひっそりと、けれど威圧的な存在感を露わにするその屋敷を村の人々はこう呼んでいた。

 ――憑きもの筋の家。

 畏怖の目で、または好奇の目で、谷家の人間とその屋敷を見る。決して近づくな取り憑かれたらどうなることか。だから婿の来てもないのだよ、ああ気味が悪い、恐ろしい、どうしたものだろうねえ。そのような陰口は耳に入らなければなかったも同じだが、田舎の人間とはどうも噂話が好きである。

 ――谷家では男が産まれないらしいよ。

 ――本当かい? 私は男子が産まれたら必ず憑きものに取り憑かれるって聞いたねえ。

 ――でもあそこの娘はやたら器量がいいじゃないか。

 ――ふふ、あんた憑かれるよ。谷家の娘にとって食われないようにしなさいな。

 ――ああ、くわばらくわばら。

 くわばら……くわばら……――。


 女が顔を上げた。

 春風のよい香りに誘われて顔を上げたのだが、広い庭に春を知らせる花はひとつもない。女の長い髪が流れるように風にすくわれ、細く白い指先が乱れかけた髪をやんわりと抑えた。その仕草はたおやかで繊細で、肌の白さのせいだろうか女はまるでそこにぼうっと浮かび上がった亡霊のようにも見えた。

 女の名は、千代と言った。色白で陶器のような肌をしており、女性らしくふっくらとした肉付きときゅっと足首の細い美しい女だった。どこか自信のなさそうな憂いを含んだ表情は扇情的でさえあり、物憂げな瞳と何を語るでもない唇は何もしないのに潤っているし、うなじの白さは卑猥さを感じさせるほどで、顎から首へかけての線は手折りたくなるほど華奢であったため、大抵の男はよからぬことを想像して生唾を飲み込む類の女に違いなかった。

 良くも悪くも、そこにいるだけでゾッとする女。ゾッとするような美しさ、ゾッとするような空恐ろしさ。ふたつを兼ね備えた女、千代は、薄く唇を開くと短いため息を吐いた。

 春先といえどもまだ肌寒い。千代は、体が冷えてきたとぼんやり考えながら屋敷内へ足を向けた。すると、それとほぼ同時にいつもより焦った様子の足音が屋敷の奥から聞こえてきた。少しびっこを引く特徴のある足音に、千代は急いで屋敷へと足を進めた。

「千代。千代」

 足音の正体は、千代の母弘子であった。弘子は千代の姿を見つけると、安心したように足を止めてひと息ついた。急いで歩いたせいで痛むのか、自身の足を少しさする。その指先は千代と同じく細く繊細でどこか艶めかしかった。

「そんなに急いでは駄目よ、お母様。足にさわるわ。呼んでくださればすぐに戻ったのに」

「ええ。ええ、分かっているのだけど」

 千代は母を案じながら屋敷に上がり、弘子の足に負担がかからぬよう支えてやった。弘子は安心した顔で深く息を吐きながらありがとうと微笑む。

 美しい母娘が広い庭園を背景に縁側で寄り添う姿は絵になった。けれど千代のほうは、自分が美しいことを少しも知らずにいる。母がいくら千代を可愛い可愛いと褒めそやしたところで、ずっと憑きものの家系で忌み嫌われていた千代にとっては親の贔屓目だとしか思えなかった。

「それでお母様。何かあったの?」

「それがね、驚かないで聞いてちょうだい。――うちにね、婿に入ってくださるという方がね」

「え?」

 千代は息を詰めた。

 自分はこの先一生、独り身なのだと思っていたからだ。生まれてこの方、二十年間ずうっと、千代は男性から好意的な目を向けられたことがない。大衆小説の中でよく目にする『恋愛』というものに憧れないわけではなかったが、自分には到底無縁のことだと思っていた。それに、この家は「憑きもの筋の家」であると言われ近隣住民から忌み嫌われていた。婿に出したいなどと思う家があるはずもない。

 落ち着きなさい千代。千代は勝手に騒ぐ鼓動をひそかに叱責した。気を抜くと、支えてやらなければならない母の体から手を離しそうで、一度小さく身を震わせてから気を引き締める。

「それで。お母様、どういうことなの?」

 弘子の手には一通の手紙が握られていることに、千代はたった今気がついた。わざわざお手紙までくださって……、でも顔も見たことのない女を妻にしてくださるなんて。そんなこと。

「あなたもお父様から聞かされていたでしょう。お父様とお仕事をなさっていた松本正和さん」

「え、ええ。お噂はかねがね……。でも、それがどうして」

「お父様と約束なさったらしいの。うちのことを頼むと」

 千代は再度息を呑んだ。弘子の言う通り、松本正和のことは話に聞いている。けれどどうして。なかなかの好青年だ、頭もよく切れる、と父は時折口にしていた。だがまさか婿に来てくれるなど千代も弘子も初耳だった。

「本当なの、お母様」

「何故嘘を言うの」

 弘子は千代に手紙を握らせながらそう言った。千代は手紙を広げてみる。美しい流れるような筆致、けれども男らしいどこか骨ばった文字がそこには並んでいた。

 確かに弘子の言うようにしたためてある。だがまだ千代はどこか信じられずにいた。

 だってうちは憑きものの家だと言われているのだもの。そんな家へ婿に入ろうなどと、物好きとしか言いようがないわ。それにまだ、父の四十九日も過ぎていない。喪が明けぬうちからというのはどうにも前向きになれなかった。

「どこに不服があるの、千代」

 たしなめるような声と視線が千代を突き刺す。

「いいえ。いいえ、お母様。不服だなんて。とてもありがたいお話です。でも」

「千代」

 弘子は支えられた千代の着物をぎゅっと握った。立っているのはつらいだろうと、千代は支えながらゆっくりと弘子をその場に座らせる。ふう、とひと息ついて弘子は顔を上げた。

「千代」

 もう一度千代の名を呼ぶ。

「もうずっと婿を探しているの。あちらから言っていただけるなんて、この上ないことよ」

「ええ、分かってます」

「千代」

「分かってます、お母様。違うの。私はただ……、こんな私でいいのかしら」

「何を言うの。あなたはとても綺麗よ。どこに出しても恥ずかしくないくらい、美しい娘だわ」

 千代は黙りこくった。母の言葉を信じないわけではない。だが、松本正和といえば、あの厳しい父が認めるほどの青年である。夫として申し分ないことは重々も承知の上だが、千代の胸には重く圧し掛かるものがあった。

 不安だったのだ。千代には男性経験がない。経験がないのは当然のことかもしれないが、男性とまともに話したことすらないのだ。本当に自分で良いのだろうか。婿に入ってもらってからやはりどうも無理だと言われたのでは、弘子の落胆ぶりは想像もできないほどのものになるだろう。

 自分はきちんとできるだろうか。妻、というものを。

「――本当にありがたいお話よ。谷家とは関係のない方だもの」

 横たわる沈黙の中、弘子が静かに呟いた。千代はどういうことだろうと弘子を見たが、母はただ春風にそよめく庭の草木を見ているだけだった。

 父、清が病没してから弘子は少し痩せた。ぼんやりとしていることも多く、時折悪いほうの足をさすってはため息を吐いていた。千代は父がいなくなり寂しいのだろうと予想していたが、それは女しかいなくなった谷家の未来を憂いていたのかもしれない。

「お母様。もちろんお受けいたします。嬉しいのよ、本当に」

 弘子は千代の背中を安心したようにさすった。小さな手だ。千代よりも小柄な弘子は、いつもどこか頼りなくそれでいていつも悲し気だった。

 顔合わせで松本正和の指定した場所は、岡山市内にあるホテルの喫茶室だった。そこへ向かうためには車を呼び、電車を乗り継がねばならない。

 谷家は岡山といっても深い山間に位置するへんぴな場所にあり、市内まで出るには時間を要する。わざわざ自分たちを市内まで呼ぶのは配慮だろうと弘子は言った。屋敷まで来てしまえば断りは入れづらい。おしゃれしていきましょう、と弘子は出発前時間をかけて千代の髪を結った。長いこと鏡台の前に座らされ自分の顔とにらめっこをしながら、千代は何度も何度も考えた。松本正和さんとはどんな方なのかしら。お父様はあんなことを言っていたけれどとても怖い方だったらどうしょう。お仕事のできる方なのだから頭も良くてらっしゃるだろうし何をお話しすればいいのやら。

 そんなことを悶々と考えているうちに、弘子の長い髪結いは終わったのだが、千代は鏡の中の自分を見ても別段いつもと違うとは思えなかった。弘子には申し訳なくて言えなかったのだが、どうしたって自分は自分だ。違うことといえば、普段よりも上等な着物を身に着けることくらいだろうか。

 ホテルにつくまでも変わらず、千代は考えたとて仕方のないことを逡巡していた。

続き⇒



この続きは『濡羽の家の祟り婚 春の章 渇き』ノベライズでお楽しみいただけます。

ひつじぐも原作/かほく麻緒著『濡羽の家の祟り婚 春の章 渇き』ノベライズは11月10日に発売予定です。

原作の『濡羽の家の祟り婚 春の章 渇き』はミステリー音声ドラマとしてamazon、ステラワース、アニメイト主要店舗等で好評発売中!

©HITUZIGUMO(禁転載)

ひつじぐもは各作品のメディアミックスに積極的です。当社のIPに興味がおありの法人様、是非お問い合わせください!

https://hitsujigumo.co.jp/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?